◍ 悪夢の街
× × ×
李彌殷の中心部は高層化が著しく、頭上にも盛んな往来、一家団欒の食事風景、動植物の暮らしが広がっている。
どのエリアへ行っても、何かしら視界に立ちはだかるが、偶然に開けた眼前に宵の明星が輝いているのを見つけ、探勲はため息をついた。
京城外の南は田園地帯で、うねる大河に帆船が浮かぶ、のどかな水墨画の世界だ。乱立する峻峰を抜け、今、都にたどり着こうとしている船頭には、紅燭の明かり一つ一つに、人々の笑顔が宿っているのがよく分かるだろう。
一人暮らしの三十手前、独身男にもよく分かる……。
夕食など、その辺の屋台で適当に済ませてもいいが、今日は総菜を買って帰ることにした。市楼周辺には、ずらりと並べられた天幕の下に、口直しの果物を売っている店も多い。甜点の物色が楽しめるという、いつもの家路である。
四世広場の白華牌楼を潜って西廓へ入ったところ――ふと、狭い路地の暗がりで、ふらついている人の姿に気づいた。早くも、介抱を必要とする酔っ払いに遭遇かと思ったが、見かけるにしては妙な場所だ。花街近辺ならまだしも……。
「そこのお前、何してる」
威圧しながら歩み寄ろうとしたが、突然の爆音に意識をそらされた。
× × ×
李彌殷の京城内は、中心地から逸れるにつれ、迷路化する。
西廓南城市の花街に通じる道では、妓女に差し入れると喜びそうな嗜好品や、女向けのしゃれた雑貨、服飾品が売られている。
人との接触を避けようとして、その店先の小間物を蹴散らしてしまった皐月は足止めを食らっていたが、目の前で黒煙が立ち上った瞬間、片付けなど、どうでもよくなった。
そそり立っている左手前の楼閣も、右手奥の仏塔もちっぽけに見えるほど、その煙は高く伸び広がり、空を掌握していくように見える。
橋亭を渡っていた人々も思わず欄干から身を乗り出し、各店の奥からは、何事かと驚いた客と店主が転がり出てきた。
高層住宅の住人たちも窓を開け放ち、皆、同じ方向に目を見開いた。
× × ×
一方、真逆に位置する東央市楼――
「なんだ…っッ!? 今の爆発!」
斜向かいの南城門――
「大変だ……」
官庁街と王宮がある北の馬蹄内でも、衛兵らが甲冑をがしゃがしゃ言わせて錯綜し始めていた。
「ただちに状況確認に向かえ…ッ!!」
× × ×
「なんだ、あれは」
「さぁ」
ある楼閣の屋根上にいるやづさは、傍らで胡坐をかいている鵺に尋ねたが、彼は興味なさげに適当な返事をした。
「なんでもいいでしょう。今にこの都は火の海と化すのですから――」
鵺は早く “地獄の花” が咲く様が見たくて仕方ない様子だ。景気のいい “はじまりの合図” として、胡坐の上に据えた銅鏡に、藍色の虚空を映す。
竹筒から墨汁を垂らした。
すると、鏡面は波紋を生じ、その数滴を睡蓮の葉のように広げた。
鵺が筆先を落とし込むのを横目に、やづさは低い声で忠告した。
「この娘はまだ動かすなよ――?」
「はいはい」
鵺は口端から白い歯をのぞかせた。やづさの小脇には少女が抱えられていて、白く細い腕をだらりとたらしている。
× × ×
「早く逃げたほうがいい――」
「え…?」
「早く…ッ!!」
振り向きざまに怒鳴りつけてきた皐月の背後――隆々と湧き起こる黒煙の柱のほうから、羽ばたく何かが旋回してくる。
蹴散らされた小間物を拾い集めようとしていた女店主は、それが何か分かった途端に愕然とした。
四つん這いの状態から動けないまま、ただ頭を抱え込むしかなかった。
駱駝ほどの飛行物体が、暴風として目の前の通りを翔け抜け、各店先の天幕を吹き飛ばした。
煙を見ようと橋の欄干沿いに押し寄せていた人々も、咄嗟に体をひっこめ、折り重なって倒れこんだ。
一人が、尻で這いながら、わなわなと口を動かす。
「よよ…、よ…っ羊頭翼だあああああああーーーー…ッっっ!!!」
その叫び声を合図として、海鳴りと地響きが同時に襲ってきたような恐怖が、橋を渡ろうとしていた人々を押し戻し、ぎゅうぎゅうに詰まらせた。
「さっ…、斉団峡の風の主だろ!? なんでこんなところにぃぃ…っ!!」
「きゃああああッ!!」
暗婁森に一部の群れが住み着き始めたという噂を聞き及んでいた人々も、まさか都に現れるとは思っていなかった。たちまちにして、押し合いへし合いの混乱に呑まれる。
