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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 第三鐘 ◇ 奇襲 ――――――
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◍ 蓮霧の果実


 別名は「水林檎みずりんご」――。

 香りが芳醇であることから、「薔薇林檎バラりんご」とも呼ばれる。

 果肉が無色で水のよう。水分補給ができるからか、これを「蓮霧レンブ」という。


 熟すほど甘く、若ければ爽やかな果物だ。

 柘榴ざくろ無花果いちじくのように尻が割れており、見た目は徐々に色づいていく釣鐘型のまさに林檎。味と食感には、梨を同時に頬張っている印象を抱く。


 華瓊楽カヌラではそう珍しいものではないが、どんな食べ物であれ、譲ってくれたという行為自体が、何よりも有り難いことをひいなは知っている――……。




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*――ちょっと金持ちだったからって、いい気になってるからだろ…ッ!?



 微かな光として瞳に映っているナイフが、赤い皮をぶら下げたまま動かなくなっていた。

 蓮霧は皮ごと食すのが普通だが、へたと芯を除くついでに、いつの間にか剥き取ろうとしていた。


 いけない。そろそろ日が暮れる。

 今晩のおかずは何にしよう。地面に打ち捨てられたあの卵があれば、昨日とは違う雑炊が作れたし、栄養満点になっただろうし、お母さんが味を褒めてくれれば、私もここ最近で、一番嬉しかったはずなのに……。



「ひいな――?」


「えっ?」


 そっと声をかけられたにもかかわらず、必要以上の反応をしてしまったせいで、寝台上の母・千春チシュンが心配そうに起き出した。


 橙色の西日が差し込み、部屋の中の物陰を濃くしている。


「やっぱり何かあったの? 暗い顔して……」


 自覚がなかった分、ひいなは慌てて笑い返した。


「なんでもないよ。ごめんね、待たせちゃって。今、お皿に盛るから」


 ナイフを置いて、座っていた椅子を押しやった先の戸棚から、ひいなはちょうどいい皿を選びはじめた。


 縁に葉っぱ模様のある白いものを手にすると、今朝、歩いた姫女菀ヒメジョオンのあぜ道が思い出されてきた。


 これがいい――。ひいなは口角を持ち上げた。

 ただの木皿より、気持ちが明るくなる。すべてがここ数日、寝たきりの母のためであるが、この蓮霧は自分にとって特別なので、少しでもきれいな皿に盛りつけたい。



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 千春は、椅子から跳ね降りて戻ってきたひいなが、一転してニコニコと上機嫌であったため、半分切り残されているそれに、不思議な力を感じた。

 何があったかは知らない。だが、娘を呑み込もうとする陰鬱な影に、この果実が対抗してくれている気がする。


 これを譲ってくれた人物が――……。



 黄昏時の日差しに赤々と照り輝く皮、きらめくほど瑞々しい半透明の果肉。

 温かみを失ってしまった部屋の中で、それは稀に見る、生き生きとした存在感を放っている。


 なんだか、夫がそこにいるかのよう――……。


 大旱魃の影響から立ち直れず、もっとも李彌殷リヴィアンが殺伐としていた七年前も、夫・余繁ヨハンは常に笑顔で自分たち家族を支え、周囲を励まし、人々に惜しみなく食糧を分け与えた。

 しかし、賊紛いにまで振舞ったことをよく思わない者が火つけ木となり、様々な憶測で疑心暗鬼となった人々に暴動を起こさせた。あげく彼らは、そこで命を落とした夫に吐き捨てた。



*――お人よしが馬鹿を見るとはこのこと



 だから、皆のためにはこれでよかったのだと言わんばかりに、彼らは農園を踏み荒らし、自分たちだけで、すべてを食べつくしてしまった。

 恐ろしかった。まだ物心つく前だったひいなは覚えていないかもしれないが、突き飛ばされたそこで、泣きながら必死に静止を叫ぶその体を抱きすくめ、千春は愕然と震えていることしかできなかった。


 そして、未だに皮肉は止まない。



*――善人面してさ


*――生活に困ったことがないから、楽観的な奴だった


*――誰もが我先にと配給を奪い合っていた最中に、

   能天気な人だったのは確かだね



 そんな言い方があるか―――。




「はい、どうぞ!」


 甘く香る蓮霧の乱切りを差し出され、千春は我に返った。

 乱切りにしたつもりはないのだろうが、包丁の扱いが苦手なので、そういう見た目になっている。

 だが、この上ない思いやりがうかがえるからこそ、どんなものも嬉しくて、美味しくて、幸せだ――……。


 ひいなと同じく、千春もその赤い果実で気持ちが切り替わり、目元を笑みに細めた。



「さっきの髪紐は、喜んでもらえた?」


 おぼつかないながら、それでも時間を忘れて、一生懸命刺繍糸を編んでいた娘の姿を、千春はずっと傍らで見守っていた。


 何があったのか―――蓮霧を貰う前のことは、はぐらかされてしまって分からずじまいだが、だいだい想像はつく。帰ってきたひいなは膝を汚していた。


 通りかかった親切な人物は、その時のひいなが不憫だったため、この果実を持ち帰らせたく思ったのだろう。

 話によれば、萌神荘にゆかりのある人物のようだから、いずれ、自分にもお礼をする機会が巡ってくるはずだ。


 なぜだか、えんの有無にかかわらず直接会ってみたく思い、その日に想像を膨らませながら尋ねる千春に、ひいなは無事、髪紐を渡せたこと――、さらに、思いがけない体験をしたことを興奮気味に語って聞かせる。



