◍ 太隠は市に隠る | 救世主、弱い者いじめを目撃
小さな黒い柿のような “山竹果”
イガイガしている瓜に似た黄緑の “波羅蜜”
赤い鈴が連なったような “水蓮霧” に
黄金のライチのような “龍眼” ―――
南城市・方槊街で、范燦寿ご老体は葦簀の下、この日も福六寿の置物のように、無言で色とりどりの果物に埋もれていた。
たわいのない会話をし、行き交う人々の弾ける笑顔を、ただ道端の地蔵同然に細い目で見守り、のほほんと過ごす。それが日課であって趣味なのである。
陶器を売り物にしている隣の少年は、客が来ないことをちっとも気にしていないその様子に呆れていた。
「生きてんのか? じいさん」
「ふぉっホっホ。飽きなんぞくるものか。川の流れと同じじゃよ。昨日と同じ水のようで、同じ水ではない。それが諸行無常と言うもの」
「なんの話してんだよ……。こっちは、 “生きてんのか” って聞いたんだぞ?」
「む? どこへ行きたいじゃと?」
「~~~……。」
不思議そうな顔を向けられた少年は、品物を前に膝を抱えたまま、長い沈黙を返した。
非凡な隠者は山野に隠れず、かえって、市中の俗世間の中に、超然と暮らしているものだというが……、これでは話相手にもならない。暇つぶしにと思ったのに。
どうせ聞こえていないのなら、嫌味でも言ってやろうか。そう思いながらも、今ひとつ気乗りせずにうつむく。
つま先には、いつの間にか黒蟻の行列ができていた。
それをじっと見つめる。
自分は物見遊山で訪れた客にしか寄り付かれないため、悔しいことに、ただ座っているだけでも、燦寿の店のほうがまだ売れ行きがいい。
その上、ここ数年の著しい治安悪化が原因で、観光客はいないわけではないにしろ、めっきり減った。
それでも今は、暴動で死んだ父親が残したものを、意地でも売るしかないのだ――……。
「俺も……じいさんみたいにヨボヨボになるまで、こんな胡散臭せぇ骨董売りを続けるしかねぇのかな」
膝頭に呟いたのは、聞かれたくない弱音であって独り言だった。
「なんじゃい。らしくないのお」
少年は顔を跳ね上げた。年寄りの耳は、どうやら都合の良いものらしい。
「骨董なんぞ売り物にしてるくせに、ワシや周りの大人より、よっぽど商売上手じゃろうに。お前さんのことを見ている者は見ておる。亡くなった親父殿も、ここの商人たちも――……。だから、自分にできる精一杯のことをして終えるのなら、今日のような日とて上出来じゃ」
「――……、そうかなぁ」
「そおじゃとも」
燦寿はもともと垂れている眦でさらに弧を描き、柔和に笑いかけてきた。
その口元を覆う真っ白な長いひげが、葦簀の隙間から差す初夏の日差しに透けて、なんだか不思議な存在感を放っているように見える。
ふと、我に返った少年の視界の隅に、見覚えのある顔が――。
「じいさん」
同じ方を見るよう目配せで促すと、燦寿は「む?」と片眉をつりあげた。いつの間にかそこに現れていた人物は知り合いなのだが、燦寿はなぜか怪しげなものを見定める目で、しばし黙った。
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「――これこれ。お前さん、こんなところで何をしておる」
皐月はピタリと、Tシャツの襟元をはためかせていた手を止めた。
「え?」
燦寿は返ってきた反応が解せなかった。(市場で呑気に買い物なんぞ、一人ではまずもってあり得ない奴が何用か……) 訝りながらも、とりあえず挨拶代わりに会話を続けた。
「珍しいのお。ここは管轄外じゃろ。方槊に夕餉の買い出しにでもきたんか? 今日は前々から、いろいろ忙しくなるとゆーておったではないか。どうした」
「え? なに、じいちゃん。もしかして俺に話しかけてる?」
(む――? “じぃちゃん” ……?)
燦寿は弛み切っている瞼をこじ開けた。
軽い衝撃を受けた余韻の中で、鼓膜の内奥に、ふと鼻で笑う若い男の美声が蘇ってくる。
*――じゃあな、じじい。長生きするのも程々にしろよ?
(やや、なんだか知らんが、このか弱い年寄りに向かって、以前から鞭打つような物言いいしかできん奴が、これはある意味 “鬼の霍乱” ではないか――?)