尾は三又に分かれ、蜥蜴の皮に覆われており、頭は羊。眼球は赤く、瞳は縦に裂け、餓鬼の胴体を持つ。その筋張った翼は蝙蝠のものに似ている反面、暗いところが苦手な鳥目ゆえ―――
「あいつは昼間しか狩りしないはずだろう…ッ!? どうして…っ」
「知るかあッ!! とにかく逃げろぉッ…!!」
往来の人々は悲鳴を上げながら錯綜したが、一目散にある場所へ向かった。
通り沿いに、焼き窯のようなものが構えられているそこへ、我先にとなだれ込んでいく。入り口は脇道の横幅と同じくらいで、赤煉瓦作りだが、元来は海岸線によく見られる浸食が進んだ岩山だ。
上部には大抵、榕樹などの霊木が生えており、洞門に釣り灯籠と呪具のような玉簾がかかっている。
李彌殷の城郭が、小さな山すら削らず、内包した造りになっている理由――。
青丸と蕣が “そこ” を示して叫んだ。
「あれは緊急避難用の蟄潜洞ですッ!」
「親分も早く…っ」
羊頭翼が通った瞬間、その風圧から女店主をかばった皐月は、彼女の無事を確認していた。
女店主はまだ三十代だが、腰が抜けて年寄りと変わらない脚力となってしまい、自力では立ち上がれなくなっていた。
「わ…っ、私のことはいいから、君は行って…っ!」
「ここで逃げるのは、さすがに名が廃る気がするから出来ない」
「何言ってるの…っ?」
「俺にもよく分からない――……」
皐月は、場違いな自嘲気味の微苦笑を浮かべた。
なぜか飛花が舞って見えるほど切なげなその表情に、じれったさが込み上げてきたが、どうすることもできない女店主は、紙のように白くなった手を握りしめる。
震えを抑え込もうと無理やり強気でいたが、腕をつかまれているうちに、安心感と引き換えの、複雑な気持ちが湧いてきた。
自分のために、赤の他人まで犠牲になるのを、黙って良しとしたくはない。何か、少しでもこの状況をマシにする方法はないのか……っ?
楼閣群の狭間を飛行しながら、雄たけびを上げている羊頭翼は橋亭の屋根上にもいる。人っ子一人いなくなった街路にもくまなく威嚇するように、唾液交じりの咆哮を上げている――。
× × ×
探勲は、爆発音に気を取られた一瞬の隙に、逃走を許してしまった人影を追っていた。
何が起こったのか、邏衛士の仲間たちに合流して確認するよりも、優先される緊急事態だと判断したからだ。
人影が通ったと思われる道は、所々で小火騒ぎとなっていた。市場沿いの天幕が焼かれ、街路樹に飛び火し、同じような放火事件が都の各地で発生しているようだった。
四方に火災を知らせる警鐘が鳴り響いており、邏衛士たちが次々と駆けつけて行っている。
彼らは、大研院開発の特殊な防火着をまとっており、探勲は追跡中の奴と同じような放火魔が、都のあちこちにいる嫌な想像をして舌打ちした。
自分が声をかけたのは、おそらく盲鬼だ。しかし、それにしては俊敏で、暗殺を生業とする梟者と同等の身体能力を発揮している。
のったりと徘徊し、出くわした人間に襲い掛かるという特徴もないらしい。なかなか捕捉できない。
この状況で通常の盲鬼まで大量に現れていたら、邏衛士たちの消火活動や避難誘導に間違いなく支障をきたす。
普段はスリ師などの小悪党をぶち込むことが多い東央市楼も、今日は盲鬼の収容人数のほうが多かった。妙だとは思っていたが、まさか――、すべての出来事が繋がっているということはないだろうな。
何があったか知らないが、全力で走ってくる人々を掻き分け、たどり着いたそこで、探勲は信じられない光景を目にした。
(ぬあああああーー…っっ!?)
Uターン。(あれはさすがにヤバい……) 飛び出したはいいが、ちょっと週末に腹筋運動してるだけの邏衛士ぺえぺえ兄ちゃんには、退治どころか、捕縛すら叶わない妖魔がいた……。
呼吸を整え、意を決し、脇道から、そろぉ~~……と、顔半分だけのぞかせてみたところ
(えええーーー…ッ!!!)
火が回り始めている通り沿いの反物屋から、買い物を終えた様子の少年が平然と出てきた。店先で、さっそく真っ白な長衣に袖を通そうとしている。橋亭の尖った屋根上で、蝙蝠の翼を広げた化け物が、咆哮を突き上げているにも拘わらず……。
斉団峡最強を誇る妖魔が、彼に「無視してんじゃねぇぞコラあああぁッ!!」と言っているように見えてきた探勲は、これぞ本当の怪異であることを確信した。
(なにやってんのお~アイツううううーーー…っっッ!!!?)




