◍ 炎で浣われる衣 | 夜隠月石の瞳
「風渡伏…ッ!」
大鎌の一振りとなった風が、立ち向かってきた羊頭翼数頭を、見事、いっぺんに斬り伏せる。
ふぅと一つ息をついた菊羽は、右肩で米神の汗をぬぐった。
肌にまとわりつく熱風に、伸ばし気味の金髪が揺蕩う。
辺りには人っ子一人いない。
皐月を捜しに来ただけのはずが、いつの間にか孤軍奮闘させられていた。
「たく…、あの寝ぼけ猫目野郎、どこ行きやがった」
武装状態であり、夜叉本来の容姿に近くなる “菊羽” への変化は、暗視などの能力も高まる。人間を装っている昼間の “嘉壱” では見通しきれない路地の突き当りまで、今は目を凝らさずとも確認できる。
今朝、立ち寄ったらしい方槊街、昼間に案内してやった土産物市場、茶楼も、いま評判の遊技場も、ゴミ溜めの中も
「……」
ちなみに、妓楼の中ものぞいてみたが―――、案の定、それらしき姿が見当たらなかったので、少し遊んじゃおっかな~、と浮ついた途端にこの状況。
街路にあふれていた人々は、どこに消えたのかというと――
菊羽は、背後の蟄仙洞の闇を肩越しに見た。
榕樹が張るたこ足の根が、掻き分けられたようになっているそこに、洞門がのぞいている。五蟲の繭や卵があった跡にできる穴だ。榕樹の古木は神仙や精霊の宿であり、文字通り “蟄居” に利用される。
階段で下りられるようになっている石橋から下をのぞくと、水路沿いには流坂洞があった。
皐月もひょっとしたら、誘導されて、これらの中に避難したかもしれない。
界口は鬼門と忌まれている反面、越境者や各界国間貿易のための窓口の他、壺中天のように独立した別空間として、有事の際の避難地下壕にもなる。
呪具や霊木だけでは封じ切れない鬼門も、検罪庁という “破軍星神府の出城” に見張られていて、悪鬼悪霊の類は、その目を盗まない限り、ここを往来できない仕組みだ。
炎上中の街中をさ迷うより安全なはず。近場に結界が作動する建物があれば、そこへ転がり込んだ可能性もあるが――。
× × ×
皐月はしかし、菊羽の祈りといってもいい想像を、ことごとく裏切る場所にいた。
火の手が迫る花街近くのど真ん中だ。あくまで、ひいなの家を目指していたが、街路がいつの間にか悪夢と同じ様子になってしまい、時間切れを迎えたのだと悟って、仕方なく向き合うことにした。
この、逃亡したくなってもおかしくない現実に―――。
「なんで逃げないんだ…っ!? あいつ、もしかして周りが見えてないとか…っ?」
耳も遠いのかもしれない。探勲はどう考えてみても、皐月に焦りが見られない理由としては今一しっくりこなかったが、とにかく保護しなければと動いた。
一方、反物屋の女店主――貞糺は、教えてやったものを羽織りながら、店先に戻ってきた皐月を手招きする。自分の前に再びしゃがみ込んだ彼の襟を正し、その衣の状態を確認した。
刺繍も地模様もない代わり、虫食いも一切ない。繊細な胡粉のきらめきが見られ、保存に気を使ってきたわけではないのに、相変わらず不思議な衣である。
「これはね、おそらくだけど、石綿糸で織り上げられてる」
「まさか、火浣布ですかい?」
青丸が敏感な反応を示す。蕣は疑わし気に目を凝らした。
二匹は貞糺の恐怖心が少しでも和らぐよう、抱き人形代わりを皐月から仰せつかって、彼女の腕の中にいる。
「ずいぶん物知りな鼠さんだこと」
こんな状況だが、貞糺は少し笑うことができた。
そう。かの “火鼠の皮衣” を、人間が再現しようとしてできたものだ。兵士の外套や移動式住居の天幕、香道の隔火具など、とにかく火気を気にせずに使える布として重宝がられていた。
青丸が神妙な面持ちを皐月に向ける。
「火鼠は “不尽木” という燃えない霊木に棲みついていましたがぁ、狩りつくされて、その棲み処も今や幻です」
「火に飛び込むと真っ赤とか、真っ白になったって聞きます」
だから、その毛で作られた衣も――と、同じく神妙だが、かわいい声で補説する蕣に続け、貞糺が皐月をまっすぐに見つめた。
「 “火で浣える” ってことさ……」
石から採れる繊維を原料とした火浣布も、焦げ一つ付かない。仮に真っ黒く染め上げたとしても、炎の中から出すと雪のような純白になると言われている。
汚れだけが、焼け落ちるのだ――。
皐月は腕を通した袖に目を落とし、数泊置いて、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「へぇ――……、それはなんとも――」
ありがたいと思っているのか、皮肉と思っているのか、聞いてみたい青丸であったが止めておく。この少年が、生まれながらの罪人・人間以下の存在と侮蔑されてきた夜叉―― “花人” であることは、もはや間違いない……。
人工火鼠の皮衣――火浣布は、繊維に毒性が認められたため、大研院が新たに開発し直した別物が出回るようになり、従来品は売り物にできなくなった。
本来なら台閣に回収されているべきものだが、先代の店主はどうもこれを、本物の皮衣と思っていたらしく、蔵にしまい込んでいた。
と言っても、やはり半信半疑だったのか、燃えては困る貴重な反物が入った箪笥の前に、わざわざ防火壁として広げてあった。ゆえに、皐月がそれを見つけるのは容易かった。
「不燃性として知られているとはいえ、どれほどの熱に耐えられるものやら。でも、羽織っていないより今はマシなはずだから、君にこれを…」
貞糺からそんな説明を受けていた時だった。
「そこの少ねぇぇええーーんッ!!」
振り向いた皐月は、店の斜向かいにある脇道で、艮営の邏卒たちと同じ服装をした男が両手を振っていることに気づいた。
「聞こえるかあああっ! ここは危険だあッ! 早く…」
羊頭翼の咆哮に言葉を遮られ、探勲は(ひぃいぃ…っ!!)と肩をすぼめた。
だが、いざとなったら都民の盾となるべき邏衛士が、尻尾を巻いて逃げるなど許されない。――いや、あの化け物の気を引きながら逃げるのはアリだろう。そうだ、完全に逃げ遅れているにも拘わらず、その自覚がないらしいのんびり屋少年を救うには、それしかなああーーい…っ!!
