◍ 白百合を羽織る姫 | 魁花の術
つくずく凄いと思う。
皐月は屋敷の庭を、足に任せて散策していた。いや、正直ここが敷地に含まれるかどうかは、もうよく分からなくなっていた。
*――迷子になるぞ……?
誰か分からない声が、先ほど鐘の音のように一つ、頭の中で響いた。
正確には “自分の声に似ている” ――だから分からないと言うべきか。しつこいその余韻は、ちょっとしたことで舞い上がる泥のようで、心をもやもやさせては、しばらくすると落ち着き、また舞い上がって訴えてくる。
辺りは獅登山の自然と、完全に一体化してしまっている。配されている植物や岩によって園内だと分かる場合もあるが、北へ行くほど傾斜地が多くなり、人の世界から遠ざかっていくように感じられた。
この屋敷にある奇岩は、奇岩というからに、ただ形が変わっているだけの岩ではないらしい。
おおよそが大金を投じて、別の山から運び込まれたものだろう。前園主の財力が、相当のものであった証拠だ。
芭蕉の木と寄り添っている石柱は、蝕まれたように穴だらけ。天に向かって吼えている獅子のような大岩の崖は池の上に迫り出し、先端が氷柱状になっている。
ふと、木立の合間に休憩所のような建物を見つけた。
苔を噴いている年季の入った黒い瓦屋根に木製の扁額がかかっており、ここには『碧鏡亭』と書かれている。
四隅の柱だけで支えられている、こじんまりとした吹きさらしの造りで、低い欄干に縁どられた石畳の床が、そのまますぐ横の小川上にも渡され、山肌を上る石段に続いている。
屋敷の表門を目指して上ったものとは趣が違い、幅狭く、少し蛇行しているため私道のように見えた。
竹林の青竹が映し込まれている泉の淵を歩き、皐月が碧鏡亭へたどり着いた時――、
「あら……?」
それを目に留めた女性が、声をかけてきた。
「何をしているの――?」
――――【 歩く姿は百合の花 】――――
皐月は、また例の泥が舞い上がる感覚を覚えた。
白い泥――……いや、雲か霞か分からないそれに、不思議と懐かしさを覚えた。
石段を見上げた先にいた若い女性が、青碧色の裙の裾から一階段ずつ足を繰り出し、下りてくる。
青竹の中でも映える鮮やかな裾だが、施されている刺繍は朱鷺色の唐草に咲く白百合で、淡く優し気な印象だった。
「皐月――……?」
女性の声は柔らかい。白鷺の翼のような袖から出した手で、薬草を盛った籠を抱えている。
金の枝に水晶を絡めた彼女の玉簪が、竹林のさざめく中にきらきらと揺れ、ふいに
*――あはははっ! もっともっと!
大喜びで繰り返しせがむ童女の笑い声が、頭の後ろで弾けた気がした。
つと、勢いよく回転する万華鏡のような映像が脳裏を過ぎる。
周囲を笹百合に埋め尽くされている何処かで、朝とも夕ともつかない朱鷺色の空と、紫がかった筋雲を仰ぎ、青碧色の衣の裾が棚引く様に目を細めている誰かの視点で、ゆっくりと回転が治まり――
*――はい、お仕舞……――
古い写真機の強烈なフラッシュを浴びせられ、皐月は我に返った。
「久しぶり、ですね――……」
女性は髪が長く、一部をつむじの上でまとめ上げている。それを三つ編みで縁取り、金簪を添えている。
微苦笑を浮かべた光あるふれる瞳が、射干玉のように潤んでいて美しい。
少女に見えなくもない小顔だが、雰囲気的には落ち着いた立派な淑女であった。
額の真ん中に、朱色の花鈿を施している。
「……密、虫――……?」
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皐月のとぼけだ第一声に、女性は目を丸くした。だが、朗らかな笑い声を上げて否定はしなかった。
*――ねえ! 早く早くぅ!
