◍ 雨は出会いをもたらす
* * *
数年前のある日、
雨が降っていた。滝壺に落ちる水の音のように、うるさいほど激しく、絶え間なく――。
今でも両耳の中に、雨が降っている音が巣食っている。
強い負の思考が巡り出すと、上を向く気になれなかった頃の自分と一緒に蘇ってくる嫌な音だ。
自分は善でもなければ、悪にもなり切れない。役たたずの何処ぞの馬の骨か、良くても鶏肋であった。
ほとんど役に立たない。でも、捨てるしかないわけでもない。
初めに売られた宿屋では、服がぼろ雑巾のようになるほどこき使われ、なんだったらそのまま蹴り転がされ、床掃除に使われた。
親バカとはよく言ったものだが、自分の子どもたちにはめっぽう甘く、こちらを振り向くと別人のような形相になる夫婦だった。
親が親なら子も子。人気のないところで大人顔負けの陰湿な真似をし、食事だよと呼ばれるや、コロっと笑ってヒヨコになる。
いつか食い殺してやろう。
もう少し大きくなれば、きっと、この手は立派な凶器になり、血に染まる。
そんな未来を思い浮かべ、こっそり嗤いながら、右に左によろけては倒れ伏した。
腹、減ったな……。
ヒヨコを引き裂ける鉤爪より、翼が欲しくて仕方なくなってきた。
自由が欲しい。いや、死にたくない。その一心で、ある日ついに、邪悪な顔をして迫ってきたヒヨコらの頬を引っ掻いた。
そして、殺すどころか無様に逃げ出したのだ。西方では珍しい豪雨の中であった。
しかし運命とは皮肉なもの。辻でぶつかったのを機に、次なる主人になった相手は、宿屋の夫婦より数百倍凶悪だった。
これ以上ないほど底辺に生きていると思っていたが、ここからが本当の転落人生だった。
西方における魔窟のことを “冥道” ――俗に “悪道” と言う。
そこに根城を築いていた妖魔に命じられるがまま盗みを働き、貢ぎ、人を騙し、また命がけで盗む。
でも、上手くいかない。悪党としても半端者だと毎日のように馬鹿にされた。
それでも、もう少し待てばいい女になると、ある日、頭が舌なめずりしている音を聞いてしまった。
おぞましかった。だが、逃げる気力が湧かなかった。
ヒヨコに殺されかけるのとはわけが違う。今度、相手を引っ掻く時が来たら、おそらくそれが自分の最期だ。
スリをしようと繁華街へ出ても、そんな考えばかりが巡るようになった。
西方では珍しい豪雨の中であった。
過去最悪にどす黒い負の思考を断つ、第三の主人と出会った―――。
*
正確には、出会い直したのだ。
彼に初めて浴びせられた言葉は「こらッ! 待てこの泥棒猫ッ!!」だった。
それっきり、二度と会うことはないはずだったから。
伸ばされてきた手を、反射的に引っ掻いてしまった。
息を呑んだ。
曇天を背景にそびえ立つ彼の葡萄酒色の瞳が、爛々としていた。
だが、恐ろしかったわけではない。
雨足は変わらないのに、西の空だけ晴れて、日が差してきた景色が、目を瞠るほど、人生で最高にきれいだったせいかもしれない。
黄昏時の滝のような雨が、琥珀色に輝き出した。
彼が次に言い放った言葉は、今でもはっきりと覚えている。
鼓膜の奥に、豪雨の音がこびりついていても――。
*――いいか、俺の主人は……
何の話かと思えば、「いや、知らんがな」と突っ込みたくなる内容であった。
にもかかわらず、聞き入ってしまったのは、同じ “主人” であっても、他所はこうも違うのかと感心させられたからだ。
そう、それは呆れていると見せて、立派な自慢話であった。
俺の主人は、毎日のように、飼い犬に手を噛まれている。
思えば、その一言が、何よりの安心材料だったかと――……
× × ×
「……ファ、仁華あ!」
ハっと榛色の目を見開いた仁華が振り返ると、苔むした岩場の向こうで、蒐が手を振っている。
「水まだか~?」
仁華は滝壺の淵で、呑仙瓢に水をくんでいた。
河川があるところで作業するとは限らないため、いつもこの呪具で水を持参するのだが、昨晩、準備を中断させられたせいで、肝心の中身を入れ忘れたのだ。
花笠の主に手土産とする画をここで描く。目の前に清水が流れているところでよかった。
この呑仙瓢の容量は手桶四十杯分。飛び出ようと抵抗するものや、強力な瘴気を封印するなど、特殊な使い方をするわけでないなら、収納用具としては、おおよそこれで事足りる。
他にも、絵師としての蒐は、様々な便利道具を扱う。どれも骨董品といえるほど年季が入っていて、それ一つ一つ自体が芸術品のような代物だ。
これらをまとめる呪縄がまた便利で、二重、三重に巻きつけるほど、縛った荷物が縮む。
今回の絵は大きく描かないと、目の悪い主様が見えないとのことで、特大の画板と紙を設置。
仁華が戻ると、蒐もちょうど絵皿を並べ終えた。床机のような折り畳みの台の上に、いつもの必需品がそろった。
「じゃ、はじめますけど、いいかな仁華くん」
「勝手にどうぞ」
蒐は畵僊の宝筆――白瑪瑙の玉筆に墨を含ませた。
巨大画板越しに対峙しているのは、渓谷の断崖だ。見上げていくと、中ほどにいびつな大穴があり、縁から清水が流れ落ちている。
そこに、化け物じみた赤椿の大木がへばりつき、こちらを呑み込もうとするように樹冠を傾けていた。
チチチ、と鳴く声が反響して聞こえる度、岩穴から燕が飛び出してくる。
そしてまた、突入していく――。
まずは上部の枝を描き始めたが、繋げ字を書く動作に近い。
いざ畵僊の仕事がはじまると、なんだかんだで仁華ものぞき見がしたくなる。
一応助手なので、要求されたものを手渡したり、補充したり、不要になったものは、さっさと片付けて行かなければならない。
解かれたまま放置されていた呪縄を拾い集めながら、仁華はさりげなく、蒐の右後ろに歩み寄った。