鼻息を荒くして、探勲はファイティングポーズを取った。
「橋の上にいる化け物が見えてるかあああっ!? 俺がオトリになるから、君はその隙に…っ」
「ああ、警察官っぽいお兄さん、ちょうどいいところに。その腰の剣、ちょっとこっちに投げてくれない?」
「えっ? こ…、これ?」
よく見ると、棚の影に女性の姿がある。倒れてきた物の下敷きにでもなっているのだろうか? だったら、自分も救助を手伝…
「早く」
怒られた。梃子代わりに使うつもりならばと、慌てて鞘ごと引き抜いたそれを見つめ、若干、強度に不安を覚えた探勲だったが、下から上に放ってやった。
皐月は青丸と蕣を貞糺のもとに残し、店先に届いた探勲の剣を拾い上げると、鞘を捨てた。
「ちょッええっ!? ししょしょしょッ少年っ…!?」
探勲の呼びかけを無視して、刀身を眺めながら通りの真ん中に進み出る。
正直、たったの一日足らずで、こんな物騒なものまで握らされる羽目になるとは思っていなかった。
戻れるだろうか。
何処へ。どちらへ。誰が。何に―――。
幼い頃から、境界線が見えるような節目の場面に向き合うと、こうした不安や疑問が浮かんで、頭の中をかき乱してきた。
羊頭の巨大蝙蝠は、ちょうど橋の真ん中にいる。あれを斬ったら、自分は一線を踏み越えてしまう気がしてならない。
戻れるだろうか――……。
化錯界は本当の自分と向き合い、闘わなければならない世界。化けの皮が剥がれやすい。その空気感を今、久々に味わっている。
神も仏も。
あの世もこの世もなく、天地や善悪を決める存在すらも、未だに曖昧。情けないことに――……
そんな世界で、右も左も分からなくなっている、今はまだ、ただの迷子である。
如何に鬼と化しながら、人として踏みとどまる道を―――見出そうか……。
深く前傾姿勢を取ったかと思うと、たったの一歩。
だが、瞬間移動したかのような超人的一歩で、探勲の瞳の中に映っている少年は、この危機的状況に決着を付けた。
暴風として牙を剥き、再び街路を翔け抜けた羊頭翼は、決して屈強ではない少年を目掛けていったこれが、最期の羽ばたきになるとは夢にも思っていなかっただろう。
上空に逸れていった後、その片翼が紙切れのように翻って落ちた。
一泊遅れて落下した火だるまの巨躯から、断末魔が裂け上がる。
真っ白な衣の裾と、長い黒髪を熱風にそよがせ、
少年が涼し気に顧みたそこで、紅蓮と……
《 ギァァァァアアアアアアア――――…ッ!!! 》
“荷葉緑” ――蓮の葉色の鬼火に、燃え上がった。
――――【 黎明の瞳 】――――
「……――皐月は、ただの黒眼じゃない」
移動中、打ち明けられた謎の少年の素性は、にわかに信じがたいものであった――。
千春を玉百合に任せ、萌神荘を出た対黒同舟花連がまとう風は、隼のようでありながら、これまでにないほど重苦しかった。
紅燭とは違う緋色に染まり、各所で黒煙を上げている李彌殷の夜景をにらんで、飛叉弥はいっそう険しい顔つきとなる。
あの中で皐月がさ迷っているなど、冗談ではない。炎と絶叫が渦巻く坩堝の底で解け出てくるその本性は、地獄を成す鬼であり、地獄に咲ける花であり、
地獄から生み出される宝玉――。
「よく見れば分かるはずだ。あいつの瞳は黒曜石じゃなく……」
“偶察石” ―――。
「いわゆる “夜隠月石” ……」
「なにっ?」
柴が驚嘆の声を上げた。
“夜隠月石” が何か分からない啓と満帆は困惑を浮かべ、薫子はその可能性を見落としていた自分に舌打ち顔をした。博識の勇は顔色を変えない。どうやら気づいていたようである。
飛叉弥の口は、結論といっていい部分を打ち明けたことで、ようやく軽くなった。
「生成される環境が極めて特殊なことから、産地も産出量も限られている奇石中の奇石だ。一見は黒曜石だが、光に透かしたり、角度を変えてみたりすると、複数の色彩が見て取れる」
藍と紅を合わせた紫色の瞳も、ある意味では混合色の七彩目だが、玉虫色のような場合は、本来なら花人が持ち合わせない、なんらかの特殊能力を秘めている可能性がある。
