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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 第三鐘 ◇ 奇襲 ――――――
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◍ 萼国夜叉 治

  

 逃げる途中、足をくじいてしまい、一人、とぼとぼと集会場がある中央広場を目指していた女性がいた。


 「花」と書いて「ツェチグ」という。夫は畝閏(セジュン)の警衛部隊に所属している。

 兵士の妻の中でも自分はたくましいらしく、鬼嫁と呼ばれており、幼少期のあだ名も「鬼」だった。年中霜に当たっているかのような赤ら顔のせいだ。


 艶のある黒髪だけが自慢で、へそに届くほど伸ばしてきたが、反って気味悪がられるため、昔から左右に分け、三つ編みにしている。


 ちなみに、夫の同僚らがツェチグを鬼嫁と言い表すのは、容姿と関係なく、あくまで勝気な性格による。「鬼薊オニアザミ」・「鬼百合」・「鬼蓮オニバス」―――強くいかめしい花は総じて、「鬼」と結び付けられる。今では、誉め言葉だと受け取っている。


 姉妹のように育った幼馴染たちと、夢中で高原の草花を摘んだ故郷が恋しいには違いないが、住めば都。都会生活も悪くないと思うようにして暮らしてきた。


 土豪劣紳と化し、罷免された前任の鎮帥と部隊に代わり、奎王けいおう様のご指名を受けて畝閏(セジュン)に住めることになった自分たちは、故郷を失ったとはいえ幸運であった。華瓊楽カヌラの辺境は一時期、それこそ鬼のようにたくましくなければ生き残れない、地獄と化していたのだから――……。




「肩を貸そうか」


 追想を断ち切られ、振り返ったそこにいたのは、身の丈が六尺を超す大男だった。

 軍服のような兵装だが、いつも世話になっているトルジたちとは雰囲気が違う。というか、彼は華瓊楽カヌラの軍人ではないらしい。


 ツェチグは思わず固まってしまった。話には聞いたことがあったが、実際に目にしたのは初めてだ。

 筋肉が盛り上がった岩の腕、赤馬の肌、大木の胴体、深緑の瞳という、正真正銘の鬼の風体である。

 その大男は、白い大判の布に包んだ小荷物を袈裟懸けしていて、紐に通した複数の小さな巾着袋と、羊の胃袋を干した皮製の水筒を腰の右側に下げている。

 彼はおそらく、李彌殷リヴィアンに配置されている対黒同舟花連の一人だ。後ろに、同じような兵装の若い女が二人、青年が一人――。



「だ…、大丈夫です」


 さしものツェチグも、体が勝手に後ずさってしまった。

 女二人は一見普通の人間に見えるが、肩や腕に刺青のような赤黒い花模様がある。美貌でも、他人を寄せ付けない威圧感をまとっていて、特殊武器を扱う刺客に近い武装だ。

 青年の方は、雪と見紛う髪色が印象的で、故郷の雪嶺の主であった飛豺とびやまいぬのように目が鋭い。


「広場はすぐそこですし…」


「でも、足を怪我している。ちょっと診せてくれ」


 気丈にふるまって見せるツェチグに、大男は苦笑をもらした。

 その場にかがみ、背中の小荷物を広げていく。


 ツェチグは戸惑い半分、珍しいものばかりの彼の仕事道具に見入った。



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菖雲しょううん――」


 “菖雲” と呼ばれた勇は、ぴくりと反応して傍らを見下ろす。


「どうしましょうか。とりあえず……」


 張り合いなさげな薫子が、黒鉄扇を手慰みにして言う。

 胸元の開いた袖無しの軍服の下に黒いさらしを巻き、二の腕まで覆う同色の手甲、裾の広がったはかまに軍靴、背中に軍刀――。この姿の時は “芳桜ほうおう” と名乗っている。


「どうするも何も」


 飛叉弥が言っていた。花連に命じられたのは “後始末” だと。


「…ってことは」


 満帆がいかにも憂鬱そうな顔をした。

 こけし人形のような幼児体系が悩みの彼女は、襟をぴっちりと閉めて、男たちと同じはかまに長めの軍靴を履いている。普段は、肩につく程度の長さの黒髪を下ろしているが、任務となると、ちょんまげ結びにして気合を入れ、ぼやきながらも、やるべきことはきっちりやる。

