◍ 予兆がそろう時
同じ頃、路盧に向かう街道では皆が皆、息をひそめて、その物音に耳をすませていた。あと二里ほど歩けば、城門が見えてくる地点だ。
「……地震か?」
「いや、最初の揺れはともかく……」
「……いま聞こえるのは、違うだろ」
地震というよりも、それは地響きに近い。ある一定の間隔で、ゆっくりと重々しく響き渡るその音は、いつの間にか折り重なって聞こえるようになってきていた。
ふと、荷車を支えていた商人は、空を仰いだ。何だか急に、雲行きが怪しくなってきたため、商売に支障はないかと懸念して――
しかし、そんな心配など、次の瞬間には吹き飛んでいた。
「ど……、どうした?」
ガクガクと大口を開けて震えながら後ずさり、せっかく守った積荷に自らぶつかって、商人は尻餅をついた。
彼にならって上空をあおいだ人々は、山の端から現れた信じられない巨体に言葉をなくした。
恐怖で息もできない。足がすくむ。
思わず腰を抜かぬ者もいた。動く山のような、化け亀のような。
目を疑う光景であったが、それは紛れもない……
盤猛鬼人。
「う…うわああああぁぁぁーーーッッっっ!!!」
× × ×
「雅委ッ!」
合図のように礼寧に叫ばれ、すかさず体をこごめた青年の体躯が猛獣の声を上げた。
白銀の狼に変化する。鋭利な爪が備わった前足を踏みこみ、半ばつんのめりがら飛蓮のもとへ駆け寄った。
「ヨマニツキシムカリソレイテ……」
雅委の背中に飛び乗った飛蓮の姿が、白い花びらを吹いて見えなくなる。
「転現」
瞬間、清雅な蓮の香りが弾け散った。幾重にも交差する花弁の鎖を突き破り、中から飛び出してきたのは、手甲や上腕当てなど、武装が増した一瞬前とは違う姿だ。
飛蓮は腰の剣に手をかけ、呼びかける。
「起きろ “銀嶺” ――」
声色がまるで違う。自分に訴えられた気がして、雅委はそぞろ寒いものを感じ、思わず笑ってしまった。
まさに戦闘態勢だが、飛蓮の右耳と、首の後ろで一つに束ねている髪には涙型の装飾品が光っていて、どこか神聖でもある。
彼は見た目だけで、白獅子に例えられてきたわけではない。萼における希少な馭者。武装神獣軍部の草分けとなった、白神狼よりも格上の、真っ白な神代聖獣を従えてきた血筋と聞いている。
言っておくが、白神狼とてその辺の騎馬とは違う。これほど容易く乗りこなされては、己の価値が軽視されそうで――、しかし雅委は、飛蓮の足にならなっても不服ではない。雑兵では不可能な、神々の世を彷彿とさせる面白い光景を見せてくれそうだからだ。
「久しぶりに大暴れできそうな予感がするなあ…ッ! オイ!!」
× × ×
ずずぅ、と。巨大なすり鉢でも、引いているかのような音がする。
まただ。
「お頭さまも! 早く私の背に……っ!」
無数のカラスが、東の森の先から飛び立つのが見えた。
突然出現した紫紺の山肌から、毒々しい煙が上がっている。
半ば引き攣った声で礼寧は繰り返し叫ぶが、燦寿は応じれないほど目を見開いて戦慄していた。
「あれは…っ」
× × ×
「中枢ッ! 中枢はいずこに…っ!」
「ここだッ! どうした、今の揺れは一体…っ」
物騒な甲冑の音をさせる近衛を率い、通路を闊歩してきた華瓊楽奎王は、ぴたりと足を止めた。
まだ日の高い東の上空を、多い尽くそうとしている巨大な暗色――。
近くの窓枠に飛びつく。
奎王は絶句した。
「あれは…」
「蛞茄蝓です…ッ!!」
「いや、もはやそのような大きさの代物では…っ」
「そんなことは見れば分かるッ!」
李彌殷の警鐘も鳴り始めた。
