◍ 髪紐
「おーい!」
どこからか、甲高い声が飛ばされてきた。
はじめは虫の羽音かと思ったため、ずいぶん遠いところからだ。
皐月は花連のメンバーの前でこそ、普通と言い張ったが、実際には視覚も聴覚も人並み外れている自信がある。
だいたい見当をつけたあたりから見渡していくと、途中から湾曲している水路沿いの道を、息せき切って走ってくる小さな少女が、こちらに手を振っていた。
チャイナ服に似た筒袖の白い上着に、小豆色の長い裙という格好。頭の左右で髪をまとめ、そこから垂らした三つ編みをなびかせて―――。
「お~い!」
弾む呼吸にくたくたの情けない声を交えながらも、だんだんはっきりしてきた顔には、嬉しそうな笑みが見て取れた。
「皐月お兄ちゃーんっ!」
「ひいな?」
「わぁ!」
石橋を上りきり、最後の脚力を使って飛びついて来たきたひいなを受けとめ、皐月は何事かと瞠目したまま動けなくなった。
「ちょうどよかった! 今、萌神荘に行こうとしてたところだったの。あのね?」
ひいなは右手に握ってきたものを、うんと背伸びして見せてきた。
指先ですくいとるように受け取り、皐月はしげしげと、手にしたそれを観察した。
ややくすんだ紺色と黒の刺繍糸が、二十センチほどの長さに固く編み合わされている。両端は房状になっていて、流木のように白茶けた丸い木ビーズが一つ、留め具として通されていた。
「あげる、それ!」
皐月はひいなの満面の笑みに、思わず見入った。
「え…、俺に……?」
「うん! 髪の毛が長いと、必要な時もあるかなぁ~、って…」
後ろの毛先は腰の下まである。飛叉弥も同じくらいの長髪だ。しかも最近まで黒髪だったために、青丸、蕣、燦寿、ひいな――みんな少なからず、皐月を飛叉弥と勘違いしたであろうことは想像に難くなく、嘉壱は今更ながら、皐月に護衛をつける必要性に気づかされた。
なにせ、飛叉弥という男は敵が多い。自分でも気づかぬうちに恨みを買っていたり、本人もいちいち覚えていなかったりで、覚えていたとしても、まずもってすっとぼけるため、それが一層、相手の怒気を煽ってきた。
皐月が人違いであることを訴える間もなく、殺られるなんてことも…………あり得ない話ではない。
「気に入らなかったっ?」
「え?」
ひいなは突き上げるように問うた後、一転してのろのろとうつむいた。
「その…、あんまり上手に編めなかったから――……」
手持ちの刺繍糸に、ちょうどいい色が無かったため、配色も悪い。好みでなかった日には使いづらいだろうと迷ったあげく、そういう地味な仕上がりとなってしまったと、声をしぼませていく。
柳の爽やかな香りが翔け抜け、のどに絡むほど甘そうな揚げ菓子のにおいが、皐月の記憶の引き出しを一つ、開放する。
大した反応が得られなかったため、やはり不安を口にし、捨てられても仕方がないと諦め半分の恥ずかし気な少女が、ひいなの横にもう一人見えてきた。
ありありとそこに思い描けるくらい、今でもはっきり覚えているからだ。柔らかな癖毛をつむじの上で一つ結びにしていて、普段は本人の性質そのものを示すかのように跳ね返っているそれが、力なく垂れている様子。
*――美味しくなかった? やっぱり――……
ちょうど、ひいなと同じぐらいの年頃に、はじめてクッキーを焼いたと、大量に並べて見せてきた幼馴染の少女の記憶である。
紅茶色の彼女のポニーテールが萎れかけているのを前に、当時も、なんと返せばいいか迷った。 “そんなことはない。ありがとう” と口にすればいいだけの話だが、子どもの頃ほど、言葉がつたないわけではなくなった今も、つい複雑な感情を抱いてしまって、素直に気持ちが表せない。
「ひいな……」
ひいなは不思議そうにしながらも、皐月の腕に、黙って抱きあげられた。
なぜ欄干に座らされたのか、次の言葉で理解した。
「ちょうど、横髪がうっとうしいと思ってたんだ。でも――……俺、不器用だから、ついでに結んでくれると……、嬉しいんだけど」
三つ編みは無し……。
で、お願いしたい。
最後はものすごい真顔だった。
真剣そのもの過ぎて、ひいなは思わず重大任務であるかのように錯覚し、身を固くしたが、こらえきれなくなって吹き出た。
ケラケラと、耳横のお下げを揺らすほど、たっぷりの苦笑を返した。
「分かった! じゃあ、普通に結ぼ! 頭のろで横髪を一つにぃー…」
受け取った組み紐を口にくわえ、さっそく皐月の髪を手櫛ですき始めた時、
