◍ 夢の終わり
特大の地響きが襲ってきた。
歓喜の叫び声を上げ、轟々と大地を突き破った出現時の勢いよりも激しく、
《 っかああーーーははははははっッッ…!!! 》
巨樹の円蓋壁が崩れていく。
いや、その様子はまさに、大地の割れ目へ潜ろうとする九頭龍だ。
四方八方、三百六十度、天にも地にも、強大な支配力を知らしめる天網樹の幕引き。
あの空間の中央にいる人間たちはしかし、幸か不幸か、幻を見せられていて、この天地がひっくり返るに等しい衝撃を味わえていない。
《 見事にしてやられた…ッ!! ハハハハッ!! 》
鵺の右肩上にいる鴉は、嘴から舌を突き出して大笑いしていた。
歓声にも、地獄の阿鼻叫喚にも聞こえなくはない雑多な音は、種々の太い生木がひび割れる音、折れる音、駆け抜ける音。
花も葉もお構いなしに、あらゆるものをまき散らして猛々しく、美しく。
反面、残酷に見えるのは、甘美な七宝樹を貪っている夢に浸らされたまま、引きずり込まれていく化け蛞茄蝓と蝗の最期でもあるからだ。
これは単なる馬鹿力が成す業ではない。頭脳戦でもあった時点で、蛞茄蝓なんぞに勝ち目はなかったのかもしれない。
にしても、まさか、こんな光景を拝まされるとは。前回の九天九地の引き合いもさることながら、嫌な記憶がじゅくじゅくと蘇る。
もし、陽の下に這い出、天柱地維の目に余る悪さをしようものなら、
忘れるな、と言うのだろ。
今も昔も変わっていないことを示す――
《 ……見せしめか 》
鵺は左肩上の鴉が、ただ一言、そう呟いたのがなんとなく気になった。
自分の左眼球は斜視のため、元来、横を向いている。見つめていると思われないのを良いことに意識を注いでみるが、やはり、この左の鴉の “声の主” に関しては、心当たりがない。 “地下の誰か” には違いと思うが、一体…
バシュンっッ…、――
思考が渦巻くのを断つ音が耳朶を打った。
右側の鴉が嘴をぱかっと開け、小躍りしていた格好のまま、一泊後に落下。
銃弾を受けた。
左の鴉がただのカラスに戻って、なりふり構わず飛び立つ。
さらに一発、二発、近くの木に被弾。樹皮が弾け飛ぶ中、鵺も慌てて枝から飛び降りた。
× × ×
「チッ……、外したか」
さすがにこればかりは、一石二鳥、三鳥とはいかない。
撃ち落とした鴉の方は、どうせ敵の親玉が遠見に使っていた、ただの傀儡だろう。
真に狙ったのは、そいつを肩上にあぐらしていた男の頭部だった。
褐色肌に一枚布をまとった西原の修験者のような格好で、帷帽をかぶっていた。
黒同舟の構成員と予想したが、狙撃を躊躇う相手でないことさえ明らかであれば、自分にとって何者であるかなど、大した問題ではない――。
覊流は、構えていた長銃を下ろした。
今は砂漠と化したが、故郷は北西寄りにあり、自分は広大な草原と、山肌の家畜を見守って育った騎馬民族の生まれ。普通の人間の倍以上、目が良いと自負している。
「やっぱり新救世主殿に興味津々なのは、俺や衛男だけじゃなかったみてぇだなぁ。あいつも、自分の務めがどうとか、クソ真面目なこと言ってないで、高みの見物くらいすりゃーよかったんだ」
銃を肩に担いで立ち上がる覊流の眼下では、化け物じみた合大木が、今も荒れ狂っている。
次々と弧を描き連ね、雲海へ潜る青龍の群れのようだ。
「――ま、俺と彪将の間で板挟みになるかもしれない危険が伴う以上、離れざるを得なかったんだろうが、こうなると正直どうでもいいわ。鉄槌神が濁すような、彪将の白黒なんざ……」
覊流は不敵に鼻で笑った。
「 “明らかに黒い奴” の方が、俺の獲物にはふさわしいって分かったしな――」
――――【 生と死の狭間 】――――
こういう場合は、なんと命じるんだったか。
「 “封空” 」
ああ、いや違う。 “封天” か――……?
