◍ 神判
鳩の羽ばたきが、耳朶を打った―――。
李彌殷の寺院密集地は、参拝者と赤い蝋燭、煙、白檀の香りで、荘厳な雰囲気がかもされている。
そんな境内から一歩参道に出ると、蜂蜜色の油にくぐらされ、香辛料を振りかけられている揚げ菓子の匂いがしたり、木陰で読書している少年僧侶がいたり、
猫が昼寝していたり――……。
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嘉壱は、かすかな風に細い金糸のような前髪をそよがせでいた。その陰で、柳と青空の色を溶かしこんだ川面を映す瞳を、不穏なほど研ぎ澄ましていく。
感情移入をしない厳格な顔つきを保ちながら、皐月はそれを横目に観察していているようだった。
全身から怨念染みた気配をくゆらせていた嘉壱だが、気分を入れ替えるように息をついた。
「飛叉弥以外の花人が加えられて、俺たち花連が今の面子になったのは、 “奴ら” の存在が明るみになってからだ……」
たったの一年たらずで多くが飢民となり、棄民を自称し、絶望の内に死んでいった。そんな灼熱地獄の創造者たちを、台閣は “黒同舟” と名付け、一級の凶悪犯罪組織として国内外に周知するに至った。
「親玉の死蛇九に、今言ったような肌や舌の身体的特徴があることは知られてるが、構成員の経歴や、一体どれだけの人数で組織されているのかまでは分かっちゃいねぇ……」
“同舟相救う” という言葉通り、立場や目的を同じくする者は、敵同士でもいざとなると協力し合う。
まさに奴らは死蛇九を主体として、自分の目論見を果たそうと連携する犯罪者集団。排他的ではないが、おおよそは利用価値がなくなった時点で切り捨てあう関係だろう。
死蛇九は天外宮の元・火守神堂司。灼射という火の神の神孫を名乗る資格も有していた、それなりの脈持であるが……
「沙羽良神堂主とは対照的で、一族には期待されてたらしいけど、とてもじゃねぇが、他人様のために働けるような性格じゃなかったって聞く……」
奴は、沙羽良神堂主を殺した容疑者として投獄された後、無実を証明できないまま絶海の孤島である樺利爛山にて、蛇を使った毒刑に処された。
だが、これは正確にいうと、あくまで罪を明らかにする裁判の一過程であり、本人が望んだことだった。
「 “神判” って言葉、知ってるか……」
嘉壱は心持ち慎重な問い方をした。奇跡だ天罰だ、超自然的な現象や存在を信じたことがない人種は、アレルギー反応として、即行、鼻で笑いたくなるのを知っているからだ。
「華瓊楽では “羊神判” が主だった。って言っても、大昔の話しな。今、そんなことをやろうだなんて言いだす奴はいないし、挑ませることも基本はあり得ない」
人間には、白黒見分けがたい善悪というものの判別を、神に委ねる裁判方法である。法という秩序の確立が追い付いていなかった神代崩壊直後、未熟な世界では、様々な “神判” が用いられ、無謀なその方法に多くの人が命を落とした半面、救われると根強く信じられてもいた。
「水に沈められたり、熱湯に腕を突っ込まされたり、毒虫に噛みまくられたり……」
「普通死ぬよね、それ」
「でも、無事で済めば無罪放免だ」
神聖な羊が、口論する者同士の間に立ち、神の依り代となって善悪を指し示すという羊神判も、有罪とされた側はそれなりの刑を受け、裁判前に逃亡した者も同じく有罪だった。
穹海山原の四圏で主に共有されている言語上の「善」とは、この羊神判の様子を表して生まれた文字だと言われている。
華瓊楽奎王が、どの神判を要求するというのか尋ねたところ、
「彼奴は、蛇毒神判を選んだ」
そして、その毒にのた打ち回る姿から、有罪判決と死刑執行が同時に済んだかと思われた時、樺利爛山の近海で地震が起き、大津波が島を丸ごと呑み込んで――
「まさか、逃げられちゃったわけ……?」
「そのまさかだ。それからしばらくして、大旱魃が華瓊楽を襲った。奴が生きてるって証言を、……黒同舟の一人から得た」
皐月は視線をそらした。
「ふぅん……」
短く単純な相槌だったが、思案するような響きも含まれている。
嘉壱はさらに続けた。
