◍ 阻止 | 後追い鼠
東央市楼――。
《 ハハハッ、キャキャキャキャ…ッ! 》
蛇のように大口を開け、白目を剥いている女の盲鬼が、邏衛士たちを嘲笑っている。
単衣の寝間着姿、病床にあったと思われる痩せた体で、尋常ではない身体能力を見せつけていた。
曲芸師に調教された猿のごとく、屋根上で宙返りを繰り返す。
嬉々として街路に飛び降りるや否や、自ら炎に向かって突っ込んでいった。追ってこれるものなら、来てみろというのだろう。
「行くなッ! そっちはもう…っ」
地獄だ――。
都の各地で放火を広めようとしている盲鬼たちは、皆、地獄と化した景色に囲まれていながら生者であった。七魂の封じ損ねで動き回る死人に、これほど俊敏な奴はいない。それにしても、異常なほどすばしっこく、通常の盲鬼ではないことは明らかだった。
火だるまの街路樹の間を突っ走っていこうとしたその身体が、つと、横手から飛び出した髪の長い邏衛士に体当たりを食らった。
その邏衛士は、地面を転がりながら女盲鬼を捕獲してみせ、すかさず縄をかけた。煌々と燃え盛る炎の屏風が背景にあり、黒い人影にしか見えないが、誰よりも手慣れた様子で落ち着いているのが分かる。
女性邏衛士である―――。
「弾延、この人を安全なとこへ……」
威厳を放つ低めの声が、筋骨隆々の弾延を呼びつけた。
「うぃーす」
弾延は小走りで応じるが、狙っていた獲物を横取りされた形のため、少し不満げな顔だった。
その内心を見抜いている女性邏衛士は、忠告のような指示を突き付ける。
「いいか。手荒な真似はするんじゃない。無駄な馬鹿力を出さずに取り押さえろ」
「分かってますよ。 “大将” ――」
弾延の適当な返事を聞き届ける前に、彼女は再び火の粉が舞う中を走りだし、疲れ知らずの様子で盲鬼の捕縛に当たる。
× × ×
あくまで保護しなければならない生きた盲鬼たちに、手を焼いている邏衛士たちの様子をうかがっている者たちがいた。
各楼閣に出現している、巨大な玻璃状の結界越し――危機が過ぎ去るまで耐えきれるか、肩を寄せ合っている不安げな人々。
そして、路地の闇に固まっている “抜足鬼たち” だ。そいつらは、意味深なひそみねを交わしていた。
《 畜生……、まだ鼻がむずむずしやがる 》
《 さっき追いかけてきた、銀厚朴の根っこのせいだろう 》
《 都城隍め…… 》
《 俺の仲間もみんな捕まっちまった 》
《 どうする…… 》
武功を上げるならば、絶好の機会とそそのかされ、地上に出てきてはみたものの――。
天外宮の神堂司らによって召喚された水霊だろう。城壁、橋桁、市街のいたるところに貼られた呪符や扁額から、半透明の霊体がひっきりなしに抜け出てくる。
太刀魚に似た平たい鱗蟲で、遠目には、商船、軍艦などが掲げる燕尾型の長三角旗が飛翔しているように見えた。
城壁の姫垣上には、いつの間にか、白い外套をまとった集団が等間隔に顕現しており、印を結んだ格好で京城内を見下ろしている。奴らがおそらく神堂司――。
《 火災が起こっている間は “凌能門” が発動することはないだろうが… 》
《 あれはまずい。城外に出られなくなる 》
いっそ、目的を亡命に切り替えようか。抜足鬼たちは、あらためて額を集めた。豁然と刃をぶつけ合っている音と、雄たけびしか聞こえず、ここは殺伐としている。今のうちに上手く掻い潜って、鬼魅の森にでも逃げ込めれば…
「それはちょっと虫が良すぎるんじゃないか?」
《 ぬぁ…っ! 》
抜足鬼たちが次に発した声は、長々とした断末魔だった。
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しばらくして、血が滴る剣を払いつつ、邏衛軍・艮旗営副大将――伯義矛が路地の闇から抜け出てきた。
