◍ 救世主の休日
「いいか――? これを俺が投げるから、お前らはそれを取りに走る。んで、ちゃんと持って帰ってこれたら、ご褒美にビーフジャーキー一本。OK?」
異国語の連発に、ぽかんとするしかない子どもたちに代わり、女が牙をむいた。
「NOっッ!! それ、野球のボールでしょッ? 普通にキャッチボールでいいじゃんッ。子どもをなんだと思って…、大体ねぇ!」
土手の上から容赦ない叱責が飛ばされる。
耳栓をして顔をしかめていた皐月が視線に気づいたのか、こちらを見た。
女の怒鳴り声を無視して、大きく口を動かし、何かを伝えようとしてくる。
合図を送ってきた。
(……な、なんだ?) 彼のジェスチャーをもっとよく見ようと目を細めた逸人は、次の瞬間ギョッとした。
皐月が大きく振りかぶって投げた。その物体がこちらに――、自分の脳天に迫ってくる。
「うぇっ? うわわわっ、わぁッ‼」
どさっ。
バランスをくずした逸人は、土手から転がり落ちた。
自分の送球の行方をうかがっていた皐月は、逸人が背負っていた籠にボールが吸い込まれた瞬間、口笛を吹いていた。
「さすが俺」
「なにやってんのよバカああッ!」
満帆は慌てて走りだした。籠の大きさと重さにひっくり返った亀状態でもがいている少年は、泣いてはいないようだが、まだ年端も行かぬ子どもである。
「僕! ねぇ僕? ごめんね? 大丈…」
助け起こそうとした時、満帆は思わず目を丸くした。
逸人は反動をつけて自ら跳ね起きると、無言で闘志をみなぎらせて歩みだした。
ズンズンと、大股で一直線に迫ってくるその形相に、ひいなは顔を強張らせる。
「さ…、皐月っ」
ひくっと息を呑んで皐月の腰にしがみつく彼女から、逸人は目線を振り上げた。
「またお前はっッ! いきなり何すん…」
「 “打球” って言葉、知ってる?」
「はあッ⁉」
皐月は川岸に近い方へと歩きだした。途中、横たわっていた流木を拾い、
「このくらいの木の棒で、打ち上げられたり、転がされた球のことなんだけど」
と、説明を付け加える。だが、どうにも子どもたちの反応は薄い。
「知るわけないか……。ま、知ってたとしても? 所詮ガキのお前らじゃ、相手にならないかもな」
「な…っ、なんだよそれ! じゃあ、最初から誘ったりするなよ!」
逸人が来る前から、そこにいた少年の一人が歯を剥いた。どうやら彼らも、この異界人の意味不明な気まぐれに巻き込まれたようだ……。
「まぁ、そうカッカするなって。俺はそれでも少しくらいは、見込みがあると思って誘ったんだ。でも、やっぱり俺には勝てそうにないか」
「な…っ、何をしようってのか知らないけど、オレたちがお前なんかに負けるわけないだろ!」
「知ってるんだぞ! お前、飛叉弥鬼ぃが呼んだ “へっぽこ花人” だろ! 目は黒いし、ろくに戦えないけど、そっくりだって聞いたんだ!」
「へっぽこ……」
「そうだ! お前なんか、へっぽこの! “ポコぽんこつ” だッ!」
ぽこぽ…………。けなされているのに、初めて聞く侮言が新鮮だったのか、皐月は呆然と繰り返したあと笑い出した。
思いの外、ツボに入ってしまったらしい。目元に手をやると肩を震わせる。
子供たちは気色悪い生き物と遭遇したように退いた。
……そう、皐月は変なのだ。少し距離をとった方がいい。
満帆には一人だけ半眼の豆粒少年の顔が、自分と同じように呆れ返っているように見えていた。
「 “逸人” ……と言ってな。皐月の提案で今、診療所の手伝いをしている」
「イツト……?」
風が土手を翔けあがる。
青空をバックにやってきた巨体の同胞から、満帆は再び、その小柄な少年に視線を戻した。
「へぇー。賢い子なんだね」
「賢いが、子どもらしくはないな。甘えることを知らない」
意地っ張りとは違う気骨を持つ逸人について、柴は苦笑気味に語る。
「ただ、無理をしているとか、我慢しているというわけでもなさそうなのだ。人は色々な面を複雑に併せ持っている。自分でもどこに自分の素顔があるのか、どれが本音なのか、分からなくなることがあるだろ?」
二面性を持つ者に、白黒はっきりとした性質を求める人々や世界は、どう見えていると思う――。
「え……?」
意味深に聞こえるのは、柴が逸人ではなく、皐月を見つめているからだ。
「な…っ、なに笑ってんだよ!」
「笑ってんだよ!」
「だよ!」
「だよ!」
つま先立ちして、ひしめき合う子どもたちを前に、皐月はまだ笑っていた。だが今は苦笑気味で――……、伏し目がちな表情が、飛叉弥によく似ている。
「人間の側にも、鬼の側にも――……」
清廉潔白な者、様々なことに手を汚してきた者がいる。
誰が善で、何が悪か、無罪か有罪かをどこで見極めるのか。
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「あれ? お前、ボールは?」
