◍ ただの散歩も彼となら…?
――――【 彼女と彼の関係 】――――
萌神荘の侍女――五十鈴は、今一つといった顔で唸っていた。
「う~ん……」
あごに人差し指を添える。おっとりした動作の割りに、異常な速さで景色が流れていく。
立ち並ぶ屋台。挨拶がてら店に呼び込もうとする店主が、目を合わす隙もなく通り過ぎていく。
「ねぇ? まだ、何も買っていないんですよ? もう少しゆっくり歩いてくださらないと……」
「その必要はない」
「なぜ?」
「俺はお前に、運動をさせているだけだからな」
「まあっ!」
信じられない返答に目を丸くしたが、前を歩く背中は当たり前と言わんばかりだ。
つまり自分は犬も同然。家に閉じ込めておくだけでは肥えてしまうからと、定期的に散歩させられているに過ぎないと。
「いうことは――、あなたが主人?」
「そうだ。飼い主たるご主人様だ」
「噛み付かれたいんですか?」
いくらおっとりして見えても、五十鈴だって口では負けていない。言葉に詰まっている相手の様子にほくそ笑んだ瞬間――、
「痛っ!」
つと立ち止まられて、涙目に鼻を押さえることになった。
「どうしたんすか? 突然…………あら? あの人だかりは一体……。ちょ…、ちょっと飛叉弥さま!?」
いきなり引っ張られ、危うく躓きかけた。だが、彼がしっかりと手を握ってくれているから、転びかけることはあっても街着を汚すことはない。
彼が誂えてくれた上下白い衣――……。
無言で走る背中を見上げて、五十鈴は苦笑気味に笑った。
はてさて、何処に向かうのやら。例え、この行く手に焼け野原や断崖が待っていようと、やはり自分は今と同じように、微笑むのだろうか。
頬をかすめていく風は刃のようだ。それでも――……、
「痛っ!!」
今度はスピードが出ていた分、思いっきりぶつかった。弾き返されそうになって、仰け反った姿勢のまま、人ごみの中へぐいぐいと引っ張り込まれていく。
目頭に、熱いものがこみ上げた。
(それでも私は、この人に付いていくと決めたのよね~……。あ痛たた)
辿り着いたそこでは、今まさに前代未聞の決闘が佳境を迎えようとしていた。
× × ×
「――なに。さっさと立たないと、こっちから行っちゃうぞ!? うりゃああーッ」
成敗ッ! 最後は盛大に必殺技を食らわしてやろうとしたが、茉都莉はつと、子鹿の両目をパチクリさせた。
振りかぶった拳を誰かが後ろから掴んでいる。気づけば足元に、自分以外の影が差していた。
相手は親分さんと同じような着物を着ているようだ。加勢に駆けつけた仲間? 背が高く、肩幅も広い――……。
ゆるゆると空を仰いだ――次の瞬間
「ぬあ…っ!?」
「ん?」
変な声を上げた茉都莉を見下ろして、飛叉弥は片方の柳眉をつり上げた。
「かかかかか…っ、花連の旦那っ! ちょ、ちょうどよかった! この世間知らずの小娘に、一言ビシっと言ってやってくだせぇよ!」
「おう甚砂~」
元気してたかー、とでも言うような調子で軽く手をあげ、飛叉弥はその手で、泣きついてきた男たちを張り倒した。
べべべべしんッ!!
