◍ 老竹仙人と木鼠再び
「さ…っ、燦寿様…!?」
のほほんと歩み寄ってきた老爺を目に入れるや、嘉壱は慌てて欄干から飛び降りた。
白神狼・范燦寿太仙老は、長く垂れ下った眉を持ち上げ、嬉しそうに相好を崩した。
眦はいつ見てもにこやかだが、この老人、実は一睨みしただけで、熊をも射すくめてみせる眼光の持ち主である。
「新人のお守りとは嘉壱、お前さんも、ようよう昇格というわけかぁ。よかったのぉ~。ふぉっほっほ…、ぐぉほっ」
お茶のすすり方と笑い方には、とりわけ気を付けなければならない、自称当代最高齢……。
燦寿から目をそらした皐月は、縁側で昼寝していた猫のような大あくびをした。
「なに? じーちゃん。この金髪お兄さんとも知り合いだったの?」
「世間は狭い。無事に会えましたかな? “白獅子髪の隊長殿” にも」
びっくりしておったじゃろ~。
「………。」
「燦寿様も、こいつに道案内してくれてたんすか?」
「偶然じゃがなぁ」
燦寿と話し込み始める嘉壱に対し、皐月は会話の内容に関心がないのか、水路を下っていく荷舟をただ眺めているだけになった。
実は、燦寿の裾の陰からその横顔をじーっと見つめている金色眼が二対――。
「……また出たな? 妖怪 “短足鼠” ……」
そう、ため息をつかれるのを待っていた。
にっと三つ口の端をつり上げ、ブルーは嫌々な皐月の物言いも気にせず、堂々と再登場してやった。
「勝手にいなくなっておいて、詫びの一言もなしですかい? ひでぇすぜ旦那ぁ。人買いの手にでも渡っちまったのかと、心配したんですぜぇ?」
偉そうな二足歩行のブルーを追い越し、ピンクは手鞠のように弾みをつけながら飛びついて行く。
「わーっ、もお旦那ぁ~! 二度と会えないかと思ったあ~! よかったっス無事でッ!」
皐月の右肩にぶら下がるや、モフモフの白い頬をすり寄せるピンクの仕草は、まるで、窃盗にあった大事な骨董品が手元に返ってきた時のよう……。
自分も何食わぬ顔で嘉壱を黙殺したろうと思ったブルーだが、悲しいかな。ピンクと違って可愛げのない万年悪人面のせいで、そうはいかなかった。
「おい待てコラ」
首根っこを摘みあげられ、まさに、鬼に取って食われる寸前の構図に……。
「ぎゃああああッ、兄貴いいいいーーーっッ!!」
気づいて振り返ったピンクから、容赦を乞う叫び声が上がる。
玉尾木鼠――愛らしい名前の通り、自分たちは毛蟲界の手乗り鸚哥だ。色とりどりで、個体性が顕著。姿形こそ鼠ではあるが、尻尾の先に払子を思わせる毛束が生えており、 “しゃべる宝石” と珍重がられたりもする。
それにしても、あまり見かけない鮮やかなこの毛色を怪しまれているのだろう。あるいは、人語が達者すぎる点か――。
「いきなりなんでぇ」
ブルーは捕まった無様な格好ながら、億さず、むしろ短い腕を組んで見せた。
左耳にかじられたような欠損があり、不良っぽさと大胆不敵な態度では、嘉壱に負けず劣らずである自信を持っている。
「菊嶋の旦那ともあろう方が、こんな小物をとっ捕まえてどうしようってんで?」
「言わなくても分かってんだろ。事と次第による。あと、なんで俺のことを知ってやがる」
「容赦ないと恐れられながも不甲斐ない噂の絶えねぇ、あんたら花連のことを知らない鬼魅なんてぇいませんよ。何より、小妖種らの情報網をナメてもらっちゃー困りやすぜ」
「説明しろ。いつ、どこで皐月と知り合った」
「矢継ぎ早ですねぇ」
「お前らみたいな小妖種風情が、なに企んでやがるかしらねぇけどなあ、少しでも妙なこと吹きこんでやがったら…」
「嘉壱」
振り向いた彼に、燦寿が顎を使って大きく頷いた。
嘉壱はわけがわかない現状が大いに不服なようだが、ブルーが縫いぐるみのように大人しくしていると、渋々、元の通り地べたに据えつけた。
ブルーは瞳孔が細いつり上がり気味の目で、三泊ほど嘉壱と見つめ合い、結局、何事もなかったように皐月の足元へと駆け寄って行った。
「いやぁ~、まったくー。なにはともあれ、無事でよかったです」
軽々と跳躍し、ピンクと同じく、皐月の右肩の上に飛び乗る。一転して鼻歌まじりの機嫌で。
対照的な皐月は、さも「参った」と言わんばかりだ。
「や…、実はちょっと妙な事になって、ずっとあの人たちのところに――」
ブルーはピンクとその視線を追って、今一度、嘉壱の仏頂面をうかがう。
まだ自分たちを睨んでいる。至極うさん臭げに据わっているが、その青翆玉の目は、やはり宝石のように美しい……。幾らになるだろうかと、なんにでも見境なく、気が付くと現金を想像してしまうから、ホームレス鼠は嫌だよ。
「ところでお前らさぁ」
「へい?」
「俺に何してくれようとしてたんだっけ――?」
「ああ、そおそ! 鑑定士に…」