「どうやら、誰かに扇動されて地上に出てきたようだね。突破されたとしたら、どこの鬼門だろうか」
待っていたかのように話しかけてきた人物の背中に、義矛は「珍しいですな……」と返しながら歩み寄った。
「朝灘さま――。我々の働きぶりを、視察にでも来ましたか」
「買い物だよ、買い物。偶然、巻き込まれてしまった都民の一人さ」
朝灘というその男は、大火に囲まれているとは思えない、穏やかな苦笑を振り向けた。義矛と年は近いが、むさくるしさがある剛毛の彼と違って、文官のエリートコースを来た男らしい、紳士的な雰囲気を持つ。その瞳は苛烈な炎と相対する、深い藍色であった。
「立渦の神孫様は国宝級のご身分でしょう。今は台閣の人事を握っている珠聯補長でもあるあなたが、お一人でこの積四街に……?」
義矛は信じられないあまり、鼻で笑ってしまった。
「正直、対黒同舟花連のことが心配で来たんじゃありませんか?」
「心配などしてなんになる。私の下に彼らの臨時部署を作ったとはいえ、指揮権を有しているのは、あくまでも玉百合殿と飛叉弥なんだぞ?」
「 “もう一人” 追加されると小耳に挟んだのですが」
「ああ。でも、さっそく大変なことになったね。なんだか胸騒ぎはしていたんだ。今朝から、大気が妙にざわついていたから……」
躍り上がる火を瞳に宿している朝灘の横顔は、頬の皮が引きつれそうな熱量を発している光景を前に、あくまでも冷静だ。
「これは、久々にあるかもしれない」
「何がです」
朝灘はここで、義矛が見たことのない不敵な笑い方をした。
「穹海山原――― “四大巉の同時出現” ……」
義矛は常に鯉のような丸い目を半眼にしていて、滅多なことがない限り瞼を全開にすることはない。ただ、これにはさすがに武具をカチャっと触れ合わすほどの反応を示した。
「まさか……、夜にそろったことなんて一度もないでしょう」
「昼か夜かはもちろん、実は、気象条件も大して関係ないんだよ」
それは各世界に、ある種の “変化” が起きようとする前触れ―――。
× × ×
すっ…、と。次の瞬間、うなじを滑り落ちた氷塊に皐月は息を呑んだ。
その勢いのまま、流れ落ちてしまえばいいものを、執拗にわだかまる感覚。動かなくなった四肢が、異常を報せている。
鎖となって全身を駆けめぐった緊張を破ったのは、突如として胸を突いた一大轟音だった。
「な…っ!」
一泊遅れて、人々の悲鳴と絶叫が噴きあがる。
近い。
貞糺をおぶろとしていた探勲は、羊頭翼と対峙しなければならない危機的状況を脱したのも束の間、再び青ざめることとなった。
「その人頼むよ……、邏兵のお兄さん」
「えっ!?」
「おおお…っ、親びん!?」
「まっ、待ちなさい少年…ッ!」
一目散に走り出した皐月の背中が、見る見る遠く、小さくなっていく。
(…………行っちゃった。行っちゃったよ、またあの人は勝手に…っ!!)
絶句の末、蕣はガバっと後ろに腰をひねった。
「兄貴ぃ…っ!」
「なんなんだっ!? 彼はっッ!」
探勲もわけが分からないあまり八つ当たり口調となり、そこに取り残されている青い鼠を振り返った。
化け物を丸焼きにした化け物並みに強い美少年よりも、しゃべる化け鼠の方がまだ理解できる。
かつて、鉱山で働いていた者たちに、資源へとたどり着くための道具として利用されていた玉尾木鼠だろう。
“しゃべる宝石” の異名は、その鮮やかな毛色にちなんだものではない。お宝狩人にとっての案内人であり、発見器であったことを示している。
珍しいには違いないが、得体が知れないわけではなく、探勲は少年のペットだと思って答えを求めた。
だが、実際には今日、名前を貰ったばかりである。青丸にも、皐月の行動は読めておらず、沈黙しか返せない。
それでも、後を追うことならできる―――。
焦れたように、青丸は荒々しく舌打ちすると地を蹴った。




