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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 終鐘 ◇ 本性 ――――――
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◍ 四大世界樹の眼下 雨夜の月


「涙」の字源説は不十分である。

 だが、 “落ちて跳ね返り、戻る水” という心象からかもしれないと、絵や文字を操る神仙――畵仙がせんらは語り継いできた。

 涙というものをそのように見せる何かが、眼前にあったのだろう。字を読み解けば、初代が何を目にしていたかが分かると―――。







         ――――【 はじまりの花木 】――――



 何がどこまで真実かを断言できるのは、今も昔も、歴史の当事者しかいない。

 ただ、ここにまた一つの説が、真実味を帯びることとなる。


 大昔、ある男が “天梯てんてい” を使って月に渡った。万民に平等な命をもたらそうと、長寿の霊薬――甘露を垂らす花、その果実を、月から盗もうとしたのだ。神々のためのものだったのに。


 甘露は月の地下深くにのみ凝っていた。別名は変若水おちみず。それを手にするための道具として、神々に植えられた―――生み出されたのが、花木のはじまり。世界最初の大樹である。

 盗人ぬすびとたる罰として男は月に永住を命じられ、伐っても伐っても生えてくるこの花木から、霊薬を作り続けることになった。後に “月夜神つくよがみ” と仰がれる。彼をある鬼族の根源と考えた時、すべてが距離を縮めて、一つの答えとなる兆しが現れる―――。




―― * * * ――







「うそでしょ……」


 椿奈チュンナは驚愕のあまり、硬直していた。

 西の上空。藍色の星空を炙っている陽炎の向こうに、厳めしい金銀の楼閣群がにじみ上がってきた。

 蜃気楼だ。

 その背景に、森の木々の根に固められた都市が見える。


 丹色の砂岩を彫刻した巨大な盛り塚のようなその頂上部分を、化け物じみた花木が、無数の根で鷲掴みにている。

 碧玉の葉と、火珠のような実の重みで、枝がたわんでいる。

 人々は白布の端を持ち合って広げ、かき集めたこの天樹からの恵みを浴びるように堪能するという。

 瀉崟界人原さごんかいじんばらが、これぞと誇る八俣若榴やまたざくろの世界樹である。はじまりの花木が具えた甘露の果実とは、若榴だと唱える者たちが住む世界、西閻浮巉せいえんぶざん―――。




 桐騨とうだは、対する東の空を仰いで言葉を失った。

 先んじて出現していた松原と巨大石柱群の浮島――東扶桑巉ひがしふそうざんは、宵の口に入ったあたりから、聳え立つ黒い影にしか見えなくなっていた。

 それが今、除幕の時を迎えたように、雲間から顔を出した月からの射光を受けて色彩を発し始める。

 青々とした奇岩や奇樹のいたるところから滝が流れ落ち、風に吹き上げられている。

 そこに、朝にしか満開にならないはずの花のすだれがなびいていた。


「信じられん……」


 扶桑花ぶっそうげだ。

 豊満に咲き開いた純白の花弁から、金の砂子をまぶした花芯を垂れ下げる。

 これは半日と持たない短命な花だが、翌朝、新たな蕾が開き、果てしなく咲き連なる。滝から舞う霧状のしぶきに煽られ、花芯だけではなく、枝葉からも蜜を滴らせる瀧髯界人原ろうぜんかいじんばらの世界樹の花。

 鳥や蝶がこれを好み、まさに楽園を象徴するという。

 はじまりの花木から得られた甘露とは、扶桑花ぶっそうげの蜜だと唱える者たちが住む世界。


 月光に追い立てられるように、そこから大量の羽蟲が飛び立つ―――。







         ――――【 地獄に咲ける天樹 】――――



 神々の命を長養する真水と、美味な果実を得るわざとして生み出された花木の神は、献身的で、心優しい月夜神と愛し合うようになった。だが、月の地下水を吸い尽くし、ついに命の尽きる時を迎えてしまう。

 彼女となら、永遠に続けばよいとさえ思えた月夜神の贖罪、その使命は決して永遠ではなかった。


 悲しみは続く。

 月の恵みを万民に分け与える約束を神々から取り付け、終わりなき労働を科されながらも、願いを叶えたはずの月夜神だったが、それはいくらも下界に届いていなかった。

 一部の神々が約束を破り、独占していたからだ。

 命の平等をもたらすどころか、下界に行き渡らなかった恵みはむしろ争いを招き、戦火の渦を巻き起こしていた。


 月夜神は「涙」という水を自ら生み出し、花木の神に捧げたがどうしても足りず、彼女は死という解放を望んだ。



*――そんなに死にたいのか……



 こうして水を失い、花木の神を失って干からびた原初の月は、無惨にも砕け散ってしまった。



 月夜神の慟哭が上がり、世界から一度、月が失われた時、そこに存在した様々な自然現象が消失し、あるいは暴走を起こしたと、初代畵仙(がせん)は記録している。

 緑地も海も砂漠となり、風が牙を剥き、朝と夜、光と闇、時の流れまでもが乱れ、神々は恐慌に陥った。

 月はすべてを育む世界の核そのものであり、破滅させる源であったのだ。

 ゆえに世界は一度、滅びかけた。




―― * * * ――






 凄まじい重力をかけて、自分たちをひざまずかせたものの正体が分かったかもしれない――。


 北極星を中心に、 “紫薇垣” と謳われる星座群を背に配し、最後に現れた北紫ほくし薇巉びざん臺霆界人原だいじょうかいじんばらのそいつは元来異質だが、この時ばかりは異状という方がふさわしかった。