 彼女は椿家ちゅんけ出身のため、 “椿奈チュンナ” と言う花銘だ。



「また例の試料採集……?」


「だろうな」



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 何やら相談している後ろの三人から視線を足元に戻し、ツェチグは黙々と手当てしてくれている相手に、ふと申し訳ない感情を抱いた。

 大柄だが、処置を受け始めてみると思っていたより丁寧で、泥だらけの足を、ガラス細工のように扱ってくれている。


「よかった、よかった。ただの捻挫だ」


 彼が白布の上に広げた重箱の中身は、驚いたことに、小さな温室のようになっていた。

 細かい仕切りごとに、瑠璃色や茶色の遮光瓶、翡翠、金の薬壺が詰まっているのはなんとなく想像していたが、透明瓶の中にはあぶくを垂らしている木片や、風にそよぐ蜘蛛の糸のような、見たことないものが閉じ込められている。

 蝶まで収まっていた。箱の三層目を引き出した途端、標本状になっていたそれが、ピクピクと羽を震わせて目覚め、飛び出してきた。

 枯れ葉に擬態する木の葉蝶のようで、時おりバタつきながらも、先ほどからツェチグの右足首に止まっている。……むず痒い。



「これは……」


息吹いぶきという霊虫だ。軽症の治療なら、そいつにおおよそ任せられる」


 緑眼の大男は穏やかに答えつつ、帆布に包んだ治療道具の中から鉄嘴ピンセットを手にした。透明瓶の中の木片が噴いている泡を脱脂綿に含ませ、「手を――」と短くツェチグに要求する。


 転んだ際、散乱していたガラス片で左前腕を切ってしまっていた。直後から右手でずっと押さえていたため、傷の深さがよく分かっていなかったが、どうやら縫合が必要であるらしい。

 ツェチグは恐る恐るだが、傷口を見せた。


 男がもう一つの透明瓶を開けると、中で揺蕩たゆたっていた奇妙な蜘蛛の糸が自ら出てきた。細い煙が昇るように。


「ひぃっ」と思わず息をのんだツェチグの顔がおかしかったのか、男が朗らかな笑い声を上げた。



 ツェチグに子どもはまだいないが、こんな話を聞いたことがあった。昔から、赤子の夜泣きやひきつけはかんの蟲が起こすもので、まじない師が  “蟲切り” を施すと治まる。施術の後、手の平を塩揉みすることで、赤子の指先からこのような白い糸が抜け出ると――。


 蟲は生まれながらにして人間の頭、腹、下半身に閉じ込められており、完全に開放されるため、夜になると宿主の悪行を神に吹き込み、寿命を縮めさせるのだとか。


 それが、傷口から入り込もうとしているようにしか思えなかった。



 今にも失神しそうなツェチグをよそに、蜘蛛の糸は男の手つきとよく似た動きで、丁寧に切り傷の縫合を終えた。

 ぷつっと自ら切れて、自ら瓶に戻る世話いらずな蟲であった。

 ツェチグの涙も恐怖も、ここで断たれた。


「怖い思いをさせたなら謝ろう。でも、その糸なら完治する頃に自然と消える。抜糸の必要がない」


「……、あの――……」



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 柴は “桐騨とうだ” という花銘を名乗っている。桐の木は十メートルを優に超す大木となり、切っても切っても、ちゃんと芽を吹く強い花木だ。

 首の後ろに発現した華痣はなあざはしかし、明らかに桐紋ではなく、実は彼もむぐらの出で、桐峰の姓は、軍医の地位を極めた師から分与された。


 薬草以外の知識にも長け、 “人が花と化すのも、花が人と化すのも容易ではない” という現実を口癖のように唱えながら、ただ儚い夢のように聞かせてくれた恩師だ。



「ありがとう――……、ございます」



 桐騨は思いがけず降ってきた呟きに目を瞠った。

 三泊ほどその言葉の余韻を味わい、燦々とさざめく畝閏(セジュン)の山肌のような瞳に、やや不器用な笑みを浮かべ返した。



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