◍ 花香る夜に……記神と赤髪のお話
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遠い昔の、ある時代のこと――、
双瞳四目の非常に聡明な者がいて
あらゆる事物を見抜く鋭い観察眼を誇り、
ただの鳥の足跡から
はじめて “文字” というものを生み出した。
すると、天から穀物の雨が降り、
鬼たちが夜、声を上げて泣いたそうな。
『 字を製するや、天為に粟を雨らし 』
『 鬼為に夜哭し――…… 』
点や線から作られるこうした象形文字は発展を遂げ、
嘘も真も自在にしたこの者の務めは
後に、世界各国の史官たちに受け継がれる―――。
―― * * * ――
「……で、なぜ、天から穀物が?」
「知らね」
「鬼たちが泣いたというのは…」
「だから、理由までは知らない。俺は一介の花人であって常葉臣じゃないからな」
常葉臣というのは、花人の国――通称 “萼” における史官、兼、神官のこと。建国以前、萼の周辺に暮らしていた人間たちが、その草分けだそうだ。
そして、今、唐突にこんな話をはじめた背後の青年は “蒐” という。
世界を股にかけ、救国救民に一生を捧げることを科している、神代崩壊に関わった罪深い原初夜叉族の末裔。
彼に濡れた髪を梳いてもらっているという妙な状況に、仁華は話を聞きながら、恥ずかしさを覚えていた。
萼暦二〇九一鐘年、三月。
花香る月夜。――年寄りならもう、寝ている時間である。
――――【 畵仙の務め 】――――
真澹という渓谷沿いに、様々な蒐集家たちが集う村がある。
風景の蒐集家として、久しぶりに遠出するという家主の蒐に付き合うため、仁華も旅支度をしていたのだが、ふいに呼ばれた。
油脂傘や提燈の絵付を副業にしている蒐の部屋には、それらの作りかけが溢れている。
万華鏡のように妖しく、幻想的で、静寂が耳につく雰囲気。そんな二人きりの空間で始めたことが
……染髪だ。意味が分からん。
仕上がるまで仁華はじっとしているしかなく退屈なので、あらためて “記神” について教わっていたのである。
記録を司るのは、何も史官だけではない。そもそも文字のはじまりは絵であったし、絵師は戦争などの歴史的な出来事から、王宮の栄華、その時々の庶民の暮らし、失われていく秘境の絶景まで伝え残してきた。
“越境” という特殊な呪力を持つ風景画。蒐の場合は、自身がそれを仕立てる畵仙を本職として生計を立てているため、定期的にそのバリエーションと在庫を増やす蒐集活動を要する。花人でありながら、変わった経歴の持ち主であった――。
「じゃあ、色々な立場を併せ持ってる師匠の務めって、結局なんなんです?」
「今はとりあえず、奉公人のお前の主人であって保護者っすね」
「――……」
チラッと目だけ動かすと、袖をまくっている蒐の左腕に、刺青のような “華痣” が見える。彼の場合は自ら描き足しているので、よく分からない模様だ。
花人はこれを “呪われた血筋の証” とか、 “罪人の極印” として忌み、贖罪を終えた暁に、来世の体には浮かばないこと願っている。
だが、こうした身体的特徴を有するのは、元来、軍神や神官であったと言うから、やはり、彼らの歴史は故意に歪められている可能性が高い。この類の文様を見ると目が潰れると信じ、魔物は僻邪の香や聖水同様に、大そう恐れたのだとか――
「痛ダああーーっッ!!!」
ふいに後ろの髪を鷲掴みにされ、仁華はのけぞった。
頭皮を引っ張られて異様な吊り目になった変な顔の横に、蒐の美しい眉目が寄せられた様子が、持たされている鏡に映った。
「おい、また辛気臭い顔になってるぞー。暇さえあれば不幸なことばかり巡らせるその貧乏神みたいな思考回路、いい加減どうにかしてくれませんかねぇ、お客さん。せっかく劇的に生まれ変わらせてやろうとしてるのに」
