◍ 鏡竹紙はデフォルメが嫌い
勢いよく紙面を走った墨の線が、ゆっくりと動き出す。
頭上の麗らかな空に流れている雲と同じくらいの緩慢さだ。
普通は怪現象として目を見張るところだが、仁華にとって、これはもう当然のこと。
「鏡竹紙、一筆目からだいぶ気に食わないみたいですね、今日も」
「……。」
「全然実を結びませんね。絵付けの副業」
「……。」
竹紙自体は珍しくもなんともない。墨引きがよく、虫食いに強い書画向きの紙の一種だが、 “鏡” を冠するものは、画才無き者にとってのまさに神器。
鏡の上に重ね、映し出されていたものを転写したり、あらかじめ蛇腹折にしておくことで、一枚目に描いた絵や文字の複製を作り出すために使われる。
「越境画の作業効率向上のためには、やっぱり転写か、複製型がいいよなー」
「分かってるなら、乗り換えればいいじゃないですか」
「阿呆ッ、いくらすると思ってんだ。畵僊自体を客にしてる畵僊は、俺たちを遥かに凌ぐ金の亡者なんだぞ?」
蒐が扱うのは、風景と紙面とを見比べる度、描き込んだ点や線がのったりと動いて、自ずと実景に近づいていく非歪曲型。
作者自身に描写力があれば、作成時間の短縮になるため、蒐は油脂傘や提灯の絵付けを副業にして、子供の落書きレベルの腕前卒業を目指してきた。
それでも未だ、鏡竹紙は容赦なく大幅な修正を施す。舌打ちが聞こえてきそうなほどに……。
本来は見たままを自動記録する “筆いらずの帳面” ――文書記録用である。人の視覚情報を読み込む呪力を持った、生き物のような古紙だ。
見ていない事柄の文章化はできず、無理やり加筆すれば修正力が働く。
「もともと、犯罪現場を目撃した証拠にするためとか、手配書の作成とかで、諜報活動中の奥座衆が使う仕事道具でもあるし、こっちの方が安価で手に入りやすいんだよ」
絵という形に表す場合は、完成に時間を費やすほど修正部分が多い――つまり、実景とはかけ離れていることになる。
いずれにしろ、嘘が記録できない特殊な紙媒体なのである。
蒐は毎度あえて筆を入れることで、融通の効かないこいつと対決しているのだ。
実用品とて、芸術的な観賞価値を宿せば、幾分かは高値で売れる。記録目的ではなく、越境画に仕立てるのだから、許せる範囲でいいので、作者の好きにさせて欲しい。
前任者も同じような考えだったらしく、蒐とは作風が違う。両者の鏡竹紙に対するささやかな抵抗が、それぞれの絵の雰囲気や味わいとなって表れていて、蒐畵僊作も評判が悪いわけではない。
「玉筆が持つ “別効果” のお陰か、俺の心象に近く仕上がると、なんか嬉しいしさ――……。花笠の主が、俺の画風を気に入ってくれてんのよ」
「師匠、その……」
言い淀んでいるうちに、近くの滝の音がまた豪雨の音に聞こえてきて、仁華はうつむく。
「さっきは調子のいいことを言いましたけど、私はそもそも、主様とお話できるんでしょうか――……」
こんなに良い簪まで貰っておいてなんだが、いくら見た目を取り繕っても、余種であることを隠し通すことはできないだろう。
「欺こうとするくらいなら、やっぱり私…」
「なんだよ今更。疫病神の格好に戻りたいとか言うなよ――?」
話の切り替えついでに、蒐が筆に墨を付け足す。
仁華は少し厳かになったその動作を、噛みしめるように見つめた。
――――【 主人の務め 】――――
「……確かに、お前という助手ができたことを伝えるのは、今日が初めてになる。とりあえず、俺がお前の名刺代わりだと思え」
初対面の相手から手っ取り早く信用を得るために必要なのが、自分の “身元” である。保証人と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