燦寿が固まっていると、皐月が鼻から息をついた。
仕方がないなぁ、とぼやく声が聞こえてきそうな不機嫌丸だしの顔で歩み寄られ、燦寿の傍らの少年は、「ゲ…っ」と身をこわばらせた。
何故って……、相手は自分たちのような貧民が真っ先に平伏し、極悪非道の悪党も、我先にと許しを乞うほど恐れ多い人物である。「ワシから見れば、まだまだ青瓢箪のようなもんじゃい」――などと、どこ吹く風で言えるのは、当代最高齢を自負している燦寿くらいだろう。あからさまに刺々しい彼らのやり取りを知っている者としては、ハラハラせずにいられない。
だが、すぐにその緊張は解けた。どうやら自分たちは、とんだ人違いをしていたらしい。
近寄ってきたのが、世にも珍しい珍獣であるかのように、少年が好奇心をあらわにながらも黙って見守る中、同じように気づいた燦寿は、それでもまだ信じられず、ずいっと首を突きだした。
皐月は少し居心地が悪そうに身を引いた。
果物の山越しに、お互い、しばらく向かい合ったまま静止を続け――
「……はあ、こりゃ驚いた。ワシとしたことが、ついに眼まで衰えてきおったようじゃ。いやぁ、すまんの~。あまりに知り合いと似ていたもんでな、そのぉ…」
ぐるきゅぅ~
自分の腹を見下ろす皐月に対し――
「ぶっ…」
燦寿の隣で、少年が蛙のように頬を膨らす。
「ぶヒャヒャヒャヒャヒャヒャ…っっっ!!」
盛大に吹きだした彼につられて、燦寿も口元を波打たせた。
ぐー、るるぅ~。ぐきゅ~? ぐむうぅぅ……
主人をさしおいて、こんなに良くしゃべる腹の虫と出会ったのは初めてだ。
「ぶはははははは…っっ!!」
「……おい。ゲラゲラ笑いすぎだから」
良識ある大人なら、こういう時、すかさず窘めて欲しいと書いてある顔で、皐月はバシバシと膝を叩きまくる涙目の燦寿を睨む。
笑い転げる少年を渋々といったふうに自ら制した。何事かと足を止めている背後の人目を気にしつつ。
「いや、すまん、すまん 。にしてもお前さん――」
苦笑程度に落ち着いてきた燦寿は、さすがに申し訳なく思い、居住まいを正した。
「相当腹が減っておるようじゃのお」
「そりゃーもう、泣きたくなるほどの長旅だったもんでね」
「まさか一人旅か? 随分とシャレた装いをしておるようじゃがぁ……」
皐月はパーカーを小脇に抱え、Tシャツの袖をたくしあげたラフな自分の格好を見下ろした。米神の辺りをポリポリと掻く。
「あー…、まぁ……」
言いにくそうな様子を察して、燦寿はつと腰を浮かせた。とりわけ色の良いりんごに手を伸ばし、傷がないことを確認し――、
「ほれ、美味いぞ? よければ持って行きんしゃい」
「え?」
「これならば、歩きながらでも食べれるじゃろ? 悪気があってのことでないとはいえ、初対面のひとに無礼が過ぎましたからな。そのお詫びもかねて」
「いいの?」
「うむ」
皐月は渡された “りんごもどき” ……のような、不思議なそれをもう一度見つめてから、上目に軽く会釈してきた。
「採れたてじゃ。お主には……、特別に “これ” もやろうか――?」
燦寿が差し出して見せたのは “龍眼” の実だ。
皐月はしかし、物珍しそうにしただけで、少し笑うと首を横に振った。
「そうか……?」
燦寿は笑顔を保ったまま、わずかに持ちあげた瞼の下から、さりげなく真摯な眼差しを注ぐ。
(年は――……十六、七といったところかの。まだ若いようじゃが、遠目に見たときの印象より、今のほうがむしろ “やつ” によく似ておる気がするわ……)
見れば見るほど、この少年の背後に、 “酷似したもう一人の輪郭” が重なって見えてくる。
「まったく、本物は一体どこで何をしておるのやら…」
「え?」
「あ、いやな……」
燦寿は髭をなでなで、軽く咳払いをした。(念のため、これから何処へ向かうつもりか、問うてみようかのお――……?)
「ちなみに――」と切りだしたとき、店の前の通りがにわかに騒がしくなって、遠くで男の怒声が上がった。
「この野郎ッ!」
右手の方からだ。
「な…、なんじゃ?」
燦寿は目を剥いた。
市場の賑わいとは別のざわめきが、数軒先の四辻に凝っている。
機敏な動きで振り返る大人たちの間をかいくぐり、人垣を突き破ってきたのは数人の子供だった。
随分な慌てようだ。
漠然とそう思っていると、ちょうど店前から、二軒ほど通りすぎた辺りで立ち止まった。
息を弾ませて後方をうかがう全員が、まだ十歳前後の幼さで、うち一人の坊主頭をした少年は、右手に卵の入った手籠をつかんでいる。
先ほど怒号を上げた男から奪い取ったものだろうか――……。いや、奪った相手とは、もっと距離があるはずだ。でなければ、こんなところで立ち止まったりしない。
なんにせよ、どこかの強面の商売人が追ってくるとばかり思っていた。それは皐月も同じだったらしく、燦寿は次に現れた予想外の追っ手に、彼の片方の柳眉がピクリと跳ねあがったのを見逃さなかった。
――――【 善人で間違いない案内人 】――――
「ハハっ! や~い、ひいなぁ! そんなんじゃ、いつまでたっても取り返せねぇぜー? これ」
