◍ 開戦の狼煙
門楼の吊り灯籠に火を点した満帆は、ふと顔をあげた。
邸の各亭や回廊の軒先には、同じような灯籠がいくつも下げられている。
都の紅燭から遠い、雲霞をまとうほどの山奥だ。夜になれば足元が完全に見えなくなってしまうため、こうして日が暮れては、毎日灯りをつけに回る。
「……い……」
満帆は眉根を寄せた。かすかだが、声が聞こえた気がした。
歩み出す。石段の下をのぞいてみる。吸い込まれるような闇の奥底に、手燭の火をかざす。
(……? 気のせいかなぁ)
いや、よくよく見れば、その先にはこちらに向かって手を振っている人影がある。
「おおいッ! 満帆さぁああん! こっちです、こっちですよおおおーッ!」
同じく灯りを点しに庭を回っていた啓が歩み寄ってきた。
「どうしたの?」
「………啓ちゃん、サヤ兄呼んできて」
「え?」
「早く…っ!」
満帆は言い放つと同時に、「ま…、待ってて!」という啓の返事を背中で受け、階段を駆け下りた。
判然としなかった男たちの声が、次第に大きく、はっきりと聞き取れるようになってくる。
「満帆さん…っ!」
階段の中ほどまで上ってきていた一人が、涙声を上げてすがり付いてきた。
松明も持たずに。相当慌ててやってきたようだ。彼に急かされて更に下りていくと
「どうしたの…っ!?」
地べたに座り込み、うずくまっている女性がいた。誰であるかは問うまでもなかった。
藺千春――ひいなの母。彼女の肩を支えている青年もよく知っている。
助安――。藺親子の農園で、七年前から作業を手伝ってきた難民村の住人だ。
* * *
助安はここ数日、体調を崩している千春に代わって作物の世話をし、昨日、ほとんどの出荷作業を終えた。明日はゆっくり休んでと気遣われ、言われた通り、久々の休日を過ごしたが、やはり落ち着かなかった。
そうだ。千春に、村考案の棒餅を持って行ってやろう。先日、玉百合姫らの協力があって、ようやく売り出せる代物となったのだ。農作業の合間でも食べやすい、疲労回復に効く軽食がないものかと薬膳料理を参考にしたため、夕食の一品にできなくもない。
(ひいなは、木苺餅の方が喜ぶかな――……)
今でこそ、そんなことを考え、笑みを浮かべながら農園に向かえる助安だが、元来は余繁から食糧を脅し取ろうとした、凶賊の下っ端であった。
とは言え、ただ長いものに巻かれ、こき使われる毎日に甘んじていただけ。連中のことなど、家族としてはもちろん、仲間と思ったことすら一度もない。
鬼神だか武神だか知らないが、肩に神像の刺青を入れ、その気になっていた勘違い甚だしい奴らだと分かっていた。蛮行を働いては最強になった気分で、昼も夜も飲み騒ぐ巷の無頼漢を、誰が好き好んで兄貴と慕おう。闇社会の本物にまで呆れられ、顰蹙を買っていた。
だが、八年前の砂漠化がもたらした大飢饉では、さすがに無力な人間であることを理解したのだと思う。
農園を襲ったが、余繁の情けに感じ入って、にわか仕込みの義侠心なんか出したから、あんなことに――。
助安は彼らのことを思い出すたび、心の中で何度も「馬鹿が」と吐きつけてきた。同類と思ったことは一度もなかったが、あの時だけは紛れもない、彼らの “同胞” であった自分に対しても。
様々な立場と主張、感情、事情が逆転したり、混ざり合ったり、文字通り混沌と化した暴動のさなかで、ガラは悪いが、善心に目覚めた同胞たちが、平民の皮をかぶった鬼どもに、叩きのめされる恐ろしさを目の当たりにして――
たった十三歳の生意気なクソガキが、余繁をかばおうなどと出しゃばったりしたから――……。
“助安” という名前は、千春が与えてくれた。
誰が正しくて、何がいけなかったのか、しばらく更生に向かう日々を過ごしながら考えてみたが、やっぱり分からない。
だから、今日も自分は、遺された千春とひいなの役に立って、少しでも余繁に安心を捧げたいと思うのだ。
夕焼けに染まりはじめた空を見上げ、再び前を向いた時、助安は家の裏手から這い出してきた格好で倒れている千春を目にし、蒼白となった。
* * *
「千春さん…っ!」
千春はのろのろと瞼を開き、手を伸ばしてきた。
「満帆…さんね……? …なを、ひいなを…っ、どうか――…!」
「自分も行くって言って聞かなかったんです…っ!」