皐月は、逸人を振り返った。逸人はさも迷惑そうな顔をした。
「ぼーる? ボールって、なんのことだよ」
「だから、お前の背中に今、投げてやっただろ?」
もしかして……、
「これのことかー?」
手に取ったそれを突き上げ、柴は声を張った。
投げるよう言われて、思わず難しい顔になる。一度マジマジと見据え、結局、面倒になってでたらめに振りかぶった。
「行くぞ!」
格好だけは一著前だったが、気合が入りすぎたのか、いささか上に飛びすぎた。水色の空に高々と孤を描くボールの行方を、子どもたちの眼差しが追う。
落下地点――、そこにはすでに皐月が向かっていた。やや後退りながら飛び跳ねて、軽々とそれを取ってみせる。
「おぉ……」
「ちなみに、今のがキャッチボール。相手にこの球を受け取ってもらって、それを繰り返していくと、だんだんコントロールってもんがついてくる。練習しろ。ボールはお前たちにやるから」
「えっ!? ホントっ!?」
「その代わり、たまーに俺と遊んでくれる?」
「なんだよお前。友達いねぇのかー?」
「だから今のところ、こうして遊ぶしかない」
言いながら振りかぶった皐月は、逸人が置き去りにしてきた籠の中に、再びボールを投げ入れて見せた。
大したものだ。軽くグラついたが、籠が倒れることはなかった。
「――ところで、お前はどうしてここへ?」
思わず見入っていた満帆は、ハッとした。
柴から投げかけられた疑問の意味が分かって、口を尖らせる。
「仕方がなかったんだよ。だってアイツが…、嘉壱がそのぉ……」
最後は、ほとんど独り言のようだった。うつむく頭を見下ろして、柴はため息をついた。
「……なるほど。お前らしい気の遣い方だ。あいつを取られるのが嫌か」
「ちょ…っ、柴! 変な言い回ししないでよね⁉ 私はただ、取り返しがつかなくなる前にと思っただけで!」
「取り返し?」
オウム返しされた満帆は、じれったい思いに顔を歪める。
嫌な予感がするのだ。
「……何かが、壊れはじめてる」
あの少年が、自分たちに深入りするればするほど、幅を詰めてやる誰かが、窮屈な思いをする。がっちりと組まれて、揺るぎなかったものが崩されて行く。皐月と関わるようになってからというもの、嘉壱は何かと彼を気にかけるようになった。
「単なる焼きもちで済めばいいけど……、嫉妬って妙な方向に結びつかないとも限らないでしょ?」
「啓のことか――?」
確かに、飛叉弥の弟分が嘉壱なら、嘉壱の弟分は啓だろう。なんだかんだ言って兄弟のようにじゃれあっているし、現に二人は切磋琢磨し合ってきた仲だ。
「啓は同じ葎生まれで、生い立ちが似ている嘉壱を信頼してきたからな」
「それが怖いんだよ。傷ついたものは二度と………、元には戻らないじゃん」
私は何か、間違ったことをしているだろうか。嘉壱の代わりを引き受けたのは、皐月との間に入って境界線となるため。守りたい側を守るためだ。
だから、皐月が必要以上に悪く言われていても、知らん顔をするかもしれない――……。
「……卑怯だよね。花人は誤解される辛さも、好き放題言われる悔しさも、痛いほどよく分かってるのに」
我先にと籠の中から回収したボールを取り合い、追いかけっこが始まった。雀の群れが集まったように、賑やかとなった河川敷を眺め、ほっと温まるような安堵感を味わっていることを、柴はもはや否定しようとは思わなかった。
「あまり深く考えずともよいのではないか――?」
苦笑をもらしつつ、踵を返えす。
「まぁ、俺にもまだ、よく分からん部分がある奴だが……」
昔、萼の中枢に関わっていた桐家の者から教えられた。
花人は、神代にまでおよぶ様々な歴史的嘘と真実を抱えている。
史官であり、神官である常葉臣が、そんな自分たちと人間の媒介役として誕生し、使命感を保ち続けてきた一番の理由は、
「ちゃんと知る必要がある―― “知ろう” という気持ちを人に芽生えさせる花人がいるからだ……」
悪人面で、どれほど人の目を欺こうと、どんな誤解を受ける真似をしようと、たとえすべてを語ることがなくとも
“蓮葉の 濁りに染まぬ 心もて――……”
「 “何故か” を探りたくなる。見せる顔が違いすぎるから。その果てに、いつか理解できるかもしれない……」
キラキラと、光を弾く川の淵。
ひいなに花冠を掲げられ、頭を低くして微笑んでいる皐月が別人のようで、自分が知らないその表情を、逸人はまさに、感慨深い思いで見つめていた。
◆ ◇ ◆
〔 読み解き案内人の呟き 〕
“ 蓮葉の 濁りに染まぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく ”
蓮は清らかな心を持ちながら、何故ただの露を玉と見せて、ひとを騙すのか。――という意味の歌。第二幕のタイトル。




