◍ お前は救世主! いや、ただの迷い人
天地開闢からまだ間もない古の時代、世界の民は皆、常磐でできた一つの大きな山に暮らしていた。
盤臺峰と称されたこの岩山には、大きな木が生えていた。幹や枝、根で岩を繋ぎ、一つの山にしていた。
龍が群れをなして泳いだ雲の海原は、天神の眼下にあり、八雲原と呼ばれていた。
八雲原の上には、大きな岩の杯に、塩水を満たした湖があった。
この天海の底に根ざす珊瑚の森に棲み、天地の境――天津標を守護していた龍王はしかし、ある出来事を機に大水害を引き起こして、天柱の倒壊と地維が割ける終焉の時をもたらす。
《 それは、限りなき暗黒の果てにあり――― 》
世界の民は後の北紫薇穹、南壽星海、東扶桑山、西閻浮原の四圏に分断され、混沌という激流に呑まれた神々は、新たな宿地をめぐる熾烈な戦いの火蓋を切らされた。
まさに、大崩落した氷山が流氷となり、やがては島に――そして、再び山を築くように
―― * * * ――
「盤臺峰は複数の大陸に再生したんだ。その際、核となった地力の強い地盤が、南壽星海でいうならば、ここ……」
とりあえず語り手を買って出た飛叉弥は、ようやく紫煙を吐き出し、一息ついた。
華瓊楽は、この漆海圏で陸地化が起こった始まりの場所。
神代崩壊後の新世界――穹海山原の四圏を合わせた “化錯界” は、様々な種の交配、逐鹿が繰り広げられ、人間が頂に立つことも、もはや夢ではない時代の先端にある。
「現に華瓊楽の初代国王は、龍王の化身とか、合いの子とかいう言い伝えがあって、今も人中にひそむ “臥竜” が王になれば、泰平をもたらすと信じられているからな」
天津標の消滅は、人間にとって、分厚い雲間から希望の光が差し込む出来事だったと解釈することもでき、華瓊楽は好意的に伝承してきた文化圏の典型。ゆえに、龍王を英雄視しない者はいない――。
「その片鱗を宿す次期国王候補が “俺” って言うなら悪い気もしないけど……、違うんでしょ?」
冷めた物言いに、飛叉弥も淡然と返す。
「残念ながら、華瓊楽の玉座はすでに、 “竜氏” と呼ばれる紛れもない本物が収めている」
「じゃあ、そんなことより、まず “あんたたちが何者なのか” 教えてよ」
「そんなことより、まず “お前が何者なのか” 教えてやろう」
「オイ」
争い絶えぬ世界の中心に修羅、ではなく――
「 “花人” ありいいいいーーーっっッッ!! 救国救民のための軍事組織を立ち上げて以来、約二千年くらい超余裕かまして人助けしてきたけどッ、ちょっと大変な事になってて逆に助けてほしい、迷える俺たちの前にお出であそばされた神様仏様の如きお前はまさに真の救世…」
剛速球同然にブっ飛んできたフリスビーのような円座が、飛叉弥の目を潰した。
「ぐああああーーっッ!!」
「残ねーん。ただの迷い人でしたー」
「この野郎おぉっッ!! ありがたく認めろおっッ!」
米神に青筋を盛り上げて、飛叉弥は皐月に円座をブン投げ返した。
「認められるわけないだろ」
皐月はやれやれと円座をはたきながら胡坐をかき直すと、さきほど膝元に差しだされたお茶をすする。
目を閉ざし、新茶の香りで気分を整えるも、いらだちをくゆらせながら―――
「その刺青……なんの模様か知らないけど、堅気の人は入れないでしょ? 普通」
舌打ち気味に言われ、自分の襟元をチロリと一瞥した飛叉弥は、蚊にさされた痕でも気にするように、そこをカリカリと掻いた。
「ああ、こいつは一種の痣みたいなもんでな。遺伝性だから、ちゃんとお前にも…」
「悪いけど――」
皐月は居合による一太刀のように、素早く遮った。
「俺は “ただの迷子” だ……」
ここに連れてきてもらったのは、現実世界への帰り方を教えてもらうためであって、長居をするつもりはない。どうして初対面のあんたたちに
「いきなり、 “仲間になれ” だなんて言われなきゃならないわけ――?」
――――【 花言葉:「ようこそ、美しき未知の人」 】――――
目つきはもはや、弓をしぼる先に仇敵を捉えているのと変わらない。
そんなあからさまな嫌悪感を向けられても、飛叉弥はあえて鈍感な顔を続けた。
「お前が俺たちと同じ、花人の末裔だからさ。本性は “夜覇王樹の民” と呼ばれる原初夜叉の一種。いずれにせよ常人ではない。これからなるんじゃなくて、もともと仲間なんだよ」
「アホらし。どう見ても人でしょ? あんたたちも、俺も――」
(なんなんだ、こいつ……) 猫背気味に胡坐しているその姿勢、喋り方、かもしだされる雰囲気――すべて思春期の少年特有と思いきや、ただムカついているにしては、重々しい気配をまとう瞬間がある。
嘉壱は今すぐにも歯を剥きたい気持ちを抑え、黙って二人の応酬を見守っていた。
「だーかーらぁ~…」
「ちょっと飛叉弥」
たっぷりと怒気を含んだ声が放たれる。
さきほどの池に臨む大広間には、邸の住人であり、嘉壱を含めた飛叉弥の部下六人が、招集に応じて居並んでいた。
ひいなは、というと……、今までにない大嵐が来るのを予感して、嘉壱があれからすぐ帰宅させた。
* * *
「悪いな、ホント。ろくな礼もできずに……」
「ううん」
笑顔で言いながら、ひいなは出て行こうとしている楼門の手前で、トボトボとついてきた嘉壱に向きなおった。