へとへとになりながらもやってきた姿を認め、少年は頭上に突きあげた手籠を振って見せた。
辻を越えたところで、ひいな少女はついに息苦しくなり、立ち止まってしまった。挑発されてもすぐには言い返せず、ただ喘ぐばかりだ。
「さっさと来いよ! ノロマのひいな!」
「の…っ、ノロマじゃないもん……っ!」
一段と強い口調で悪態をつかれ、カッとなった。
小豆色の裙を両手で握りしめ、呼吸が整わないまま再び駆けて行くと、少年たちは舌打ちした。
「…チッ、思ったよりしつこいぜ?」
「そんなにこの卵が惜しいのかよ……」
「返してッ!」
前につんのめりそうになりながらも、ひいなは自分の頭上で泳ぐ手籠を捕まえようと、果敢に飛び掛る。
「おおっと」
「ははは!」
「返してってばぁ…ッ!」
「ヤダって言ってるだろ⁉」
「どうして意地悪するのっ? お願い! それはお母さんに食べさせようと…っ」
ぐちゃっ――…
ひいなは息を呑んだ。反射的に自分の足元を見下ろした格好のまま、体が動かなくなった。
「ちょっと金持ちだからって、いい気になってるからだろう…ッ⁉」
坊主頭の少年に、腹の底から怒鳴り声を浴びせられた。
忌々しげに歯を食いしばり、「いい気味だッ!」と籠を足元にたたきつけて、彼らは走り去っていった。
怒りからなのか、ショックからなのか、自分でも訳が分からない感情を噛みしめた下唇が、小刻みに震えだす。
ひいながへたんと座り込み、地面に汚らしく広がっている生卵の殻に指先を伸ばそうとした時、どこからか、ひそひそと声が聞こえてきた。
《 …… “ひいな” って――? 》
《 ほら、壇里村の… 》
《 ああ…… 》
気にしながらも、過ぎ去って行く大人たちの中、ひいなは裙のひだを両手で握りしめた。
喉に固く詰まってくるものがある。
泣いても意味はない。自分で立ち上がらなければならないのに。
どうしようもなく口が――、歪んで……
「――…っ。………」
その時、膝元に伸びてきた人型の影に、ひいなはハッと眦の涙を散らした。
「食べ物を粗末にするのは良くない――」
逆光でその人の顔は陰っているが、誰かはすぐに分かった。さらりと前に片寄った長い黒髪が、まるで絹のベールのように、みじめな自分の姿を覆い隠してくれて――
手が差し伸べられてきた。
「卵の敵討ちだ。今すぐ追いかけて、飛び蹴りでも食らわせてやればいい……」
穏やかだが、感情のみえない声だった。
ひいなは、なんとなく下を向いた。
「そんなこと―――……、できないよ……」
ひいなを呑み込んでいる影の主は、そっと鼻から息をついた。
「だったらほら、立って。後ろ向いて? そう。腕上げて万歳…………よし、前も」
ひいなは支えられながらも、自分の足で立ち上がった。その都度短く支持された通り動き、再び向き合ったところで、両膝の砂をはたいてくれている相手の頭をじっと見つめる。
「ありがとう――……」
小さく唇を動かすと、ゆったりとした時が流れ、やや間を置いて黒い頭が喋った。
「俺も昔、よく怒られたから。別に、泥遊びしたわけじゃなかったんだけど……」
名前は?
「え……?」
土埃をはたき終えて立ち上がった彼を見上げ、ひいなは大きく目を瞠った。
「 “ひいな” って言うの――?」
少しオロオロしながら、ひいなは視線を上下させる。そして、目を皿のように瞠り、あらためて相手の顔を見つめた。
「びっくり……、サヤ兄だと思ったけどぉ…………お兄ちゃん、だあれ?」
「 “サヤ兄” ……か。色々な呼び方されてるんだな、 “花連の旦那” って。あのさ、その人、もしかして警察官か何か?」
「けーさつかん?」
「悪るさする奴を見つけたら、捕まえる人のことだよ。さっき、すぐそこの果物屋のじいちゃんに “管轄外だ” って、ここにいることを不審がられたんだ。会う人会う人、みんな俺を別の誰かと勘違いする……」
サヤ兄にそっくりな少年は渋面をつくって、チロリと視線を横へやった。
いきなりすがりつかれ、助けを求められるかもしれないことを思うと気が気でないらしい。
ひいなは申し訳ない気持ちで苦笑いした。
「アハハ…、ごめんなさい。似てたから間違えちゃったけどぉ……、そうだよね。サヤ兄は普段、こっちにまでお買い物に来ないし、今日もお勤めがあるはずだもん」
確かに本物はもう少し背が高くて、体格もがっしりしている。話し方や所作にいたっては、目の前の彼とはまったく違うように思えてきた。
「お兄ちゃんは、なんて名前?」
「俺――? …ああ、 “皐月” っていうんだけど」
「サツキ?」
「そう」
皐月は誤解が解ければそれでいいと思っているようだが、ひいなは、じっと思案顔をして黙り込んだ。
「その格好ぉ……」
眉を寄せた顔をあげて、両耳から垂らした三つ編みと、お団子頭を傾ける。
「もしかしてぇ…… “八曽木” ってところから来た人?」
「あれ、なんで分かるの?」
軽く戸惑う皐月に、ひいなは屈託なく、にこりと笑って見せた。




