◍ 月神と桃李の晩酌
飛叉弥は自室にて、深いため息をついていた。
細く整った筆先から、すらすらと優美な文字をつむいでいたが、集中力が続かない。切りのいいところでもないのに、つい手を止めてしまう。
皐月がいなくなったせいだ。今、嘉壱が探しに行ってくれている。摩天に帰ってしまったのではないかと、彼は面倒くさそうに舌打ちした。しかし、飛叉弥には、そうではないと焦りをにじませるだけの根拠があった。
先刻、二人きりになった際、少しだけだが、ようやくまともな会話ができたのだ。だから皐月は考え直し、今しばらくこちらの世界に留まることにしてくれた。そこに、帰ってくるなり薫子が絡んでいき、止めに入った嘉壱と揉めだした。
彼らには信じがたいだろうが、皐月は争いを好まない性格だ。自分のことを巡ってとなれば、なおさら嫌がる。そうして勝手に、どこかへ行ってしまおうとする。
昔と、一つも変わっていない――……。
「せっかく美しい庭に面しているのだから、息抜きが必要なら、顔を上げて柳のそよぐ様でも眺めたらいいだろうに」
若い男の美声が苦笑気味に聞こえてきて、飛叉弥は振り向かされた。
「やっぱり、波乱の幕開けとなりそうなのか――?」
池岸に育った大柳の影から、嘆息交じりに言って、白髪の青年が歩み出てくる。
真っ白な衣に群青色の帯を締めて垂らし、黒地に金糸の刺繍が入った半臂を羽織っている。その瞳は、やや灰色がかった紫。だが、蓮家でもなければ花人でもない。
「月凊隠……」
南壽星巉における月神の一柱―――月凊隠は子供より屈託なく、にっこりと笑った。
飛叉弥と同じ白髪だが、透明感があり、長い直毛のそれを首の後ろで一つに束ねている。
指の爪が鋭く黒光りしていて、耳もやや尖っている。水晶を通した金環で腕や首元を飾り、右手にちゃぷちゃぷと音を立てる瓢箪を携えていた。
その様子を見れば、何をしにお出ましかは聞かずもがな……。
飛叉弥は目をそらした。
「悪いが、今は酒を飲みかわしたい気分じゃない」
「そうか。なら、私一人で飲むから、お前は酌をしておくれ」
「……。」
相変わらず、空気を読まない自己中な道楽神である。
自分と見た目の特徴に共通点が多いが、月凊隠がかもす雰囲気は雅やかで、軍人とはもちろん、俗世間とも縁遠いように思える。
眉間にしわを寄せることすら滅多になく、透き通った白い肌には虚弱な儚さがあり、皐月を白髪青年化させて、ものすごぉおーーくッ、まろやかにしたような印象の優男神だ。
萌神荘は四季折々の植栽が追いかけ、追い越すように絶え間なく移ろう素晴らしい屋敷ではあるが、彼のような花見酒好きが頻繁に通ってくるから、厄介に思わないでもない……。
「今宵は絶対に飲むと決めていた。お前が今に、血相を欠いてここを飛び出して行くことになっても、私は一人で晩酌を続けようと思うが――」
「好きにしてくれ」
「そうか」
月凊隠はかぶせ気味に言うと、忽然と姿を消した。次の瞬間には、飛叉弥のすぐ左後ろに立っていた。
瞬き一つするごとに、視界のあちこちに姿を飛ばす彼には、一流の花人も、背後を取られることがままある……。
「では、お言葉に甘えさせてもらうとして、今はまだ、その時じゃないだろう?」
「~~~……。」
――――【 誓い 】――――
半水上である飛叉弥の部屋の正面は、軒先からはみ出し、広い露台のようになっている。
夏が来れば睡蓮を眺めるも良し。秋が来れば観月するも良し。
だが、月凊隠が今宵、晩酌のお供にしたい花がなかった。
場所を移し、やってきたのは獅登山の北東にせり出している絶壁の先端。
なかなかの険所にもかかわらず、亭樹が設けられている。『桃李亭』という扁額が、王宮に使われているのと同じ黄瑠璃瓦の軒先に掛かっており、月凊隠は吹きさらしのそこにある墩に腰掛け、飛叉弥と酒を注ぎあった。
萌神荘の前園主が、ただの貴族ではない自分の身分・素性を表した、唯一の場所である。この亭に寄り添っている花木が何かは、言うまでもないだろう。
「いよいよ、だな……」