「覚えてるか……? どしゃ降りの雨の中、帰る場所なさ気だったお前に声をかけた時、俺は筆頭の話をしたよな。一介の寄生木でしかない自分について語るより、よっぽど信用してもらえると思ったからだよ。寄らば大樹の陰。ようするに、あの人の人間性や説得力に敵うわけがないことは、俺自身よく分かってる」
お前が主に信用されるかどうか不安に思うなら、俺が悪いし、追い出される場合も同じ。俺のせいにしていい――。
蒐はあえて淡々とした調子で、口と筆を動かす。
「主人にかばう力がないだけの話だ。お前の氏素性の問題じゃなく」
「――……」
ま、これも全部、筆頭の受け売りだけどなー、と茶化すところまでが気遣いだと分かっている仁華は、話の軸を自分から筆頭様にずらすことにした。
「奥座衆には、飼い主の手を噛む狂犬も少なくないんでしょ? 普通、周りは飼うのを反対します。でも、筆頭様がそこまで言うなら……みたいな流れで決着するって、考えてみたら凄いことですよね」
「放り出したことがないのはもちろん、現に手なずけて見せてきたのが大きい――」
蒐の脳裏に、悠然と長い髪をなびかせている青年と、その前後左右を護る “影の者たち” が浮かんだ。
そいつらがまた、結果的に恐ろしく馬鹿強い精鋭になっていたりもするから、今の筆頭には、並々ならぬ信頼と説得力がある。でも、一朝一夕でつかみ得たものじゃないし、不変的なものでもない。
「生まれた時から “黒になる” と決めつけられてきた人だからな……」
思いがけないことを聞かされた仁華の肩が、ピクリと反応した。
それは――、どういうことだ?
蒐は仁華が興味を持つと分かっていた。勝手に言いふらすのは良くないが、やはり筆頭の話は役に立つ。
「花人の誰よりも、清廉潔白であろうとする努力を欠かさずに生きてきたし、これからもそういう人生ってことだよ。自分がどういう道を行けば、萼の害とならないことを証明できるのか。みんなを安心させられるのか――」
あの人は幼くして、そんなことばかり悶々と考えなきゃならないほど、脅威的な存在だったんだ。挙句、死ぬのが一番かと思い詰めたり。
「でも、そんな楽できるもんでもないんだわ。花人の一生って――……」
自害も禁忌である。己の境遇から逃げ続ける限り、来世でもまた、同じことを繰り返すと信じられてきた。
悲しいかな、世の中から爪弾きにされる存在は、いくら理不尽であっても、自ら覆して行くしかない。偏見も、誤解も、悪評も、過ちを犯した過去も、信用されない未来も――、変えて見せる根性があるかないかで全てが決まる。
「花人にとって悪の芽は、未然に摘み取るのが鉄則。同族だからこそ容赦せず。奥座衆は元来、そのための精鋭集団だ……」
味方がいなかったわけじゃないが、かばわれれば、かばわれるほど筆頭は居た堪れなく感じたと思う。自分の存在を巡って、大人たちが言い争うのを見ていられなかった。そんな幼少期を経ての今――、
「俺はあの人ほど、奥庭の主にふさわしい者はいないと思ってるよ。あの人が誰よりも徹してきたように、絶対、萼の名を汚すような鬼にはならない……」
なってたまるか。
蒐はそう結んで、再び筆先に集中する。
やはり、筆頭様は蒐にとっての鑑であり、生粋の花人なのだろう。
自分勝手な理由で足抜きしたとは思えないし、今の話を聞いてしまった以上、その生き方すべてを踏みにじるように悪く言われれば、部下でない仁華でも頭にくると思う。何も知らないくせに、と。
交流があったということは、花笠の主様は、筆頭様の味方だったのだろうか――……。
やはり会ってみたいという思いが強くなってきて、仁華は顔を上げた。
断崖の穴から斜めに生え出た赤椿の巨木。
そういえば、何故これを描くことにしたのだろう。春らしい草花の景色なら、道中いくらでもあったのに……。




