◍ 巌に花の咲かんがごとし
かの神典は、彼らを人であって人ではない―― “人になりきれない者” という。
功徳を積み、使命を果たした暁には有り得ると言われてきたが、実際には化わることすらも簡単ではないのに。
「愚かな者たち――……」
眼下の彼らを見下ろす紫眼の女は “左蓮” と名乗っている。だが、これは萼に属していることを示す花銘ではなく、自分で勝手に使い始めた自称で、もとは “蓮晏” と呼ばれていたとか。
「……――」
蓑笠の縁に巡る白布の中で、傍らの男は物言いたげにしていた。
左蓮はその胸中を敏感に感じ取ったのか、口元の笑みを消した。
「なんだ」
「いえ……、別に」
本名は “蓮尉晏やづさ” ―――。彼女は十二年前、自国・萼に安置されていた封印用途の呪物・いざす貝を強奪。黒同舟に献上して幹部となった。
華瓊楽国に人為的大旱魃、ひいては砂漠化をもたらすという死蛇九の陰謀実現に欠かせなかった立役者の一人である。
もはや、花人を名乗ることはない。夜覇王樹の民には違いなくとも、耐え忍ぶことを説く集いから足抜きし、信頼性という上に輝ける救国救民の旗印に、近年でもっとも醜悪な泥を塗った罪人だからである。
「私が言えた立場ではないとでも……?」
やづさは鼻で笑う。
そうかもしれない。だが、私に愚かな現実逃避者の自覚はない。
「ほぉ」
「 “この世界における戦い” に、むしろ挑んでいくのさ」
昔、愚公という老人が交通の妨げとなっている山を移そうと、懸命に切り崩し始めたのを周囲の者は嗤ったが、感心した神が一夜にして叶えた。
信念が心願を成就させることを “愚公山を移す” というが、そんなひたむきな努力が奇跡に結び付くことは滅多にない。
雨だれ石を穿つ。石の上にも三年。あきらめずに耐え忍べば、必ず良い結果を生むだろうと希望を抱けるのは、人間のような寿命の短い生き物だけである。
「花人が目指してきたのは、石の上に二千年座しても定まらない姿だ。それこそ現実から逃避していると思うだろう。良くも悪くも、執着心に縛られているだけの、耐えるしか能がない連中には付き合いきれなくなっただけのこと……」
やづさは言いながら、東の方角に体を向けた。
示されたように男もそちらを見ると、いつの間にか霞がかった浮き島が現れていた。時おり目にするが、相変わらず神々しい山容だ。
鈍色混じりの雲が、群舞する白き野鳥たちの姿を引き立たせている。光の柱と奇岩の石柱が乱立しているそこを、右に左に交差しながら降下していく様子が見える。
「ん――? 今日は鴇ではないようですね。真鶴の数も少ないような……」
「あれは白鷺だ」
「おやおや、珍しい。白鷺は鶴領峯より、北紫薇の萼を好んで棲みついているはずですよねぇ。なんらかの啓示ですか……?」
「さぁな。だが、羽蟲の楽園と言われる場所は、いずれにしろ花人にとって地獄。鶴領峯だろうが萼だろうが、摩天だろうがな――」
男は意味深に笑うやづさを怪訝そうに見る反応しかできなかったが、次の一言で、ようやくその笑みが不敵なわけを理解した。
「李彌殷で “目当ての花” を見つけた。そこで面白いものを見たんだ。鵺―――お前に少し、手伝ってもらいたいことができた」
男は一泊置いて、「ヒーヒョー」と気味の悪い引き笑いをした。
「なるほど、なるほど。そうでしたか……」
その名前や声の特徴は、黄褐色の全身に、黒い三日月形の斑紋を呈するという山中の鳥と同じだった。
「虎鶫」や「地獄鳥」とも呼ばれ、夜に鳴いて妖魔と化すことがあったため、今では “つかみどころがなく、正体のはっきりしない人物や物事” の象徴でもある。
鵺は今宵、起こりえるだろうことを想像するだけで、くつくつと笑いが止まらなくなった。
「花人の火将が昇らせる炎は、憤怒の光背……」
水将が降らせる雨は、干天の慈雨。
木将が茂らす草は、万民の薬。
風将が呼ぶ風は、光明を阻む八雲を消し飛ばし、
雷将が轟かす雷は畏怖を与え、再び天を覆いつくていく。
土将が築き上げる巌は、覇者のための城と地獄を成し―――
衆生をそこに芽吹かせ、いたずらに散らす世界を造り上げて、酒を食らいながら見下ろしているだけだから、造世霊を操る万将は、最もタチが悪いと言われる。
救うことも、殺すことも自在。花人の頂点にいるのは、実はそういう奴だ。
とりわけ、地獄に落ちた罪人に関しては、煮るなり焼くなり好きにできる。
足元に額づく自業自得な連中を尻目に、花人の王が楽しんできた盤上の戦は、実質、人型の駒を操る人形遊びであった。
しかし、残酷極まりない鬼のくせに、妙な人間味も持っており、当代は一番の変わり者として名高い。
その珍奇な様は、厳つい懸崖になど根付くはずのない、優美な花の如く。
あるいは、闇に秘められた真実―――、神代世界樹を彷彿とさせるという。
「大鏡のような月を掲げ、巌の上で
万朶の花を咲かせる、恐ろしくも美しい魅惑の鬼神――……」
巧妙に隠されてしまったそれを、黒同舟はずっと探し歩いてきた。
むき出しの左目を細め、鵺は恍惚と呟く。
「はたして、引きずり出せますかな……?」
「思いが強ければ強いほど、結びつこうとする。これが切れ目のない “縁” という皮肉だ」
なぁ、飛叉弥――……。
やづさは眼下に見当たらない彼に問いかけた。
「お前は引きずり出すまでもないかもしれないが、たまには、積極的に会おうじゃないか――」
「それで、何をどう手伝えと?」
鵺はすっかりその気になっており、早口で急かす。
披帛をひるがえしたやづさは、足を止めて一考した。
「そうだな……」
とりあえず、李彌殷の “壇里” という村に向かってもらおう―――。
◆ ◇ ◆
〔 読み解き案内人の呟き 〕
【 巌に花の咲かんがごとし 】とは……
『風姿花伝』より世阿弥の名言。
「珍しいってのは、人を惹きつけるよね。岩上に咲く花みたいにさぁ」
というような意味…。だと思います。
(2021.07.11 投稿内容と同じ。長文だったため、2022.01.18 分割)