「よお、嬢ちゃん。すまねぇがぁ、ちょっとこっち向いてくれるか――?」
言われるまでもなく、反射的に皐月の頭から肩へ視線を落としたひいなは、丸く見開いた目をぱちぱちさせた。
黒い絹布の暖簾を潜るようにして、皐月の髪の裏から、青と桃色の鼠が顔をのぞかせた。
玉尾木鼠だ。李彌殷のような、大都の街中で見かけるのは珍しい。
「あー…、やっぱりな」
観察を終えた青丸が、短い前足を組んだ。
「さっき親分をさらって行った嬢ちゃんだ」
「ああっ!」
蕣も声をあげ、青丸の背中に半ば負ぶさりながら、窃盗犯を見つけた被害者のリアクションをした。
「ホントでやんすっ!」
「これ、ちっと待ちんさい。その “親分” になる前の無知な少年を、どこぞへ売り飛ばそうとしていたのは、どこどいつらじゃ」
「おーま~え~らあああーーーっッ!」
燦寿の針のような視線プラス、地面を踏みぬかんばかりの嘉壱が近づいてくるのを、青丸は嫌そうにしながらも拒まなかった。
「さては、こいつを伏魔殿の競売にでも掛けようとしてやがったな!? 飛叉弥が知ったら丸焼きにさるぞっ! 覚悟しとけッ!」
来るのは拒まなかったが、捕まるのは嫌なこったと、二匹は皐月の右肩から左肩をちょこまかし、頭の上、顔面、胴体を伝いおりて諸手を上げ、わーわー言いながら足元を逃げ回りはじめる。
「助けて親びいいいいーんっ!」
「うるさいお前ら。しばらくどっか行ってろ」
再び肩に飛び乗ろうとしたが、見事に避けられた。橋下に吸い込まれてゆく二匹の絶叫……。
ひいなは、派手に水しぶきが上がった様子を見下ろした。三泊ほどして浮かんできたうつ伏せの毛玉二つが、そのまま仲良く流れていく。
何やら悪いことをしようとしていた二匹のようだが、大丈夫だろうか……。
「髪紐…」
「え?」
ひいなは皐月の頭に注目を振り向けた。
「――…ありがとう。何かお礼がしたいんだけど…、生憎と俺、無一文で、飴玉一つ持ってないんだよね」
あそこの屋台のお菓子でも食べる? この金髪お兄さんが、おごってくれるってから。
「なっ!?」
ちゃっかり他人に返礼させるつもりの皐月に、嘉壱は目を剥いたが、一応空気を読んで突っ込みは控えた。(まぁいい。揚げ菓子の一つや二つ……)
皐月は、生爪をくれてやる以外にないわけだし、大金が手に入るとはいえ、そんなものを手渡されて喜ぶ少女はいないだろう。むしろ、青ざめる顔しか想像できない……。
引きつり気味の笑顔を浮かべ、「おお! ちょうど俺たちも食おうと思ってたとろなんだ~!」と意気揚々、買いに誘う嘉壱に、ひいなは「いいよ」と当然の如く遠慮した。
「髪紐はさっきのお礼だから」
「 “さっき” ―――?」
きょとんとする嘉壱に、燦寿が背後から、さりげなく歩み出てくる。
「おそらく、今朝のことじゃろう」
ケロっとして、皐月とたわいない会話を楽しみ始めた様子を見るに、ひいなの中では話が済んだようだが、嘉壱は取り残された感が否めない。皐月が萌神荘を訪れるまでの経緯を、燦寿から簡潔に解き明かしてもらった。
嘉壱にとってその内容は、やはり意外でしかなかった。
「……――、おや?」
黙り込んでしまった彼の背景に、ふと、白い羽ばたきを認めた燦寿は、片瞼を持ちあげた。
風に流されそうになりながら、仏塔群の狭間の青空より、一匹の蝶が舞い降りてきた。半紙のようにのっぺらとしているそいつは、水平飛行となると、燕並みに素早く……
*――りんごをな……
「……――
*――りんごを、くれてやりましたのじゃ……
「嘉壱」
「?」
はっと顔を上げると、燦寿が何やら目配せをしてきた。
嘉壱はようやく、自分の傍らでホバリングしているそれに気づいた。
「密虫……?」
「どうやら、火急の報せのようですなぁ」
鈴虫の音を発しながら忙しなく羽ばたいていた白揚羽が、嘉壱の右耳に止まって沈黙する。
見た目は蚕だが、蚕は家畜化された昆虫のため、飛行できない。これは昆虫型の鬼魅で、羽を完全に開かせないと分かりづらいが、内側に朱肉色の花紋があり、割印のようになっている。
胴体の背にも花鈿を思わせるその模様が浮かんでいて、赤は重要な伝言を携えてきた印だ。
“音声” を聴くにつれ、剣呑な色をにじませて行く青翆玉の瞳を見つめていた燦寿が、先んじて声をかけた。
「皐月―――」
飛び立った密虫は、獅登山の方角へ向かった。
「どうやら、戻った方がよろしいようじゃぞ……?」
【 第二鐘 ◇ 眼力 / END 】