肩を抱いている助安が、焦れたように喚く。
「ひいなが、変な術者にさらわれちまったらしくて…っ!」
「とりあえず駆け込んだ午営に、捜索は頼んだんですが……っ」
麓の難民村から付き添ってきた者たちも、じれったくなって次々と代弁を始めた。
ひいなちゃんが、さらわれた――……っ? 彼らの訴えが遠のいて聞こえるほど、満帆は愕然となった。その時――
「何事だ」
一喝のような声が放たれた。
「彪将さん…っ!」
こんなふうに、すがりつかれることはよくある。だが、村人たちに混じって、満帆まで今にも取り乱しそうな自分を必死に抑えている様子を見て、飛叉弥は嫌な予感がした。
そして、それはすぐに的中した。
「きゃあッ!!」
助安と一緒に千春を支えていた村娘が悲鳴を上げ、男衆も思わず首をすくめた。
背後で突如上がった爆音。振り返ると、西廓の酉旗営の辺りから、夜目にも分かる、はっきりとした黒煙が湧き上がっていた。
村人たちはあまりに衝撃的な出来事に呆然とし、膝を震わせた。きらきらと流される火の粉が、見開かれたそれぞれの瞳の中を過ぎる。
「そ……、そんな…っ」
「李彌殷が…っ!」
無意識に歩みでる村人たち。
飛叉弥もこれ以上ないほど目を瞠っていたが、彼らの中で唯一、こちらを向いていてニヤついている “人型” に気づいて、すかさず腕を払った。
「満帆…ッ!」
飛叉弥の指示を理解した満帆が、すかさず村人をかばう動きをする。
「一迅…ッ!」
飛叉弥が風の一太刀を放ったそこから飛び退ったのは農夫だが、単体で見ると明らかに人間でない様子だった。
《 キヒャヒャヒャヒャ…! 》
猿のように、何度も何度も嗤いながら飛び跳ねる。
ぱたりと静止し、前傾になると、ひび割れた耳障りな声で、頭に直接語りかけてきた。
《 娘ハ、李彌殷ニ居ル。助ケタイカ、少年ヨ…… 》
「……少年?」
怯える村人たちを背に、満帆は聞き間違いかと疑い、我知らず反復した。
これは土将の産霊によって作られる傀儡―― “埴徒” だ。人型のため、密虫より確実な伝達を果たす。意思は宿されていない。夜覇王樹壺で編み出された “術現形” のため、啓のような土霊使いか、飛叉弥のような全能の万将―――紫眼の花人にしか扱えない代物である。
そして、自分たちにこんなものを差し向ける相手といえば、一人しか思い当たらない。
「やづさか……」
飛叉弥は、おもむろに歩みだした。
《 娘ハ、李彌殷ニ居ル。助ケタクバ、来イ。娘ハ、李彌殷ニ居ル。助ケタイカ、少…… 》
こいつに、もやは用はない。飛叉弥は前方を見据えたまま、瞬き一つしない埴徒の額に右手を添えた。
びくっと硬直したその体が一瞬で白濁、褐色化し、内側から爆ぜた。
白い花びらとして――……。闇の彼方へ吸い込まれてゆくのを見届ける飛叉弥の脳裏に、手を挙げて立ち去ろうとした背中がよみがえる。
*――少年ヨ……
“少年” とは皐月のことだろう。
「……あいつめ、どこほっつき歩いてるんだ」
こんな傀儡を差し向けられたはいいが、生憎とこちらには応えようがない。
泣き叫びながら地面に突っ伏す千春と、警鐘が鳴り響く李彌殷に放心状態の村人たちへ、つと玲瓏な声が放たれた。
「飛叉弥――」
啓と柴に足元を照らしてもらいながら、石段を下りてきたのは玉百合だ。
彼女は険しさの中にも、しっかりとした響きを含ませて言った。
「皐月ならすでに、しかるべき行動を取っているはず」
「どういうことです」
玉百合は、歯痒そうに下唇を噛んだ。
「先ほど、ひいなの家の場所を訊ねられました。まさかこんな事態に繋がるとは、思いもよらず……」
なんてこった。飛叉弥は額を覆った。だが、あいつならば、こういう展開を生み出したとして不思議じゃない。
「飛叉弥ッ、一体なにがどうなってるんだよ!」
今朝の混乱がぶりかえしたのか、居たたまれなくなったように啓が語調を荒げる。
「話は後だ。一刻も早く李彌殷へ……」
「状況が分からなければ、動こうにも、彼に対しての適切な対応は保証できないわよ――?」
聞こえてきた足音に振り返れば、薫子と勇が、今度こそ、と意気込みを宿してやってくる。
事ここに至って観念した飛叉弥は、大きく肩をすくめた。
とんだ一日だ。
「分かった――。説明は移動しながらする」