 

 大陸の底に、逆さまに根付いている紫薇花サルスベリの巨樹が、雷雲の発光を孕んでいる。

 しなやかな万朶まんだに咲き開いた花房は、微かな大気の揺れにもそよぐ。

 くすぐられて笑い、嫌がるような動きを見せるため、「くすぐりの木」・「怕痒樹はくようじゅ」とも呼ばれる。

 それが、雲を受け流しながら降りてくるように見える。


「なにが起こってるんだよ、これ……」


 梨琥りくは、今までにないその出現の仕方に、思わず尻もちをついていた。恐るべき光景だ。視界に収まりきらなくなってくる。


 祖国が内包されている大地の底を見上げ、菊羽ツェンウェイも呼吸を忘れていた。

 あり得ない現象起きている。北紫薇巉ほくしびざんは、四大陸中もっとも高い虚空にあるが、どの世界の視点に立っても斜め頭上の遠方にしか見られず、底部を全体的に把握できたことはない。


 ささざめく花枝の合間に覗くそれには、濃淡の模様がうかがえ、まるで月面だった。金銀の砂子に輝く逆さまの岩山から、鯨波げいはの如き喊声かんせい――いや、歓声が降り注いでくるように感じるのは、自分だけか――?



天蓋樹てんがいじゅ……」


「っ…?」


 芳桜は耳を疑って振り向いた。

 呟いたのは菖雲だ。やはり彼も、思考を乱しているらしい。

 今、目にしている世界樹は逆さ木―― “玄雲梯げんうんてい” である。

 天蓋樹はうてなの国生み神話に出てくる巨樹で、頭上から逆さに降りてくるように見えたという点は同じだが、その他の特徴が紫薇サルスベリである玄雲梯とは違う。


 紫薇サルスベリの枝先に集まった銅色の蕾は、巫女が振る神楽鈴のよう。猿も滑り落ちると譬えられるほど、うねりの強い滑らかな万朶には、脈々と広がるすさまじい生命力が表れている。


 琥珀色の花粉を吹き、満天に紫雲を成す波打った花びらたち。

 その歓喜が、いよいよ押し迫ってくる。地獄と化した地上と相対してもたらされる飛花は、慈雨や瑞雪の煌めきそのもの――……。



 菊羽ツェンウェイはふと、耳が詰まるような感覚を覚えた。鼓膜の内奥に、昼間、思いがけず聞き入ることになった物憂げな声がよみがえってきた。




*――夜覇王樹(セレイアス)の民が、

   現在のうてなの地を獲得した北方の覇者でありながら、

   後のちの世において、

   罪人同然の運命に拘束され続けてきた理由を――




 常葉臣ときわおみに、なぜ神孫としての来歴を誤魔化そうとさせてきたか、考えたことはあるか。





*――なぜ蓮家の花人が “紫眼” に生まれつくのか――……



 月神を “造世神霊ツクヨミ” と称し、この瞳が、創造主の脈印とされているのか。




 脳裏に散らばっていたすべての問いかけが、繋がってくる。

 だが、一度砕けたことが明らかな北紫薇巉ほくしびざんそのものであるかのように、結合したところで、ちぐはぐなパーツのまま、しっくりとはこない。



*――なぜ、水を崇め、万物を育みながら、その――……

   天にも劣らぬ美しい楽園に、戦火をもたらした人間の末裔を――



 “花人” を名乗る異端な鬼となったのか。



《 祖先の夜覇王樹セレイアス・ランサが、龍王の乱心に乗じて自身も大暴れし、千年大戦の火ぶたを切ったのは、実は “足抜き” を謀はかるためだったという解釈がある。天柱地維たる世界樹の務めから、己を解き放つための破壊行為だったということだ…… 》


《 一方、龍王の乱心は、その “龍眼” を欲した悪神にそそのかされたことによるという裏話があり、二つの事実は結びつきそうな距離感を、今も保ち続けている―― 》


 

 花人は “ただの夜叉” ではない。



《 祖先の夜覇王樹セレイアス・ランサが恐ろしい鬼神である反面、水と聖樹を崇拝してきた根本的な理由は――…… 》




「これは……、目の当たりにしてよかったものなのか? 飛蓮フェイレン


 長い尾ひれを引く半透明の水霊ミズチが、上空を泳いでいる李彌殷リヴィアンの現状と重ね見ているため、夢見心地になるくらい幻想的な光景ではあるが、いっそ幻であるほうがいい気がする。


 一人、陽炎を吹き上げる光の壁の向こうへ行ってしまった彼に菊羽ツェンウェイは問いかけたが、無論、返事はない――。



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