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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
 越境画師・蒐【 秘密の匂わせ裏話2 】
168/194

◍ 雨は出会いをもたらす



   *   *   *



 数年前のある日、

 雨が降っていた。滝壺に落ちる水の音のように、うるさいほど激しく、絶え間なく――。


 今でも両耳の中に、雨が降っている音が巣食っている。

 強い負の思考が巡り出すと、上を向く気になれなかった頃の自分と一緒に蘇ってくる嫌な音だ。


 自分は善でもなければ、悪にもなり切れない。役たたずの何処ぞの馬の骨か、良くても鶏肋であった。

 ほとんど役に立たない。でも、捨てるしかないわけでもない。


 初めに売られた宿屋では、服がぼろ雑巾のようになるほどこき使われ、なんだったらそのまま蹴り転がされ、床掃除に使われた。


 親バカとはよく言ったものだが、自分の子どもたちにはめっぽう甘く、こちらを振り向くと別人のような形相になる夫婦だった。

 親が親なら子も子。人気のないところで大人顔負けの陰湿な真似をし、食事だよと呼ばれるや、コロっと笑ってヒヨコになる。


 いつか食い殺してやろう。

 もう少し大きくなれば、きっと、この手は立派な凶器になり、血に染まる。

 そんな未来を思い浮かべ、こっそり嗤いながら、右に左によろけては倒れ伏した。




 腹、減ったな……。



 ヒヨコを引き裂ける鉤爪より、翼が欲しくて仕方なくなってきた。

 自由が欲しい。いや、死にたくない。その一心で、ある日ついに、邪悪な顔をして迫ってきたヒヨコらの頬を引っ掻いた。

 そして、殺すどころか無様に逃げ出したのだ。西方では珍しい豪雨の中であった。


 しかし運命とは皮肉なもの。辻でぶつかったのを機に、次なる主人になった相手は、宿屋の夫婦より数百倍凶悪だった。


 これ以上ないほど底辺に生きていると思っていたが、ここからが本当の転落人生だった。

 西方における魔窟のことを “冥道” ――俗に “悪道” と言う。

 そこに根城を築いていた妖魔に命じられるがまま盗みを働き、貢ぎ、人を騙し、また命がけで盗む。


 でも、上手くいかない。悪党としても半端者だと毎日のように馬鹿にされた。

 それでも、もう少し待てばいい女になると、ある日、頭が舌なめずりしている音を聞いてしまった。


 おぞましかった。だが、逃げる気力が湧かなかった。

 ヒヨコに殺されかけるのとはわけが違う。今度、相手を引っ掻く時が来たら、おそらくそれが自分の最期だ。


 スリをしようと繁華街へ出ても、そんな考えばかりが巡るようになった。

 西方では珍しい豪雨の中であった。

 過去最悪にどす黒い負の思考を断つ、第三の主人と出会った―――。



   *



 正確には、出会い直したのだ。

 彼に初めて浴びせられた言葉は「こらッ! 待てこの泥棒猫ッ!!」だった。

 それっきり、二度と会うことはないはずだったから。


 伸ばされてきた手を、反射的に引っ掻いてしまった。

 息を呑んだ。

 曇天を背景にそびえ立つ彼の葡萄酒色の瞳が、爛々としていた。

 だが、恐ろしかったわけではない。


 雨足は変わらないのに、西の空だけ晴れて、日が差してきた景色が、目を瞠るほど、人生で最高にきれいだったせいかもしれない。

 黄昏時の滝のような雨が、琥珀色に輝き出した。


 彼が次に言い放った言葉は、今でもはっきりと覚えている。

 鼓膜の奥に、豪雨の音がこびりついていても――。



 *――いいか、俺の主人は……

       



 何の話かと思えば、「いや、知らんがな」と突っ込みたくなる内容であった。

 にもかかわらず、聞き入ってしまったのは、同じ “主人” であっても、他所よそはこうも違うのかと感心させられたからだ。


 そう、それは呆れていると見せて、立派な自慢話であった。





     俺の主人は、毎日のように、飼い犬に手を噛まれている。





 思えば、その一言が、何よりの安心材料だったかと――……





   ×     ×     ×





「……ファ、仁華ジンファあ!」


 ハっと榛色はしばみいろの目を見開いた仁華が振り返ると、苔むした岩場の向こうで、しゅうが手を振っている。


「水まだか~?」


 仁華は滝壺の淵で、呑仙瓢とんぜんぴょうに水をくんでいた。

 河川があるところで作業するとは限らないため、いつもこの呪具で水を持参するのだが、昨晩、準備を中断させられたせいで、肝心の中身を入れ忘れたのだ。


 花笠はながさぬしに手土産とする画をここで描く。目の前に清水が流れているところでよかった。


 この呑仙瓢とんぜんぴょうの容量は手桶四十杯分。飛び出ようと抵抗するものや、強力な瘴気を封印するなど、特殊な使い方をするわけでないなら、収納用具としては、おおよそこれで事足りる。


 他にも、絵師としての蒐は、様々な便利道具を扱う。どれも骨董品といえるほど年季が入っていて、それ一つ一つ自体が芸術品のような代物だ。

 これらをまとめる呪縄がまた便利で、二重、三重に巻きつけるほど、縛った荷物が縮む。


 今回の絵は大きく描かないと、目の悪い主様ぬしさまが見えないとのことで、特大の画板と紙を設置。

 仁華が戻ると、蒐もちょうど絵皿を並べ終えた。床机しょうぎのような折り畳みの台の上に、いつもの必需品がそろった。



「じゃ、はじめますけど、いいかな仁華くん」


「勝手にどうぞ」


 蒐は畵僊がせんの宝筆――白瑪瑙しろめのう玉筆たまふでに墨を含ませた。


 巨大画板越しに対峙たいじしているのは、渓谷の断崖だ。見上げていくと、中ほどにいびつな大穴があり、縁から清水が流れ落ちている。

 そこに、化け物じみた赤椿の大木がへばりつき、こちらを呑み込もうとするように樹冠を傾けていた。

 チチチ、と鳴く声が反響して聞こえる度、岩穴から燕が飛び出してくる。

 そしてまた、突入していく――。


 まずは上部の枝を描き始めたが、繋げ字を書く動作に近い。

 いざ畵僊がせんの仕事がはじまると、なんだかんだで仁華ものぞき見がしたくなる。


 一応助手なので、要求されたものを手渡したり、補充したり、不要になったものは、さっさと片付けて行かなければならない。

 解かれたまま放置されていた呪縄を拾い集めながら、仁華はさりげなく、蒐の右後ろに歩み寄った。

 



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