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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 第三鐘 ◇ 奇襲 ――――――
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◍ 月神と桃李の晩酌



 飛叉弥は自室にて、深いため息をついていた。

 細く整った筆先から、すらすらと優美な文字をつむいでいたが、集中力が続かない。切りのいいところでもないのに、つい手を止めてしまう。


 皐月がいなくなったせいだ。今、嘉壱が探しに行ってくれている。摩天に帰ってしまったのではないかと、彼は面倒くさそうに舌打ちした。しかし、飛叉弥には、そうではないと焦りをにじませるだけの根拠があった。

 

 先刻、二人きりになった際、少しだけだが、ようやくまともな会話ができたのだ。だから皐月は考え直し、今しばらくこちらの世界に留まることにしてくれた。そこに、帰ってくるなり薫子が絡んでいき、止めに入った嘉壱と揉めだした。

 彼らには信じがたいだろうが、皐月は争いを好まない性格だ。自分のことを巡ってとなれば、なおさら嫌がる。そうして勝手に、どこかへ行ってしまおうとする。


 昔と、一つも変わっていない――……。





「せっかく美しい庭に面しているのだから、息抜きが必要なら、顔を上げて柳のそよぐ様でも眺めたらいいだろうに」


 若い男の美声が苦笑気味に聞こえてきて、飛叉弥は振り向かされた。


「やっぱり、波乱の幕開けとなりそうなのか――?」


 池岸に育った大柳の影から、嘆息交じりに言って、白髪の青年が歩み出てくる。

 真っ白な衣に群青色の帯を締めて垂らし、黒地に金糸の刺繍が入った半臂はんぴを羽織っている。その瞳は、やや灰色がかった紫。だが、蓮家でもなければ花人でもない。



月凊隠げっせいいん……」



 南壽星巉みなみじゅせいざんにおける月神ユエ・ランサの一柱―――月凊隠は子供より屈託くったくなく、にっこりと笑った。

 飛叉弥と同じ白髪だが、透明感があり、長い直毛のそれを首の後ろで一つに束ねている。

 指の爪が鋭く黒光りしていて、耳もやや尖っている。水晶を通した金環で腕や首元を飾り、右手にちゃぷちゃぷと音を立てる瓢箪ひょうたんを携えていた。


 その様子を見れば、何をしにお出ましかは聞かずもがな……。

 飛叉弥は目をそらした。



「悪いが、今は酒を飲みかわしたい気分じゃない」


「そうか。なら、私一人で飲むから、お前は酌をしておくれ」


「……。」


 相変わらず、空気を読まない自己中な道楽神(どうらくじん)である。

 自分と見た目の特徴に共通点が多いが、月凊隠がかもす雰囲気は雅やかで、軍人とはもちろん、俗世間とも縁遠いように思える。

 眉間にしわを寄せることすら滅多になく、透き通った白い肌には虚弱な儚さがあり、皐月を白髪青年化させて、ものすごぉおーーくッ、まろやかにしたような印象の優男神やさおがみだ。

 萌神荘は四季折々の植栽が追いかけ、追い越すように絶え間なく移ろう素晴らしい屋敷ではあるが、彼のような花見酒好きが頻繁に通ってくるから、厄介に思わないでもない……。



「今宵は絶対に飲むと決めていた。お前が今に、血相を欠いてここを飛び出して行くことになっても、私は一人で晩酌を続けようと思うが――」


「好きにしてくれ」


「そうか」


 月凊隠はかぶせ気味に言うと、忽然と姿を消した。次の瞬間には、飛叉弥のすぐ左後ろに立っていた。

 瞬き一つするごとに、視界のあちこちに姿を飛ばす彼には、一流の花人も、背後を取られることがままある……。


「では、お言葉に甘えさせてもらうとして、今はまだ、その時じゃないだろう?」


「~~~……。」





           


           ――――【 誓い 】――――



 半水上である飛叉弥の部屋の正面は、軒先からはみ出し、広い露台のようになっている。

 夏が来れば睡蓮を眺めるも良し。秋が来れば観月するも良し。

 だが、月凊隠が今宵、晩酌のお供にしたい花がなかった。


 場所を移し、やってきたのは獅登山の()()にせり出している絶壁の先端。

 なかなかの険所にもかかわらず、亭樹が設けられている。『桃李亭』という扁額へんがくが、王宮に使われているのと同じ黄瑠璃瓦の軒先に掛かっており、月凊隠は吹きさらしのそこにあるとんに腰掛け、飛叉弥と酒を注ぎあった。