ポンと手を打ち、バカ正直に答えかけたピンクの横面一直線。ブルーの華麗な回し蹴りがめり込む。
「ぐぇふ…っっ‼」
「や。いいんです、いいんです。気にしないでくだせぇ。アッシらじゃあ、どうせ旦那のお力にはなれやせんでしたでしょうから」
「ふぅん。そうなのか? ピンク」
生まれたての子馬のように、必死で立ちあがろうとしていたその背中を、さらに直下して踏みつける。
「ところで旦那?」
ばしばしばしばし…ッッッ‼ と、地面を連打する音を黙殺し、ブルーはピンクの背中に、どっしりと座ったまま皐月を仰いだ。
「今朝から気になってはいたんですがぁ……」
「ん?」
「アッシらの呼び方のことで。 “ブルー” ・ “ピンク” ってのは一体ぇ……」
皐月は気だるげな様子に加え、少し厄介そうに答えた。
「ああ、さすがにその単語は耳馴染みが無かった? 色だよ。体の色。英語っていうかぁ……、外国語でいう桃色と青のこと」
「 “色” ですかい――?」
異国から転がり込んでくる珍品に、長年生活をかけてきたブルーだ。売れるかどうか、ある程度自力で選別しようと、希少価値を見定める眼力を養うため、書物なども拾い集めながら、あらゆる事物の名称を覚えた。
(言われてみりゃー、そんな単語を頭に入れた記憶があるような~、ねぇようなぁ……)
勉学とて、好きこそ物の上手なれ。元来の収集癖も手伝い、独学ながら、着実に知能を鍛え上げてきたブルーは、ラナマの中でも博識を自負している。
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「燦寿様……」
嘉壱は燦寿に向きなおり、真剣な眼差しを注いでいた。
「言いたいことは分かっておる。あやつらはワシの使役ではないがの、まあ心配せんでも大丈夫じゃろ。普通の木鼠ではないから、色々勘繰りたくなるのは分らんでもないが…」
「あのぉ……」
嘉壱が尋ねたいことは、他にもある。燦寿とは華瓊楽に駐留するようになってから必然的に関わってきた。
「ちなみにですねぇ…」
「なんじゃ」
「いや…、壽星台閣が須藤皐月を、飛叉弥の助っ人として認めたって聞いたんですけど…」
「皐月はなんと言っておる。やはり拒んでおるのか――?」
肯定の上でないと出来ない質問が返ってきたことで、嘉壱はようやく確信を得た気になった。
燦寿は嘉壱が「冗談でしょう?」と一笑したいものと思いこんでいるらしく、鉛のように重たいため息をついた。
「お主らも混乱しているとは思うが、飛叉弥は自分の務めを放り出すのではない。あやつのこと。おそらく、口では大して語ろうとせんじゃろうが……」
何も聞かず、言わずとも、信じてやれるとしたら真の “仲間” だけ。
「信じてやれるはずじゃぞ? あくまで “同じ花人” ならばな――?」
老人の瞼の下から覗いている榛色の瞳は、皐月の横顔を映している。
飛叉弥のことを言っているのではないと分かった。嘉壱は燦寿に倣い、改めてそちらに視線を注いだ。
――――【 命名 】――――
「そうだ。最初に教わっておけばよかったんだなぁ」
「はい?」
何やら考え事をしていたらしく、ふと独り言を漏らして、川を眺めていた皐月は足元のブルーに向き直った。
「お前ら、名前は―――?」
さらさらと柳の葉が触れ合う音が、不自然に差した間を繋ぐ。
ブルーと、その下敷きなっているピンクは顔を見合わせた。
何を問われているのか分かっていても、つい、お互いに確かめたくなった。それだけ思いもよらない質問だったのだ。
「ない。……っスよねぇ、そんなの」
「ラナマって種族名ならあるがなぁ」
「じゃあ、 “助坊” ってのは?」
ブルーはピンクのことを助坊と呼んでいる。
「そりゃー食い詰めてやがったこいつを拾った時、あっしが付けてやった、ただの愛称ってやつでぇ」
ピンクは以来、ブルーを “兄貴” と慕い、仕事の手助けをする “助坊” として付き従ってきた。
ブルーに続いて、ピンクも苦笑をこぼした。
「だいたい、オイラたちは鬼魅の民なんスよ?」
取るに足らない小物とはいえ、犬や猫とは違う。
「こういう愛玩動物みたいな形してるからって、やたらと触ったりしちゃダメです。知らぬ間に災いの種がくっ付いてたりして、不本意ながら、人原に持ちこんじゃうことだってある病原体みたいなもんなんスから」
「気を付けてくださいね!」と、叱咤激励するようにべしべし足を叩いてくるピンクに、皐月は物言いたげな顔をしながらも、何やら黙考を続けていた。
「ねぇ、じゃあさぁ……」
二匹は、同時に注目した。
皐月は相変わらず寝ぼけ目だが、なぜかこの時は、不思議と真面目な顔つきに見えた。
「 “蕣” って字を使おうか――」




