◍ 大現形(エイダラゲン)巨大な壁の攻防
路盧県城は、山に囲われた細長い平地の奥に築かれている。
東に拓けており、その城門までの間を守森壁に埋め尽くされている。
守森壁は八年前、砂漠化の脅威に対抗するため、造林の能力を持つ神々や神堂師司らによって設けられた、いざという時の防壁の一種だ。
砂嵐や熱波を防ぐ効果もあり、華瓊楽の街並みあるところ、常に一定の範囲をこれで覆うよう努められてきた。
城郭内に住めない貧民、難民の村を擁しているからでもある。彼らの退避は、燦寿の指示で、路盧の兵士らが上手くやってくれるはず。
問題はこっちだ――。
ずずぅ、と。
再び響き渡った不気味な地鳴りに、雅委は駆け上がってきた岨道の途中で急停止した。
それに遅れること数泊。術を使って、李彌殷からいち早く状況把握に来た神堂司らが背後に顕現し、片膝をついた。
「…何事です」
「…状況は」
飛蓮は「見れば分かるだろ」と、眼下の光景に舌打ちした。
紫色の毒々しい煙を上げながら、森の木々が次々と形を崩し、溶解していく。
それを押しやって進行する紫紺の巨大な蛞蝓は、山の中腹に立つ自分たちと目線がほぼ同じ高さ。
もっとも、彼奴に目があるかどうかは定かでないが、
「っ…、避けろ…ッ!」
飛蓮は叫びながら、風削を放った。
咄嗟に反応した雅委と神堂司らだったが、迫ってきた巨大鞭の風圧に、半ば吹き飛ばされながら歯を食いしばる。
「な…ッ!」
鞭自体の攻撃は食らわなかった。飛蓮の風削が先端を斬り飛ばしてくれたお陰だが、周囲の岩や木々に強か背中を打ち付けた。
「痛、てて……」
なぜ蛞茄蝓に、湖虞霊のような触覚が――?
頭を振っているうちに外套の頭巾が脱げて、神堂司の一人の顔があらわになった。木守の魯薗だ。
魯薗はとんでもない事態になったと歯噛みしつつ、なんとか膝を立てる。(くそ…っ。このままでは――)
「風爆…ッ!!」
飛蓮は魯薗たちを巻き込まないよう、距離を置くため、自ら岨道を駆け上がりながら攻撃を加え続ける。
砲弾のような衝撃波が化け物の腹に一発、二発三発と打ち込まれた。
多重に轟く湖虞霊の咆哮を上げながら、巨大蛞茄蝓がわずかに後退する。
さらにもう一撃。
素早く複数の印を組んで、飛蓮は気合もろとも右拳を地面に振り下ろす。
「大現形――ッ!」
ドグン、と。反応した大地の鼓動が、空に跳ね上がる。
「氷刺降乱ッ、天柱囲……ッ!!」
上空には雲一つない。だが、中天に剣先の煌めきが生じた瞬間、それは目にも止まらぬ速さで落ちてきた。
神殿の柱のような氷の杭だ。敵陣から一斉に降り注いでくる矢の雨の如く、巨大蛞茄蝓の足元に突き刺さって、凄まじい砂煙を上げながら檻を成していく。
《 グギァアァァアァーーー……ッッ! 》
大きく、それでいてゆっくりと巨体を反らし、身悶えする生きた毒液の山――。
飛蓮は蛞茄蝓が怯んだこの隙に、魯薗たちの方を振り返って叫んだ。
「路盧の凌能門を発動する…ッ!! 城郭内への退避を急げと伝えろッ!! 木守と土守、水守は小規模でもいいッ、俺が作るものと同じ障害物を築け…!」
今から城壁の外側は、人間では生き残れない地獄になる――。
魯薗たちはごくりと息を呑んだ。飛蓮に宣言されたことが八年前の悪夢を呼び起こしたからでもあったが、正確には、蘇ったその脅威の一つを、実際に目にしてしまったからであった。
飛蓮は震える腕をのろのろと上げ、背後を指し示す魯薗を見て、ハッと腰をひねり戻した。
身動きができなくなって猛り狂っている巨大蛞茄蝓の頭上を、波打つ羽虫の暗雲が取り巻き始めている。
「おいおい、冗談も大概にしろよ……」
さすがの飛蓮も、忌々し気に顔を歪めた。
まるで、仲間の窮地を聞きつけたかのように飛来し、帯状から変形して、見る見る分厚い笠雲を成していく――。
再来を予想してはいたが、このタイミングで来るとは、底意地が悪いにも程があるだろう。
× × ×
同じように路盧の守森壁を見下ろすある崖上で、黒衣の女が鼻から一つ、息をついていた。
やれやれと言いたいため息でもあり、さてやるか、と重い腰を上げる意味合いもあった。
女は四か月前と同様、吹き上げてくる風に短い黒髪をばらけさせ、自分が整えた眼下の舞台を涼し気に見つめる。
だが、今回の目的を果たすためには、前回と比べ物にならない労力が必要。決して余裕面というわけではなく、むしろ、久しぶりに本気にさせられていた。
「大現形……」
すっと、軽く息を吸い、大気中の水霊に命じる。
「天柱囲―――」
× × ×
ふいに、砲弾が降ってくる時の音がしてきた。飛蓮は自分が放ったものと同じ大技が、目の前に再現されることを直感した。
だが、巨大蛞茄蝓をさらに包囲するためではない。再び矢の雨の如く降ってきた氷の杭が、すでに突き刺さって檻を成していたそれと次々に衝突し、無残なほど打ち砕いていく。
濛々と上がる土煙が高さを増す。
「なっ……!」
地上で避難誘導を急いでいた礼寧と燦寿は、爆撃を思わせるその轟音と地響きに目を剥いた。
ふいに、一つが軌道を外され、飛蓮たちがいる山肌を粉砕する。
目の前ですさまじい崩落が起きた。
「そんな…蓮哥哥さんッ! 雅委…っ!!」
容赦のない冷酷な一撃。
礼寧から悲鳴染みた声が上がる。
梨琥も愕然としたが、すぐに荒々しく舌打ちして、自分たちの最大限の力をもって立ち向かわなければ、押し負ける状況であることを理解した。舐めるなよ。来るだろうとは思っていた。――左蓮…ッ!!
渾身の産霊を練り上げて、梨琥は叫ぶ。
「――疾ッ、磐剣大連山……ッ!!」
轟々と地割れを起こしながら、竹槍の鋭さを持つ巨石群が隆起し、城壁の前を疾風の如く駆け抜けた。