物凄い音がした。
「――さて問題です。あなたはどうして殴られたでしょう」
「……す、すいやせん」
「そうか、そうか。やっぱり悪さしたのはお前ってことだな」
「えーーっッ!!?」
特別偉そうに着飾っているわけではないが、正真正銘、華瓊楽奎王お気に入りの花人の登場に、往来の人々は騒然となった。
薫子が到着したのはこのタイミングであった。なんか、とんでもないことになってるんですけど……。
「……。」
すとんと腰を落とした飛叉弥は、咥えた煙草に火をつけながら検証をはじめた。
「おい甚砂ぁ」
「へ…、へい」
「お前まさか、着物汚されたくらいで騒ぎ立てたりしてないよなぁ」
「や…」
「だとしても、ちょうどいいじゃねぇか。川行ってこいよ川。川行って、きれいさっぱり身も心も洗い流されてこいよ」
飛叉弥は観察を終えた着物の裾を、引っ張って正してやった。
蔓萄橋の寇甚砂――。西廓で李彌殷最大の遊興施設を営む彼は、一応、この界隈の有力者といはいえ、 “破落戸どもを従えている系” であることも事実……。額にじっとりと汗をにじませて返した。
「だ…、旦那~。俺はただ、そこにいる小僧らが謝りもしねぇで、ひとを小バカにするから~……」
「だったらなおのこと、ちょうどいいじゃねぇか。三途の川の果てまで行って、小バカにされない真人間に生まれ変わってこい」
「俺に死ねって言ってるよねっッ。ひとの話聞く気ないよねこの人っッ!」
「そもそも、着物なんざ他にもあるだろう」
飛叉弥は何食わぬ顔で、紫煙を吐きだす。
「そりゃー隆里のやつがまた、針でも仕込んでないかと不安で不安で仕方ないのは分かるがな。元はといえば、お前がさっさと集金済ませないのが悪いんだろうが。しっかりケジメ持ってやれよ。一応は立派な仕事なんだろ――?」
……とかなんとか言ってるあんたが、実は一番始末が悪い。この間、女房の愚痴を聞いてもらいながら、酒を飲み交わした。あぁ、なんていい人なんだぁ~、と涙まで流したってぇーのに……。
朝起きてみたらどうだ。
「あんた俺が沈酔した後も、一人で散々晩酌を楽しんだ挙句に飲み逃げしただろうがああああーーッ! ったく、元祖救世主が聞いて呆れ…」
「おお、いい事を思いついたぞ。その着物、汚れが気にならないよう、俺がもっと濃い色に染めてやろう。あそこの山道をこう行ってああ行って、垂直に登った辺りの上流は急転直下する岩場になってるからなぁ。良い具合に着物が血で染ま」
「人殺しぃ…っッ!!」
「お前、派手色好きだろ――? 俺はできるだけ、身も心も真っ白でいたいんだ」
「完全犯罪宣言してる時点で真っ黒だよおーッ!? それ、返り血一切浴びずに澄まし顔して立ち去る気満々だろうがっッ。夜行性ってか、面倒臭せぇやつ闇に葬る専門家ってか、旦那そういう日の下歩けない技術集団束ねてる人っすよねぇッ、もう俺ら以上のド悪党だよねー!?」
喚き散らすその背に、新たな危機が忍びよる。
「あら? 親分さん。袖が……」
「え?」
「袖の糸がほずれてしまってるじゃありませんか。私でよければ、縫って差し上げますよ?」
自分の袂から、暖簾をくぐるように顔を出した相手に、甚砂の心臓は縮み上がった。
「ぃいっ…、いいいいいい…ッ!!」
驚きのあまり、言葉にならない。普段は滅多にお目にかかれない深窓の奥方が、なななん、なんでこんな所に――……ッ!!
「ああ…っ、そうか! あれですね? アレ! たたっ確かぁ~……そうっ! 旦那と一緒に “デート” とか言…」
じゅうぅぅ~……っ。
敬愛する甚砂親分の足の甲から煙があがった。熱ちゃあああぁぁ…っッ!! という悲鳴も上がり、子分たちの膝とあごが、ガガガ…がくがく震え出す。
「親分ぅううーんっッッ!」
血相変えて飛びついていく子分たちに鼻を鳴らし、咥え煙草の処理を終えた飛叉弥は「お前らも……」と、忍び足で逃げ出そうとしていた少年たちをつかまえた。
「ここは人通りが多い。しっかり前見て歩かないと怪我するぞ? ……ま、甚砂の着物はボロ雑巾と同じようなものだが、一応謝っておくように」
「大きなお世話じゃワレえいっッ!!」
飛叉弥は子どもたちの額を軽く指弾して去って行った。
「……ご、ごめんなさい」
半べそをかきながら、歩み寄ってきた子どもたちを片目で見下ろし、甚砂はなんとも言えず、深いため息をついた。
「あ~…、分かった分かった。もういいから、さっさとどっか行っちまえ畜生」
*――飛叉弥がどんな奴かって?
