◍ 萼国夜叉 治
逃げる途中、足をくじいてしまい、一人、とぼとぼと集会場がある中央広場を目指していた女性がいた。
「花」と書いて「ツェチグ」という。夫は畝閏の警衛部隊に所属している。
兵士の妻の中でも自分はたくましいらしく、鬼嫁と呼ばれており、幼少期のあだ名も「鬼」だった。年中霜に当たっているかのような赤ら顔のせいだ。
艶のある黒髪だけが自慢で、へそに届くほど伸ばしてきたが、反って気味悪がられるため、昔から左右に分け、三つ編みにしている。
ちなみに、夫の同僚らがツェチグを鬼嫁と言い表すのは、容姿と関係なく、あくまで勝気な性格による。「鬼薊」・「鬼百合」・「鬼蓮」―――強くいかめしい花は総じて、「鬼」と結び付けられる。今では、誉め言葉だと受け取っている。
姉妹のように育った幼馴染たちと、夢中で高原の草花を摘んだ故郷が恋しいには違いないが、住めば都。都会生活も悪くないと思うようにして暮らしてきた。
土豪劣紳と化し、罷免された前任の鎮帥と部隊に代わり、奎王様のご指名を受けて畝閏に住めることになった自分たちは、故郷を失ったとはいえ幸運であった。華瓊楽の辺境は一時期、それこそ鬼のようにたくましくなければ生き残れない、地獄と化していたのだから――……。
「肩を貸そうか」
追想を断ち切られ、振り返ったそこにいたのは、身の丈が六尺を超す大男だった。
軍服のような兵装だが、いつも世話になっているトルジたちとは雰囲気が違う。というか、彼は華瓊楽の軍人ではないらしい。
ツェチグは思わず固まってしまった。話には聞いたことがあったが、実際に目にしたのは初めてだ。
筋肉が盛り上がった岩の腕、赤馬の肌、大木の胴体、深緑の瞳という、正真正銘の鬼の風体である。
その大男は、白い大判の布に包んだ小荷物を袈裟懸けしていて、紐に通した複数の小さな巾着袋と、羊の胃袋を干した皮製の水筒を腰の右側に下げている。
彼はおそらく、李彌殷に配置されている対黒同舟花連の一人だ。後ろに、同じような兵装の若い女が二人、青年が一人――。
「だ…、大丈夫です」
さしものツェチグも、体が勝手に後ずさってしまった。
女二人は一見普通の人間に見えるが、肩や腕に刺青のような赤黒い花模様がある。美貌でも、他人を寄せ付けない威圧感をまとっていて、特殊武器を扱う刺客に近い武装だ。
青年の方は、雪と見紛う髪色が印象的で、故郷の雪嶺の主であった飛豺のように目が鋭い。
「広場はすぐそこですし…」
「でも、足を怪我している。ちょっと診せてくれ」
気丈にふるまって見せるツェチグに、大男は苦笑をもらした。
その場にかがみ、背中の小荷物を広げていく。
ツェチグは戸惑い半分、珍しいものばかりの彼の仕事道具に見入った。
|
|
|
「菖雲――」
“菖雲” と呼ばれた勇は、ぴくりと反応して傍らを見下ろす。
「どうしましょうか。とりあえず……」
張り合いなさげな薫子が、黒鉄扇を手慰みにして言う。
胸元の開いた袖無しの軍服の下に黒い晒を巻き、二の腕まで覆う同色の手甲、裾の広がった袴に軍靴、背中に軍刀――。この姿の時は “芳桜” と名乗っている。
「どうするも何も」
飛叉弥が言っていた。花連に命じられたのは “後始末” だと。
「…ってことは」
満帆がいかにも憂鬱そうな顔をした。
こけし人形のような幼児体系が悩みの彼女は、襟をぴっちりと閉めて、男たちと同じ褲に長めの軍靴を履いている。普段は、肩につく程度の長さの黒髪を下ろしているが、任務となると、ちょんまげ結びにして気合を入れ、ぼやきながらも、やるべきことはきっちりやる。