「誰も頼んでませんよッ。やっぱり嫌ですっッ! ってゆーか無理…ッ!! 髪を金色に染めるなんてぇっッ!!」
そもそも、越境画を描きに旅に出るですよねッ!? なんで急に女磨きなんかッ――。
仁華はもう半泣きどころではない。顔面蒼白で、大嫌いな風呂から、逃走しようとしている猫のような必死の抵抗を見せる。
「だ~もぉ、暴れるんじゃないッ。これ、俺たちが変装用に使う術の一種だから、染髪液が服についたら容易には落ちないんだぞ?」
「見た目が生まれ変わっても、私が “黄邪砂猫” の脈児子である事実は変わりませんよ…っッ!?」
爪を立てて見せられ、蒐はため息をついた。
「それ……、それだよ。お前は自分が魔物の血を引いてるからって、人を避けて、疫神みたいな格好にこだわってきたわけだけど、逆に目立つんだよ……。連れて歩く俺の身にもなれ」
表を出歩きつつ自分の素性を隠したいなら、むしろ、堂々と目立った方がいい。年齢、性別、性格、職業、服装、口調、すべてにおいて、まさかと思わせることが大事。
「そんでもって師匠は白金髪が好きだ」
「知らんがなッ。なんで私が変態絵師の好みに染まらなきゃならないんですかッ」
「これも助手の立派な務めだと思いなさいよー。朝ご飯あーんして欲しいとか、昼寝中に耳かきして欲しいとか、夜はほとんど紐の下着付けて欲しいとか、嫁がするようなこと求められないだけマシだぞ? お前、よかったな」
「よかったですね、そんな色欲まみれな脳内でいる以上、あなたは来世も花人ですよ。ろくな人生歩めませんよ。華痣よりも分かりやすく「変態」って文字が額に浮かぶこと間違いなしですよ」
無視。
蒐は口笛を吹きながら、仁華の毛先に薬を塗り続ける。
「西方生まれの女といえば、やっぱ赤髪か金髪っしょー。あっちでは伝説の美女に多い特徴」
「だから知らんがなッ」
引き裂いた黒いボロ布のようだった乱髪が、徐々に白っぽく艶めいてきた。
前髪の一房だけ、もともと金色だったので、仁華は鏡を見ながらその部分を気にしている。
「でも――、赤髪は “結び巫女” と間違われる可能性があるから、わざわざ染めてまでなるもんじゃない」
蒐はふいに声色を変えて、真面目な話もする。仁華は初めて聞く単語ともあって反応した。
「結び巫女……?」
「ああ、中でも、赤と金色が混ざったような “暁雲色の髪” は格別だ。こいつは東扶桑に生まれやすいが、ある意味ヤバい扱いを受ける。お望みとあらば仕立て上げてやろうか?」
「結構です。なんだか知らないけど、私もこれ以上、ろくでもない人生歩みたくないんで」
「よく言うよ。俺に拾われたお陰で、それでもちょっとはマシな人生になっただろ? 元・泥棒猫の仁華ちゃん――……?」
そう。仁華は実のところ、蒐から金目の物を奪おうとした元・摺師であった。
そして、この家に連れてこられてからもしばらくは、逃げ出すついでに家財を物色し、その都度ことごとく捕まっていた。
「っ~~……」
仁華はバツが悪いフリをして顔を伏せた。
自分は蒐がふとした瞬間に見せる “素顔” が苦手だ。ムカつくし、敵わないと思うと、やはり、みじめな気分になる―――。
*
真澹の春は桃源郷かと思うほど華やかになり、半ば世捨て人である住人達は今、そこかしこで酒を飲み交わしている。
若くとも、そろそろ酔いが回り、深い夢の中に誘われる者も出てきているだろう。
観月は嫌いじゃない。どうせ夜更かしさせるなら、今度は晩酌の相手として、部屋に招き入れてくれないだろうか。旅に出る前夜を除いて……。
そんなことを言いたげにして見せても、鼻歌を歌っているこの主人は、きっと気づかないだろうと思うと、やるせなくてたまらなかった。