しっしと手を振る甚砂の後姿を見届けた茉都莉は、急いで身を翻した。
萌神荘にたどり着くまでの間に、薫子が教えてくれた通りだ。
*――話をはぐらかすのが上手いわね。
あと、いわゆる “罪な男” ってやつかしら
「――あっ…、待って! ちょっと待ってくださいッ!」
振りむいた飛叉弥は、人ごみの中を、パチンコ玉のように弾かれながらやってきた茉都莉を見て、そっと嘆息を漏らした。
“あいつ” かと思った。一体どこにそんな隙があったのか、「帰るぞ」と声をかけたのに返事がついてこなかった。
「まだ嫌です」とか「帰りたくありませんっ!」とかならまだしも、姿を消されてはどうしようもない――……。
「なんだ。さっきの嬢ちゃんか。どうした」
「あ、いえそのぉ………」
弾む息を抑えながら、茉都莉は飛叉弥を見上げていった。
彼は往来の女性よりも長い髪が特徴的で、見失ってもすぐに発見できた。前髪の半分を掻きあげている。背丈は一八〇以上あるだろう。腰の位置が高くすらりとして見えるが、袖の中で組んでいる前腕はたくましく、立ち姿にも威厳があった。
こうしている間も、すれ違う女性の視線を集め、こっそりはしゃぐ声が聞こえたりしている。
確かに見間違えそうな要素はゼロではないが、黙って立っていても目立つのだがから、皐月とはまとっている雰囲気が違うと思う。
優美な睫毛をそなえた硝子玉のような瞳も――……、知っている紫色よりやや薄い。
その中に映る自分が、大変失礼なことに興味津々な顔をしていると気づいた茉都莉は飛び退いた。
「あ…、ありがとうございましたっ! 危ないところを、その~…」
「ああ、怪我しないで済んだならいい。この辺りじゃ刃傷沙汰も珍しくないからな。……と言うか、危なかったのは蔓萄橋一家の方だとぉ…」
「え?」
「い…、いやそれより、あんなガラの悪い連中に楯突こうなんざ、ずいぶん威勢のいいお転婆娘のようだな。気をつけろよ?」
相手が甚砂だったからよかったものの、女こどもとて容赦しない輩はざらにいる。実は俺も、さっきまで側にいた連れが見当たらなくなってしまって。
「すぐに見つかればいいんだが……。ま、なるべくいざこざには関わらないことだ」
疲れた風情でため息をついた飛叉弥に、
「でも、とっても勇ましくて、素敵だったじゃありませんか――……」
ふと、苦笑交じりの玲瓏な声がかけられた。
飛叉弥が体ごと振り向けて目の前が拓けたため、茉都莉もその声の主と対面するかたちになった。
手籠を腕にさげた笑顔の穏やかな女性が、向かいの店先から人の流れを渡って歩み寄ってくる。
ちょうど、飛叉弥の肩に届くか、届かないかくらいの中背で、長い黒髪を下ろしており、見事なほどの淑やかさが感じられた。
詰襟のワンピースのような着物は、花模様が織り出された温かみのある乳白色。糸の色が地味ではあるが、靴にも精緻な刺繍が施されていて、所どころ格調高い。腕に絡めたショールが優しい柳茶色のせいだろうか、雑踏の中をすれ違う人にはない、特別なものが香ってくるようだった。
先ほど、甚砂親分の着物の繕いを申し出ていた女性――……。
「どこへ行っていた。勝手にうろちょろするなと、いつも言っているだろう」
「ごめんなさい。でも見て? ほら、こんなにオマケしてくれたんですよ?」
「ほお、焼き栗か?」
「生の実です。今日はこれで、炊き込みご飯を作ろうと思って」
籠の中身に額を寄せあう二人を正面に、茉都莉の脳裏をある光景が駆け抜けていく。一瞬自分が何処にいるのかすら忘れて、呆然となった。
「飛叉弥さんってぇ………、結婚してたんですね。しかも、ひょっとして物凄い愛妻家だったりー……」
「うん?」
何をいきなり。てか、まだいたのかこの嬢ちゃんは。
飛叉弥が怪訝そうに眉を寄せる一方、茉都莉は捲くし立てるように続けた。
「だってうちの台所にも同じような~、………や、でもそんな話はしてなかったし。聞かされてた感じからすると、意外っていうか何ていうか。――とにかく、お会いできて嬉しいです! さっそくお聞きしたいことがあるんですけど」
「ちょっと待て。一体なんの話だ??」
目を瞬かせた茉都莉は、あそっか! と慌てて身なりを整えた。
「あの、私……!」