彼女は椿家出身のため、 “椿奈” と言う花銘だ。
「また例の試料採集……?」
「だろうな」
|
|
|
何やら相談している後ろの三人から視線を足元に戻し、ツェチグは黙々と手当てしてくれている相手に、ふと申し訳ない感情を抱いた。
大柄だが、処置を受け始めてみると思っていたより丁寧で、泥だらけの足を、ガラス細工のように扱ってくれている。
「よかった、よかった。ただの捻挫だ」
彼が白布の上に広げた重箱の中身は、驚いたことに、小さな温室のようになっていた。
細かい仕切りごとに、瑠璃色や茶色の遮光瓶、翡翠、金の薬壺が詰まっているのはなんとなく想像していたが、透明瓶の中には泡を垂らしている木片や、風にそよぐ蜘蛛の糸のような、見たことないものが閉じ込められている。
蝶まで収まっていた。箱の三層目を引き出した途端、標本状になっていたそれが、ピクピクと羽を震わせて目覚め、飛び出してきた。
枯れ葉に擬態する木の葉蝶のようで、時おりバタつきながらも、先ほどからツェチグの右足首に止まっている。……むず痒い。
「これは……」
「息吹という霊虫だ。軽症の治療なら、そいつにおおよそ任せられる」
緑眼の大男は穏やかに答えつつ、帆布に包んだ治療道具の中から鉄嘴を手にした。透明瓶の中の木片が噴いている泡を脱脂綿に含ませ、「手を――」と短くツェチグに要求する。
転んだ際、散乱していたガラス片で左前腕を切ってしまっていた。直後から右手でずっと押さえていたため、傷の深さがよく分かっていなかったが、どうやら縫合が必要であるらしい。
ツェチグは恐る恐るだが、傷口を見せた。
男がもう一つの透明瓶を開けると、中で揺蕩っていた奇妙な蜘蛛の糸が自ら出てきた。細い煙が昇るように。
「ひぃっ」と思わず息をのんだツェチグの顔がおかしかったのか、男が朗らかな笑い声を上げた。
ツェチグに子どもはまだいないが、こんな話を聞いたことがあった。昔から、赤子の夜泣きやひきつけは疳の蟲が起こすもので、呪い師が “蟲切り” を施すと治まる。施術の後、手の平を塩揉みすることで、赤子の指先からこのような白い糸が抜け出ると――。
蟲は生まれながらにして人間の頭、腹、下半身に閉じ込められており、完全に開放されるため、夜になると宿主の悪行を神に吹き込み、寿命を縮めさせるのだとか。
それが、傷口から入り込もうとしているようにしか思えなかった。
今にも失神しそうなツェチグをよそに、蜘蛛の糸は男の手つきとよく似た動きで、丁寧に切り傷の縫合を終えた。
ぷつっと自ら切れて、自ら瓶に戻る世話いらずな蟲であった。
ツェチグの涙も恐怖も、ここで断たれた。
「怖い思いをさせたなら謝ろう。でも、その糸なら完治する頃に自然と消える。抜糸の必要がない」
「……、あの――……」
|
|
|
柴は “桐騨” という花銘を名乗っている。桐の木は十メートルを優に超す大木となり、切っても切っても、ちゃんと芽を吹く強い花木だ。
首の後ろに発現した華痣はしかし、明らかに桐紋ではなく、実は彼も葎の出で、桐峰の姓は、軍医の地位を極めた師から分与された。
薬草以外の知識にも長け、 “人が花と化すのも、花が人と化すのも容易ではない” という現実を口癖のように唱えながら、ただ儚い夢のように聞かせてくれた恩師だ。
「ありがとう――……、ございます」
桐騨は思いがけず降ってきた呟きに目を瞠った。
三泊ほどその言葉の余韻を味わい、燦々とさざめく畝閏の山肌のような瞳に、やや不器用な笑みを浮かべ返した。