「それでね? さっそくひいなが結んであげたんだけど、髪がサラサラで! いいな~と思ってたら、珍しい色のラナマンデル・リリーが出てきて…!」


 久しぶりに見る純粋な娘の笑顔とはしゃぎ声に、千春も自ずと頬がゆるんだ。


 ふいに家の裏手で物音がして、ぴたりと黙ったひいなは瞬きした。

 笛のような微かな風音と、物が転がった音。ゆえに、千春は驚いたわけではなく、ただ、ひいなと顔を見合わせた。


「なにかしら……」


 積み上げてある薪に、猫でも飛び乗ったのだろうか。外壁に掛かっている農具を蹴落とされたか。


「あっ! そういえば、井桁の上に洗った野菜を置きっぱなしだった! それが落っこちちゃったのかも。取ってくる…!」


 この時点では、呼び止めたいほど嫌な予感はしていなかった。だが、千春はひいなを待っているうちに、得体の知れない不安が湧き上がってくるのを感じた。


 確かに物が落ちた気はするが、窓の近くにあるソヨゴの枝が、一切揺れていないことが気になる。

 いつも、急な天候の悪化を教えてくれる木だ。五月のこの時期は白い小花を咲かせ、十月頃になると、小さいサクランボのような赤い実を付ける。


 葉が風に良くそよぎ、寒さや日陰、痩せ地にも耐えるため、夫が我が家の標木にしようと植えてくれた。

 その様子を見る限り、外は無風だ――。


 不自然なほど静けさが耳につくようになってきて、千春は開けっ放しにされたままの戸口に向け、少し声を張った。


「ひいな――っ?」


 先ほどの風音はなんだったのかと思うと、胸がざわついて――。




   ×     ×     ×




「 “ひいな” というのか――、お嬢ちゃん」


 野菜籠は確かにひっくり返されていた。だが、ひいなが土間から裏庭に出たところで遭遇したのは、猫でも泥棒でもなく、真円の “鏡” だった。

 赤い房飾り付きの紐を通し、首から下げられている、重たそうな銅鏡である。

 その中の自分を目にした瞬間から、金縛りにあったように動けなくなっていた。


 中年の声の調子からして、話しかけてきた相手が男だということは間違いないが、土塊つちくれ色の体に白布をまとっている様子以外、分からない。鏡面から視線をそらすことができないからだ。


 異常な状況に冷や汗が噴き出し、氷塊となったそれが背筋を滑り落ちる。

 目を瞠って、小刻みに震えているはずの自分が、鏡の中では無表情で、油膜のような濁りをうねらせる、おどろおどろしい闇を背にしている。


 男が寝物語の世界に引き込むよう、通い合った精神の糸を手繰ってくる。



「他人に支配されている世の中を変えることは、そう容易ではない。だからと言って、自分が変わることも容易くはない。なりたい姿を思い描き、変わりたいと強く願っても、その者の性質というのは、なかなか変えられない……」


 だがね、同じように気に入らないのなら、他者が形作っている外側の世界を変えようとするより、自分の内側を変えるほうがいい。


「その方が、骨を折らずに済むからだ。わかるかい? お嬢ちゃん。神代を崩壊させた者たちは、これを学ばされてきたのだよ」


 男の不気味な引き笑いが、遠のいていく意識の中で反響する。



「学びながらも、未だ、闘い続けている……」


 幻想を抱く欲望。

 慈悲が乏しくなる瞋恚しんに

 盲目となる愚痴の毒にさいなまれながら、実は、天地の鏡と向き合わされたこの化錯界かさっかいでは、自由な人間であっても、己を真摯に見つめ続けなければならない。


 どうあるべきか。


 心は一瞬で、目に映る世界を晴れ渡らすことも、歪めることも―――

 良くも悪くも、人を変貌させる。

 だが、前者はその瞬間にたどりつくまでが、やはり容易ではない。至高の鏡の如き刀剣を生み出すつもりで、一心に鍛え、磨き上げる技術と、何よりも、すさまじい “経験” を要する。 


 天地の境を成していた八雲原やくもばらが消し飛ばされた時のように、そうした傾向の変化は同じ瞬き一つであっても、簡単に起こりえることではない。



「解ったなら、思い描くがまま、なりやすい姿に―――無理のない自分にわってごらん」


「カ……ワ、ル――?」


 片言になったひいなは、自分のことをからくり人形のようだと思った。

 男が帷帽の陰でほくそ笑んでいる。

 褐色の肌に対し、輪郭がはっきりとした分厚い唇は赤紫。黒い顎鬚あごひげをたくわえているが、短く整っており、歯の白さが目立つ。

 単純な棒状や、それを三角に組み合わせた金属の耳飾りをつけている。白布が衣であって、他には何もまとっておらず素足。西北圏の修験者に似た格好だが―――


「私はね、なんであっても嘘偽りのない、ありのままの姿をしたものが好きなんだよ。だから、いつも鏡を磨いている。悪者ではないよ? ただ “真実” が知りたいだけ。元来は刀鍛冶なんだがね……?」



 お嬢ちゃんの心も、研ぎ澄ましてあげよう―――。



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「っ…!?」


 娘を前にぬえの鳴き声で笑っている白装束の男を目にした千春は、引きずってきた体を戸口から突き放した。


「ひいな……っッ!!」


 駆け寄ろうとしたものの、鵺が旋風を巻き起こすほうが早かった。

 息を詰めなければやり過ごせない、砂塵混じりの激しいそれに、痩せ衰えた千春の身体は悲鳴を上げて、あっけなく跳ねのけられた。




〔 読み解き案内人の呟き 〕


【 ソヨゴ 】とは……

 庭木として好まれる樹木。風にそよぐ葉音が特徴的なことから、「そよご」と名付けられた。花言葉は「先見の明」。先読みする力。

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