「華瓊楽の軍部は大別して二種類。公共の治安維持を務めとする邏衛軍と、より武闘派な劉衛軍。対黒同舟花連は、この二つの間に設けられた臨時部署に属すことになった……」
前者は、事件調査・犯罪摘発、警邏上の法律に基づく業務にあたるため、警軍と呼ばれている。
後者は、災害対処、国境守備、物資護送、人命救助の他、敵からの兵器・呪術攻撃に応戦する防衛軍といったところか。
「俺たちは、黒同舟の案件を優先的に追いながら、何も収穫がない普段は、情報収集と共有を兼ねて、両軍各部隊を後方支援するのが仕事……」
今だって、警邏中といえばそういうことにならないでもないが、都を巡回する京衛武官は決められた軍服を着用し、銃剣を所持していて、法秩序の番人そのものという威厳に満ち溢れている。彼らがきちんと機能しているため、普段の花連は、ほとんど手を抜いていると言ってもいいかもしれない。
なんだそりゃ……、と皐月は半眼になった。
「あの人はそこへきて、俺を身代わりに、一層手を抜こうとしてるってわけ?」
「さーな。飛叉弥が超鉄面皮な上に、いけしゃあしゃあと無茶苦茶なことばっかり言う野郎だってのは確かだけど……」
かったるそうな物言いに、嘉壱も素っ気なく返してやった。
「華瓊楽の砂漠化は、 “飛叉弥のせい” だって見方もあって――……」
いざという時、彼がいなければ困ることが沢山ある。飛叉弥という男は一言に花人と言っても、そんじょそこらの鬼ではない。乗り越えてきた今までのことも、乗り越えなければならいこれからのことも、知識の量も度量も、まとっている闇の濃さまでも格が違うのだ。現に、よからぬ噂の絶えない一面もある。
「……まぁ、お前に詳しく教えたって仕方ねぇだろうけど、そんなあいつの怪しげ~な雰囲気とか、強面っぷりを和らげて、俺たちの信頼性を保証してくれてるのが “主” なんだよ」
「そういえば、あんたたちの “主人” って……」
「会ったらびっくりするぜえ~? なんつってもあの顔・あの年・あの姿で、噛みつき癖のひどい獅子夜叉の飛叉弥を、すっかり飼いならしちまってるんだからな」
言い終わらないうちに、嘉壱は再び難解な顔をして、淡い色の空を仰いだ。
「てかぁ~……、さっき集められたの俺たちだけだったけど、 “主人” はお前のこと、承知してんのかなぁ」
飛叉弥以外のメンバーは、予想外の展開に急遽求められた充員であり “戦力” だ。対黒同舟花連が結成されて早々、嘉壱らが着手した任務は、華瓊楽の自然再生や、保護などどいう生易しいものではなかった。
「まぁ……、正直煮詰まってる状態ではある。黒同舟を追い始めて八年も経つことだし、 “新たな救世主様” とやらが現れても、おかしくはない時期かもしれねぇ。ただ、お前に――」
“花の性” ってもんが分かるようには見えない。
「本当に花人じゃないんなら……」
嘉壱は、つと強い風を受け、躍り上がった黒髪を視界の隅に、声色を変えた。
柳の葉が舞う。
「逃げられるもんなら、さっさと逃げちまった方がいいぜ――……?」
ここは地獄だ―――。明るい光に霞んでいる、真鶴と鴇の楽園を肩越しに今一度眺めやり、思わず、ため息のような呟きがこぼれた。
「俺たちは誰かのせいにしたくても、それが出来ねぇ……」
たとえ、自分が直接来したことでなくても、受け止めなければならない。
あの摩天にあるような、雲を突くほど険しい岩上に根付いてしまったとしても、何故こんなところに運んだのだと風を呪うことも、助けてくれと声を張ることも、手を伸ばすことも。
華瓊楽の人々のように、生きていける環境でないからといって、自分の生まれた場所以外の土地に、移り住むことも許されない。
だからこそ下界へ行って、無条件に降る雨を浴びてみたいと思わないわけもなく、水路の泥臭い水のにおいでも、むしろ深呼吸して、肺に取り込みたいと思うのが花人の常だ。
「 “足抜き” して、仲間に追われる身になる奴もいる。花人の烙印を押されたら、結局はどこへ逃げても、苦界にしか生きられなくなるぞ……」
嘉壱は本気で忠告していることが分かるよう、声にドスを効かせた。
だが、案の定、皐月は顔色一つ変えない。
「言われなくても――……」
さっさと、あるべき場所に帰らせてもらうつもりだ。
「俺には、関係ないから」