ぼんやりとそんなことを考えていると、十二年前に奈落へ落ちる瞬間、最後に見た光景が脳裏を過った。
周囲が闇に染まっていく中、目の形に開いている大地の裂け目が、どんどん小さくなって行くのを仰向けに睨み続けた。
自分を突き放した男が、最後の最後までそこに立っていたからだ。
炎の光源を背にしていたため、どんな表情をしていたのかは分からない。ただ、達者で暮らせ、というようなことを言われた気がする。
*――生きろ…っ、 ……が……
血を吹くほど、 “とんでもない神器” でひとの胸を突き刺しておいて、言うことがそれ――? いや、おかしいだろうと、思わず笑ってしまった悪夢の夜のことだ。
―― * * * ――
龍王の乱心により、天地の境――天津標が倒されて三千と有余年。
神代の格差構図でもあった四生界における地獄とは、どんな様相だったか、しみじみと語れる者は、かの不死の薬を浴びるように暴飲した罪神くらいだろう。
“生き地獄” ―――である。
『生と死、善と悪の喰い合い』と書いて、産霊と時化霊の狭間。
それをある人間は修羅道と表し、またある人間は地獄と説いた。
黄色い山吹に似た花が枝垂れ咲く、深い深い渓谷の果てにあって、赤い目玉を千も有する神代大蜘蛛が、番神の一柱を担っていた。
かつてはそこを黄塵獄。
そして、現・化錯界を構成している東扶桑山では “底津根国” ――
西閻浮原では、 “悪道” や “闇冥” ――
北紫薇穹では “泥黎の常夜” ――
当代の南壽星海においては、無法地帯・煬闇よりもさらに地下、―― “黄泉” と言われている。
「黄」は中央にある土を示し、黄泉とは元来、死後の世界ではなく単なる地下を示した。
そこに “万物を生み出す泉” があるというのだが、その正体は洞天福地に見られる龍穴の一種。
否――、とてつもない鬼門。はたまた、巨大な “照魔鏡” だとも唱えられている。
神典と各世界の成り立ちを読み解いてきた神官たちの関心ごとの一つに、 “天地の鏡” というものがあるためだ。すべての真の姿を映し出すというこの神器は、何処に封印されたのか――。
かの不老不死の薬を壟断した神々に屈辱を、
轟くほど誇ったその神威の失墜を、
牙を抜き、ただ死ねないだけの人間に化わる罰を与えたという、脅威の大鏡の行方について――……
《 “天突” 》
ハッ――と、閉ざしかけていた夜明珠の瞳を見開くことが起こった。
皐月は南側の天網樹の一部を、城郭の内側に崩す寸前だった。
その瞬間、燦寿とは違う榛色の瞳に見抜かれた気がして、我に返った。
聞こえたのは雅やかな女の声で、その短い詠唱とは、あまりにも掛け離れた大現形が目の前で起こる。
李彌殷と路盧とを結ぶ一直線上。そこに、新たな巨大樹の柱が連続して噴き上がると、あっという間に路盧城郭に突き当たった。
盛大な打ち上げ花火の百連発を演じ、その果てに、岸壁に打ち付けた大波の如く立ち上がる。
かと思えば、しなやかに、勢いよくなだれ込んで、天網樹が臥しかけている部分を補強しはじめたではないか。
× × ×
「なんと…」
黄葉した金色の大柳。
「もしや、李彌殷の南門にあるあれか……?」
燦寿は自分で言っておきながら信じられない気持ちもあって、我知らず傍らの梨琥に尋ねていた。
梨琥はさきほどから夢のような劇的光景に圧倒されており、答えたのは背後にふと顕現した一人の神堂司だった。
「――都城隍、康黛紅様による発動と思われます。ここまで延長できる術者には限りがある……」
「魯薗、お主、どこに行っておったのだ。木守のお前に手伝ってもらいたくて何度も呼んだのじゃぞ。お前たちが、黛紅に力添えを頼んだのか」
魯薗は首を横に振る。
「燦寿様や他の四大仙が、押しても引いても動かないというあのお方を、七年前以来、顔も見たくないとそしられ続けている我々が、どうしてお呼び立てできましょう……」
壽星桃を守れなかった神堂司たちを、康狐仙が、ただで許すことなどない。
ましてや、憎き敵の首魁は、元火守神堂司なのだから。
《 美丈夫のような九頭龍に釣られて来たんと違うか? 女狐ってのは、好奇心というより、性欲旺盛だからな 》
《 にしても、あの九尾狐までも馳せてくるとは…… 》
護坤、慧珂の声が、燦寿の足元の陣からしみじみと聞こえてくる。
二仙はそれぞれ、すっかり安心しきって、ただの観覧客になっていた。
× × ×
「さて、これで夢は終わり。本当の仕舞いになりそうですねぇ……」
慧珂が少し名残惜しそうに呟いた。
金木犀の濃密な香りが鼻腔をくすぐる。
大地の割れ目に還っていく天網樹の最後の様子は、天女が空高く放った羽衣が吸い込まれていくかのように、嫋やかだった。
地獄のことを、北紫薇では “泥黎の常夜” と言うらしい。
愚かな羽蟲、裸蟲たちが、甘い夢を見たまま眠っていられる所かどうかは分からないが、少なくとも
永遠に眠ってくれれば良いと思う―――。
◆ ◇ ◆
〔 読み解き案内人の呟き 〕
◆【 泥黎 】
「奈落」以外に複数ある当て字の一つ。
元は「ナラカ(地下の牢獄)」を示す言葉。
◆【 洞天福地 】
洞窟中の別天地。壺中天と同様、
閉ざされた小世界の中に見る大世界。
地下の霊界との繋がりを持った聖なる場所とも。
◆【 天地の鏡 】
第一幕『天地の鏡』や、
第二幕『千年大戦の勝敗』で触れている神器。