 萌神荘の前園主が、ただの貴族ではない自分の身分・素性を表した、唯一の場所である。この亭に寄り添っている花木が何かは、言うまでもないだろう。



「いよいよ、だな……」


 万年笑顔の優男神が、年に一度、あるかないかという真面目な顔をして、固い声を発した。

 

 皐月が帰ってくる可能性もあり、行き違いとなっては余計に面倒だと、嘉壱になだめられて屋敷に留まった飛叉弥は杯を手にしながら、やはりじっと見つめるだけ。

 晩酌を楽しんでいい時ではなし、月凊隠がここで飲むと決めてやってきたわけを、理解したからでもある。


「壽星天壇の按主アヌスが倒されて七年……」


 “桃李もの言わざれどもした自おのずからみちを成す” という言葉を、見事に体現して見せた南海の象徴―――世界樹そのものであった “彼女” に、あらためて誓いたい。

 月凊隠は憂いを帯びた目で、盃の中に舞い落ちた花びらを見つめる。


「開かれた桃源郷を取り戻すことを」


「分かっている……」


 白く長い二人の髪が、薄紗の如くなびき、静かにそよぐ。


 月神と花神の脈持みゃくじの手に掛かれば、季節を問わず花を満開にさせることくらい容易い。

 亭横の桃の木は崖下へ幹が傾いており、風が吹くと、花弁が谷底へ散り落ちる。花の雨のように――。


 夢心地になれるはずの花吹雪を横目に、いくさ前夜のような雰囲気が漂いはじめた。



「萌神荘の前園主もそうだが、元来が多民族国家の華瓊楽カヌラには、奎王けいおうの片鱗を養う土壌が豊富なためか、その器の持ち主――臥竜も数多あまた潜んでいる……」


 皆、何かしらの越境を成し遂げ、本来なら交わりようのない両岸の間で懸け橋を担ってきた。

 だが、そうした存在は宿命的に国難と対峙し、争いにて失われやすいという一種の統計がある――……。



「なんとしても守らねば。うてなにもまたいずれ、竜氏が君臨する時が訪れるだろう。本当の勝負はここからだぞ? 飛叉弥」


「玉百合様は、竜女と謳われた亡き先代の血を引く紛れもない神子みこ。萼に暮らす民草は、近い将来、あの方が起こす風になびき、慈雨によって教化されることになる……」


 堂々と胸を張ってその日を迎えるためにも、自分は黒同舟の()()()()()()()()()、奴らを()()()()()打ち滅ぼさなければならない――。



 月凊隠は、盃を口へ運ぼうとした手を止めた。

 だが、引っかかった部分があることを、それ以上、態度には表さなかった。

 掃いて散らすように、いつもの上品な笑みを表情に戻して飲み始める。



「萼には、()()()()稀に見る竜氏が眠っていることだしなぁ。縁の下の力持ちを担っているのは、どちらかというと、矢面に立っているお前な気もするが」


「まったく……、どっちが()()()()か分からん。あいつは、まだまだ覚醒しそうにない。現に今、どこかで迷子になっていると思う」


 やはり進まぬ様子でため息をつきながら盃を置き、飛叉弥は月凊隠へのお酌に徹することにした。


「迷子? ははは! 北辰ほくしんを司る者が聞いて呆れる」


「あまり大声で言わないでくれ……。もともと方向音痴だし、姿も公にさらせたものではなかったが、今は色々な意味で伏せておきたい状態なんだ」


「それでは、 “破軍星神府はぐんせいしんぷ” の主力も務まらないということか?」


「さぁな。あいつは昔から韜晦とうかい野郎だから、正直、今日一日ではどこまでが嘘で本当か、俺にもつかみきれなかった」



 だから、目を盗んで逃げられたのである――。




〔 読み解き案内人の呟き 〕


【 北辰 】

北の標石(道標)となる北極星のこと。

または、多くの星の中心にあることから、北極星を神格化させた道教で言う天帝。

仏教で言う妙見菩薩。「妙見」とは、優れた視力・善悪をよく見通すこと。




【 破軍 】

北斗七星を剣に見立てた時、先端にある星を「破軍」という。

背にして戦えば勝ち、向かう者は負けると言われている。

北斗七星は剣先を周囲に向け、北極星を守るよう廻って見える。

北極星に願いを渡すと考えられたため、同一視されることもある。


北斗七星を構成している星の一つに、微光の星が近接していて、

徴兵の際の視力検査に利用されたことなどから、

「優れた眼」や「武運」に関連が深い。


 ちなみに――、人間の善悪を見極め、寿命増減を操作する裁判長的天帝の下に、部下を従えて人間界を視察、不正をただす城隍神や土地公が属している。


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