万年笑顔の優男神が、年に一度、あるかないかという真面目な顔をして、固い声を発した。
皐月が帰ってくる可能性もあり、行き違いとなっては余計に面倒だと、嘉壱になだめられて屋敷に留まった飛叉弥は杯を手にしながら、やはりじっと見つめるだけ。
晩酌を楽しんでいい時ではなし、月凊隠がここで飲むと決めてやってきたわけを、理解したからでもある。
「壽星天壇の按主が倒されて七年……」
“桃李もの言わざれども下自おのずから蹊を成す” という言葉を、見事に体現して見せた南海の象徴―――世界樹そのものであった “彼女” に、あらためて誓いたい。
月凊隠は憂いを帯びた目で、盃の中に舞い落ちた花びらを見つめる。
「開かれた桃源郷を取り戻すことを」
「分かっている……」
白く長い二人の髪が、薄紗の如くなびき、静かにそよぐ。
月神と花神の脈持の手に掛かれば、季節を問わず花を満開にさせることくらい容易い。
亭横の桃の木は崖下へ幹が傾いており、風が吹くと、花弁が谷底へ散り落ちる。花の雨のように――。
夢心地になれるはずの花吹雪を横目に、戦前夜のような雰囲気が漂いはじめた。
「萌神荘の前園主もそうだが、元来が多民族国家の華瓊楽には、奎王の片鱗を養う土壌が豊富なためか、その器の持ち主――臥竜も数多潜んでいる……」
皆、何かしらの越境を成し遂げ、本来なら交わりようのない両岸の間で懸け橋を担ってきた。
だが、そうした存在は宿命的に国難と対峙し、争いにて失われやすいという一種の統計がある――……。
「なんとしても守らねば。萼にもまたいずれ、竜氏が君臨する時が訪れるだろう。本当の勝負はここからだぞ? 飛叉弥」
「玉百合様は、竜女と謳われた亡き先代の血を引く紛れもない神子。萼に暮らす民草は、近い将来、あの方が起こす風になびき、慈雨によって教化されることになる……」
堂々と胸を張ってその日を迎えるためにも、自分は黒同舟の航路に立ちふさがり、奴らを一人残らず打ち滅ぼさなければならない――。
月凊隠は、盃を口へ運ぼうとした手を止めた。
だが、引っかかった部分があることを、それ以上、態度には表さなかった。
掃いて散らすように、いつもの上品な笑みを表情に戻して飲み始める。
「萼には、地下にも稀に見る竜氏が眠っていることだしなぁ。縁の下の力持ちを担っているのは、どちらかというと、矢面に立っているお前な気もするが」
「まったく……、どっちが天柱か地維か分からん。あいつは、まだまだ覚醒しそうにない。現に今、どこかで迷子になっていると思う」
やはり進まぬ様子でため息をつきながら盃を置き、飛叉弥は月凊隠へのお酌に徹することにした。
「迷子? ははは! 北辰を司る者が聞いて呆れる」
「あまり大声で言わないでくれ……。もともと方向音痴だし、姿も公にさらせたものではなかったが、今は色々な意味で伏せておきたい状態なんだ」
「それでは、 “破軍星神府” の主力も務まらないということか?」
「さぁな。あいつは昔から韜晦野郎だから、正直、今日一日ではどこまでが嘘で本当か、俺にもつかみきれなかった」
だから、目を盗んで逃げられたのである――。
〔 読み解き案内人の呟き 〕
【 北辰 】
北の標石(道標)となる北極星のこと。
または、多くの星の中心にあることから、北極星を神格化させた道教で言う天帝。
仏教で言う妙見菩薩。「妙見」とは、優れた視力・善悪をよく見通すこと。
【 破軍 】
北斗七星を剣に見立てた時、先端にある星を「破軍」という。
背にして戦えば勝ち、向かう者は負けると言われている。
北斗七星は剣先を周囲に向け、北極星を守るよう廻って見える。
北極星に願いを渡すと考えられたため、同一視されることもある。
北斗七星を構成している星の一つに、微光の星が近接していて、
徴兵の際の視力検査に利用されたことなどから、
「優れた眼」や「武運」に関連が深い。
ちなみに――、人間の善悪を見極め、寿命増減を操作する裁判長的天帝の下に、部下を従えて人間界を視察、不正をただす城隍神や土地公が属している。