楽しくて仕方なかった幼い頃の記憶が逆に胸をしめつけ、寂しくさせるが、これは自分が甘んじて受けるべき結果であろう。飛叉弥にばかり、味わわせるわけにいかない――……。
女性は残念な思いを断ち切るよう、心の中とは別のことを口にした。
「……――どお? 彼らとは、うまくやっていけそうかしら」
「え?」
「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまって。でも、どうか許してあげて?」
彼らの絆は大樹の根。信念は巌よりも固いのである。だからそれを解いて、隙間をうむことは難しいかもしれないけれど――。
女性は石段前にある桃の古木に向かって歩みだした。
「もしかして……」
ひらめいたような声色で、「あの人たちの “主さん” ――?」と尋ねられ、肩越しに微苦笑を浮かべた。
少し期待した自分への苦笑いでもあった。そう簡単に思い出してくれるわけがない。分かっている――……。
「私――?」
竹笹のざわめきが押し寄せてくる。黄昏時の少し前、竹林に透けて踊る黄金色をした陽光が、視界の隅にあって、いっそう目を細めたくなるほど眩しい。
「私は “玉百合” というのよ――……?」
いずれ、萼を統べる “花神子” になるの。
玉百合は物腰柔らかな雰囲気から一変して、自分を鼓舞するように言うと、五月らしく、すっかり葉を吹いてしまっている桃の枝に触れた。
「ところで、あなたは何故、夜覇王樹の民が “花人” と名乗ることにしたか教わった……?」
皐月は答えない。
玉百合の指先に桃色の蕾が膨らみはじめたのを見て、上の空となっているようだ。
ふっくらと花がほころび、黄色の蕊があくびをするように開き、ほんの一瞬の命を謳歌する。
瞬く間に狂い咲きしたかと思うと、花弁が散りきらないうちに突き出た果実が、赤みを増しながら膨れていく――。
「これは “魁花の術” と言ってね? 生き物の成長を促す花人の基本能力なのだけど、私も困っている人たちに貢献するために授かったの。驚かないわよね――?」
もぎ取った桃の実を手に戻りつつ、玉百合は少し間を置いて言った。
「あなたも……、使えるでしょ?」
「―――……」
甘く香り立つそれを差し出しても、皐月は沈黙を守っている。
玉百合はそっと息をついた。
「――…はい」
傷つかないよう気を遣いながら、両手で冷たくなった皐月の手と一緒に、桃の実を包みこむ。
「顔色が良くないみたい。もしかしてお腹が空いてるのではありませんか? とりあえず、何か口にしたほうがいいわ」
“珠玉” のせいかもしれないけど――。
「え……?」
これには敏感な反応を示し、顔を跳ね上げた皐月が訝しげな眼差しを注いでくるため、玉百合は首を横に振った。
「いいえ、なんでも。疲れたら私の所へ遊びに来なさい。また、お話をしましょう。今度は、とびきり美味しいお茶と、お菓子を用意しておくから――……」
別れ際に、対黒同舟花連の主―――玉百合姫は、そう言って目元を和ませた。
「あの…」
呼び止めてすぐ、皐月は舌打ち顔をした。玉百合は正直、彼が歩み寄ってきてくれるなら、どんな事でも嬉しい。
「なぁに?」
「や、その――……、 “ひいな” っていう女の子の家、知らないかと思って」
「ああ、ひいなちゃんと会ったのね?」
玉百合は自然と今日一番の笑顔になった。
「まだ幼いのに、しっかりした子でしょう? 病がちなお母さんのことを、いつも気にかけているのよ?」
八年前の砂漠化の末に起こった暴動で父親を亡くしているが、辛い経験をバネに明るく振舞っている姿が、健気でいじらしい。とても良い子だ。
李彌殷の南に広がる森に、 “壇里” という高台に築かれた小村がある。
「そこで農園を開いていて、季節ごとに美味しいお野菜を分けてくれるの。でも、どうして?」
皐月は一瞬、答えようとしたように見えたが、結局、自嘲気味な苦笑をもらした。
「…いや、別に」
立ち去り際、受け取った桃を軽く持ちあげて見せてきた。
「――これ。ありがとうございます」
不思議に思いながらも玉百合は追及せず、来た道を戻る背中を見送ってやった。
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呼び止めるべきか迷って、いつまでも眼差しを注がれている気はしたが、皐月はさあらぬ体で竹林から抜け出した。
「あの城郭の南、か――」
一考するこの声を玉百合が耳にしたら、「あれっ、飛叉弥?」と目を剥いたかもしれない。
至極不本意ながら、すべてが彼に似ている自覚がある皐月は、努めて声色を高くしていた。
異界国で、目が覚めたことに気づいた時からだ――。
大したことでなくとも、ある程度は秘密にしておく方が得策。能ある鷹は爪を隠し、秘すればそれは “花” になるという。
人気のない適当なところで、皐月は人外の跳躍力を使い、屋敷の囲牆を飛び越えた。
遮るような雑木の枝葉をなぎ払って、着地すると同時に走り出したその素早さは、鬼魅の森を跳梁跋扈する魑魅――
否。
夜色が深くなる頃、腹を満たしに街へ繰り出す、鬼どもと変わらなかった――。
◆ ◇ ◆
〔 読み解き案内人の呟き 〕
【 魑魅 】とは……
山林の気、沢・石から生ずる精霊・化け物。人面鬼身で、よく人を迷わす。
【 秘すれば花 】とは……
『風姿花伝』より世阿弥の名言。「大したことない内容でも、秘密にすれば、そこに人を魅了する “花(面白さ?)” を咲かすことができる」というような意味…。だと思います。
(2021.07.25 投稿内容と同じ。長文だったため、2022.01.15 分割)