「そんなやつ、見たことも聞いたこともないけど……」
啓は自分と同じように反応が鈍い満帆と、視線を交し合った。
「一言に “青” と言っても色味には個性がある。だから七彩目は霊石に例えられてきた。青眼と言ったら青天玲だが、嘉壱の瞳はそれより緑色がかっているから、青翆玉と見なされているだろう」
色相環上、隣り合っている近似色や中間色の七彩目は、大抵、色味が強いどちらか一方、あるいは、六対四といった割合でしか、その霊応を発揮できない。
生滅を司り、全能と謳われる紫眼の万将も、真に陰陽の均衡が取れている者は珍しく、彩度の偏りがあれば、ほぼ火将、水将と言っていい能力。白か黒寄りの濁色なら、単に魄を結合するだけの結将か、あるいは解かすだけの解将にしかなれない。
いわゆる “遊色” ※【虹のような多色を示す現象。真珠やオパールなどに見られる】を発現した七彩目は、とりわけ希少種とされ――
「瑞兆とも、凶兆とも見なされてきた……」
「夜隠月石の花人がどんな特殊能力を宿してるか知らないけど、蛞茄蝓と対峙した昼間の様子では、火花一つ、散らせないように見えたわ。彼の問題点って実は、まともに現形化できないことなんじゃないの――?」
その可能性はあり得なくないと、視野に入れていた薫子である。
「だとしたら、むしろ花人として致命的よ―――?」
答えは変わらない。須藤皐月は使い物にならない。なぜ、この戦いに巻き込む――?
「夜隠月石のような瞳は、いうなれば黎…」
飛叉弥は、 “黎明” と言い差した自分に内心で舌打ちした。
「……いや、確かに今は補助が必要かもしれないが、混色の瞳ということはある意味、紫眼と同じ万能型と思っていい。ただ、最終的にどんな様相となるか――」
どう転ぶか、化けるかが分からない “原初の卵” のような状態でいる。
「俺たちは、そんなあいつを、この化錯界での戦いに向き合わせながら、しかるべき姿になるまで、守り通さなければならないんだ」
「守り通す……?」
「どういうことだよ」
満帆と啓は少しずつ状況を理解してはきたが、絶え間なく、頭の中に湧いてくる黒煙のような疑問に邪魔され、なかなか先を読むことができない。
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最初に爆発があった京城内の酉営近くに降り立つや、五人は次々と花旋毛を巻き起こし、菖雲・芳桜・桐騨・椿奈・梨琥に変化した。
最後に、周囲の火災を蝋燭の火のごとく払い消し、最も強い白花の爆風の中から、飛叉弥――対黒同舟花連隊首・飛蓮が顕現した。
菖雲らと同じ夜深藍の軍服に似た兵装だが、肩の飾緒や腰の刀剣が一段と鈍くきらめいている。
着衣の丈が長いのは、一目で分かる戦場の “大旆” と同様、旗下を従え、動かす権限を持っている証だ。
首の後ろで一つに束ねた白獅子の長髪をそよがせ、五人の最前に歩み出た飛蓮は手甲を引き締める。
「とにかく死守しろ――。須藤皐月は今、この流蓋界人原…、南壽星巉の天と地を支えてる……」
「っ…!?」
第六の世界樹―― “椥” の天壇按主だ。
【 第三鐘 ◇ 奇襲 / END 】
〔 読み解き案内人の呟き 〕
【 セレンディバイド 】とは……
実在の超激レア宝石。
ぱっと見は黒だが、
高価な珍種には透明感があり、
茶、赤、青、緑系の色が差して見える。
“ホウ素” と “高温水” がそろっている特殊な環境でのみ産出。
「セレンディピティ(思いがけず素晴らしいものを発見する・そうした才能)」に由来する。
【 ホウ素 】とは……
数千年前から知られている実在の元素。
海水・温泉水に多く含まれる。
植物の細胞壁合成――生長に必須。
ただし、多すぎると枯らしてしまう。
現に、世界の某国の土地は一部、ホウ素が多すぎて農業不可……、らしい。
燃やすと火が緑色に。
【 白鷺 】
ここに至るまでの間に、ちょいちょい出してきたワード。
夜叉が改心後、守護を務めることとなった薬師如来の使役。
温泉の在り処を示したという伝説がある。