嘉壱はその屈託ない笑みに、苦笑をにじませた。
「飛叉弥がな? 今度会ったら、ひいなの願い事、なんでも聞くってからよ」
「え?」
「今回のことは、全部あいつが悪いんだ。巷で流行りの甘味でも、新しい髪飾りでも、欲しいものがあったら考えておくんだぞ?」
元気づけるようにニカっと笑ってやると、ひいなはきょとんとしたが、「じゃあ…」と少し考え
「このあいだの続きっ!」
嬉しそうに見開いた目を輝かせた。
「このあいだ?」
「うん、字の書き方を教えてもらったの! うちの野菜をおすそわけに来たとき、サヤ兄ぃ、お仕事してたんだけどね? 筆とすずりを貸してくれて…」
「そんなことでいいのか?」
「いいの! 楽しかったもん。それより……」
ふと憂色を浮かべ、うつむいたひいなに嘉壱は笑みを薄めた。
先ほど盗み聞きした話の内容を、気にしていると思われた。
迷い人の少年は、連れてきてはならない招かれざる人物であったのか。飛叉弥は、隊長を辞めてしまうのか――……。
「大丈夫だって! お前も自分で言ったろ? 別に悪いやつが来たんじゃねぇんだからよ。飛叉弥だってまだ、どういうつもりか、はっきり示したわけじゃない」
そう励ましたのは、実は自分に言い聞かせるためであったが、これを聞いて、ひいなの表情は、ぱあっと明るくなった。
* * *
回想から立ちかえった嘉壱は、胡坐をかいている自分の状態を見つめ、ぼおっと考えを巡らせる。
ひいなは確かに、悪人を連れてきたわけじゃない。仮に災いを呼び込んだとしても、知らなかったというなら誰も責めたりはしない。
それを保証してやったから、あんな笑顔を見せたのか? よく笑う少女だが、じゃあねと手を振り、石段を駆け下りて行ったひいなの足取りは、どこか嬉しそうに弾んでいた。何をはしゃいでいたのだろう――。
不可視の壁が、答えにたどり着くのを邪魔している。しかし、どうしても今ひらめかねばならない気もしないため、嘉壱はひとまず背筋を伸ばした。
「緊急招集が掛かったって聞いたから、慌てて警邏から戻ってきてみれば……」
同胞の物言いが、いよいよ刺々しくなってきている。
「飛叉弥、これは一体どういうことなの? もう一度、分かるように説明してちょうだい」
「だからな? 薫子ぉ~」
だから、だからと口にするたび、飛叉弥の気分は萎えてきているようだ。
「こいつが今日から俺に代わって、お前たちの指揮を執ってくれる新隊長殿だ。名は “須藤皐月” ――」
全員の視線が、飛叉弥から百八十度反転して、その少年に注がれた。
嘉壱も眼だけ向けた。
あまり人好きのする性格ではないようだが、皐月の見た目は、奇妙なほど飛叉弥とよく似ている。
絵筆で描いたように秀麗な眦と柳眉、整った形の鼻や唇。髪は襟足から伸びた部分が特に長く、腰下まであり、これがまた世の女たちの嫉妬を買いそうなほど、男のくせに艶がって美しい。
ただ、頭部を覆う毛はあっちこっち跳ね返っていて、耳の生えた動物に見えなくもなく――
「なんか、黒猫みたいじゃない……?」
「知るかよ……」
嘉壱はチラっと目顔で戸惑いを訴えてきた対面の同胞――、真椿芽満帆の小声に舌打ちを返した。
四連の書軸がかけられた壁を背にしている飛叉弥と、その対面にいる皐月との間に、六人いる仲間たちはそれぞれ三対三に分かれ、向かい合って座っている。
本来ならば、高尚な趣味について語らうべき雰囲気の空間である。
この大広間には、今日も季節の花が飾られており、黒漆の花卉に生けられた、こぼれんばかりの紫藤の花房――、その柔らかな若葉と蔓の野趣が、奇しくも冷厳な態度の皐月によく似合っている。
「 “須藤” と言っても藤家の生まれじゃないんだが――……、年は十七。見ての通り、遠路はるばる、摩天の国から召喚に応じてもらった」
「文明社会の超最先端じゃんかっ!」
「ああ。それでも、まったく馴染みのない文明人が来るよりマシだろ――?」
Tシャツやら、柄物のスカートやら、華瓊楽ではまだ珍しい装いをしている数人が口を引き結び、互いに視線を交し合った。
飛叉弥は内心でほくそ笑んでいるに違いない。
実は、彼が率先して足を運ぶ機会を設けなければ、仲間たちが、かの近代文化に親しみを持つことはなかった。すべては、目の前のこの少年をめぐって、これから続出すると思われるトラブルや摩擦を緩和するための布石だったと思われる――。
「まぁ、とりあえず落ち着け」
飛叉弥がなだめるような説明を繰り返す対面で、不機嫌顔の皐月は、茶に添えられていた菓子に手を伸ばしていた。
寺院や道観がひしめく山麓で、ごく普通に売られている土産物の饅頭なのだが、異界国の食い物だからか、若干怪しみつつである。
骨董品の鑑定でもするように矯めつ眇めつ眺めた後、ようやくパクリと頬張った彼が、一拍もしないうちに眉をしかめたのを見たのは、おそらく嘉壱だけであった。
飛叉弥からは一番遠い席だが、代わりに皐月の表情は、もっとも捉えやすい位置にいる。
如何せん、甘いものが苦手らしい……。
〔 読み解き案内人の呟き 〕
藤の花言葉は「佳客」「歓迎」「ようこそ、美しき未知の方」など。
紫藤のようにクールな美少年の反面、皐月は「佳い客」ではなさそうだが……?




