◍ 瞋恚の炎神と象形
――――【 神会黙契 】――――
龍王の脳中から表われ出た炎の珠を、神代語で “火珠” という。これを得れば、心に思い描くことは、大概意のままになるそうだ。
人間たちがすがる神仏の光背を表しているのも、激しく燃え盛る炎である。これは悪を鎮め、災いを振り払うのだというが、本当だろうか――。
「災」とは、火災と水災によって、文運が断ち切られることの象形である。
壽星天壇に据えられていた “あの女” とて、元来は悪しき炎をまとう障礙神だった。
華瓊楽では英雄視される龍王の眷属も、東扶桑の国では退治られてきた、ただの邪魔者。その東扶桑は火神を守り神としながら、水神の宝物で治国している、矛盾と欺瞞に満ちた世界である。
誰かが言い含めるように説法した。 “力は使い方―――扱う者次第だ” と。
だがそれは、驚異的な存在として生まれてきた神孫の善悪を誤魔化す、雲とも霞ともつかない、曖昧な教えであった。
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は―――…
と、開眼した何者かに見抜かれた気がして、我に返った。
男は気が付くと、頬杖をついている手の陰で、自分の赤々とした両眼を見開いていた。
じっとりと、嫌な汗が背中を濡らしている。
白昼夢の最後の一瞬、確かに目が合った。その相手の姿までは捉えられなかったが、代わりに漆黒の羽のような残像が、はらはらと眼前を舞っている。
相手の瞳は、夜明けを告げる空の色――、見たことのない多彩な紫眼だった――……。
男は転寝して強張ってしまった首回りをさすりながら、いがらっぽい声を張った。
「誰か――、水を持ってこい」
火だこのような斑紋が浮かぶ褐色肌に、蛇のようにうねり、まとわりついてる射干玉の髪をかき上げて。
「誰かいないのか――」
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ある神霊や鬼魅の特質が、物や人を器としてこの世に出現するこれを、昔から “脈持” という。
病や毒におかされることもなく、焼け死ぬことからも免れ、濁りあれば浄化し、財貨と功徳をもたらす火珠は、中でも希少性の高い脈持物――龍王の宝飾品の一つと考えられてきた。
賢君として現れれば、華瓊楽は竜氏と讃え、こぞって祭り上げる。
しかし、脈に振り回されてしまう者は、総じて身を亡ぼす。
ゆえに男は、いっそ見事と言うべき “瞋恚の炎” の権化となった。罪の所在を明らかにすべく、自ら九匹の毒蛇を用いた “神判” を乞い…
*――澑火殿……
“死蛇九” と名乗ってきた男は、寝乱れた姿のまま、羅帳を巡らせてある天蓋付きの牀の上で、侍従の足音を待つ。
かつては、天外宮の火守という名誉職を担ったこともあるが、もう遠い昔のこと。一族の長に受け継がれてきた澑火の幼名も、忘却の彼方に押しやったはずだが、久しぶりに呼ばれていた頃の記憶がよみがえって胸糞が悪い。
そもそも、何一つとしてありがたいと思えたことがなく、あらためて考えてみると、過去の自分は欲しくもないもので、無駄に飾り立てられていただけだった。
しかし、生まれ変わった今は違う。火珠よりも得難い物があるのを知って、砂を噛むような味気ない日々に、鮮やかな欲望が花開いたのだ。
今日も平然と物欲を満たすため争い、怒号し、そんな己の愚かさに気づく必要もなく、のうのうと生かされている天が下の衆生を平らげる力。
それを我が物にできるなら、竜氏ごときは無論のこと、世界三大鬼国の修羅だろうが、夜叉だろうが、叩き潰してくれよう――。
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「お目覚めですか……」
黒い衣を頭からかぶった尼僧のような侍従が、水差しを持って、石筍に縁どられている石階段を上ってきた。
優し気な雰囲気の中性的な声で、所作が静かなのが特徴だ。両刀遣いの死蛇九が気に入り、身の回りの世話をさせている。
「帳を払われたんでな……」
「は?」
「珍しい鴉が入り込んできた」
「鴉………ですか?」
目深に被った黒衣から細面の下半分をのぞかせ、侍従は首を巡らせた。
鍾乳洞によって出来た大空間に、点々と配した燭光が揺れているだけだ。
「どうやら “佳客” がやってきたらしいな……」
牀の横にある架几案で茶杯に水を注ぎながら、侍従は小首を傾げる。
「佳きお客様――藤の花言葉でしたっけ? 外の世界では、確かに盛りを迎えていますが……、随分と鼻が利くのですね」
野藤は山間の高木に絡みあがり、蜂が集るほど、甘く濃密な香りを発する。面白いことに、藤は大の酒好きだとか。根元に酒粕など施すと、よく育つと聞いた。
「実は今しがた、ご所望の契藤酒を手に入れて参りました。そういえば、洞門近くの松に紫藤が絡んでいた気がします。香るのだとしたら、そこからではないかと…」
「お前、なんの話をしているんだ」
「は?」
会話に没頭する子供のような性格で、相変わらず思い込みが激しい妄信的なこの侍従を、死蛇九は鼻で笑った。
水を手渡し、再び架几案に戻って、侍従は複数の香辛料をすり潰す作業に取り掛かろうとしている。
その手元を照らす卓上灯の灯火が、小刻みに縦揺れしていた。紫檀の彫刻に硝子をはめ込んだ火屋の中にあり、風を受けることはないため、あきらかに不自然な現象だ。
石階段を登り切ったところにある篝火の火の粉が、あり得ないほど派手な音を立てて爆ぜた。
反射的に振り返った侍従が、ようやく異変を察し、何事かと不安がるように置いた沈黙に、死蛇九は嘲笑を浮かべる。
ただれているような色の舌で、わずかに残っていた小皿上の “ソーマチン” を舐めとりながら――。
「だから、 “佳客の知らせ” だと言っているだろう。左蓮はどうした」
侍従がその名を聞くたび、口元の表情を消し、素っ気ない態度をとることを心得ている死蛇九だが、あえて話題にした。一方的に聞かせ続けることもあるため、侍従は予防のつもりか、そっぽを向いた。
「よく分かりませんが――、李彌殷に向かったようです」
なんでも、かねてより気になっていた “花” が咲きそうなので、夜になってしまう前に、一目見ておきたいのだとか。
「そうか……」
ちなみに、ソーマチンとは蔗糖の二千倍甘いという西閻浮原の果樹から採れる甘味料である。
花粉のようなその粉を紅い衾褥の中で舐めつくし、死蛇九はやはりな、と呟いて口端をつり上げた。
蛇の脈持となってから味を感じにくくなってしまったのだ。
その舌の左半分には「覚」という、神代の象形文字が刺青されいる――。
〔 読み解き案内人の呟き 〕
【 瞋恚 】
三毒・十悪の一。自分の心に逆らうものに、怒りや恨みを抱くこと。
【 佳客 】
藤の花言葉の一つ。
その他にも「歓迎」「ようこそ、美しき未知の方」などがある。
※『◍ お前は救世主! いや、ただの迷い人』で先に触れている。