「ただちに兵をッ! 劉衛軍の火器衛士を燦寿のところに送り込めッ! 路盧の手前で食い止めろッ。早くっ!」
「ちゅ、中枢…っ!」
「なんだッ!」
奎王は衛兵に指さされ、再び窓を振り返って言葉を失った。
秋晴れの青い空に、大蛇のごとくうねる鉛色の雲が――。
「そんな……、まさか……」
東に向けてまっしぐらに移動していく。
その様を開ききった瞳孔に映す奎王の脳裏に、八年前の悪夢が飛来した。
やかましい羽音を伴う、蝗の大群。
だが、今回はただの蝗ではない。一昨日、台求郡の米を食い尽くし、忽然と行方をくらましたという――いや、それ以上の大きさに成長した、化け物級の――
「報告ッ!」
もはやその場の全員が、ただ振り返り、次々と覆いかぶさってくる緊急事態を呆然と受け止めるしかなくなった。
「路盧の南東に、ば…っ、盤猛鬼人が現れたとの情報が…!」
は……? 一体、何がどうなっている。
× × ×
雉鳴谷から獅登山の山道に戻ったところで、逸人はふう、と息をついていた。谷から上がるための急な坂道を往復するのは、さすがにキツイ。だが、ほぼ毎日となれば、むしろ慣れてきた気がする。
“あいつ” も少し鍛えたらいいのに……。
「男のくせに、弱っちいな、まったく」
逸人は得意げに胸を張り、頭に思い浮かべている皐月に言ってやった。と同時に、智津香とのやり取りを思い出した。
*――え……、風邪?
*――ああ。柴が任務でいないから、私が看ていてやることにした
智津香は、薬草の下処理が終わり次第、今日は帰っていいと言ったが――……、逸人はひらめいた。
「そうだ!」
どうせだから、何か美味いものでも差し入れてやろう。道すがら、山菜や野葡萄でも摘んで。それなら――、などという考えが巡るのは、前からさりげなく感謝を示す方法を模索していたからだ。
智津香に雇ってもらってから、毎日が楽しい。肉体労働は楽ではないが、智津香は医者だから、体を壊すような働き方はさせない。子どもだからというわけでもなく、ちゃんと人間扱いしてくれる鬼婆だ。今となっては頂与の屋敷に雇ってもらわないで正解だったと思う。なのに、肝心の皐月には、まだ礼のひとつも言えていない。
逸人はさっそくアケビを見つけて、小さい体を指の先まで精いっぱい伸ばし、摘み取った。
その時、雉のけたたましい鳴き声が耳を突いた。
びくっと振り返って、遠のいていく羽音に耳を澄ませていた時、思わずよろけるほどの地面の揺れに襲われた。
「あ痛…、ててて」
尻もちをついた。ふと見れば、山道の端や周囲の木々に、様々なキノコが生えている。
「ミツマダケだけに、スギヒラダケ……、トウノダケまで」
抜いていい雑草と薬草の違いを教わるがてら、智津香から貪欲に知識を吸収しているため、だいぶキノコにも詳しくなった。
そういえば、キノコの豊作は巨大地震の前触れと聞いたことがある。迷信だと思っていたが、本当だったのだろうか。
智津香の診療所で雑用を任されるようになって数日、時おり雉の鳴き声や羽音を聞いたが、最近はやけに騒がしいと感じることがあった。
鳴雉谷というだけある、と考え、それ以来、気にしなくなっていた。もしや、すべてが同じ類の予兆だったのか――?
「……確か、雉の足は振動に敏感、だったっけ」
嫌な予感がしてきた。早く妹弟たちのところに帰った方がいいかもしれない。
なんとなく駆け足になった逸人だが、すぐに立ち止まることとなった。岐路に差し掛かったそこで、見覚えのある少女がうずくまっているのを見つけたのだ。




