◍ 第一発見者
これは、四ヶ月前のことだ――――。
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キラキラと揺れる天上から、黒い羽が一枚、大きく浮き沈みさせている胸元に舞い降りてくる。
自分が鳥を驚かせるほどの大声を出したことに気づくまで、大分かかった。
「…っ――…」
頭が痛い。
皐月は情けなく震えている右手を持ち上げ、目元を覆った。
夢から覚める直前―― “見ろ” と訴えられた瞬間、まぶたの裏に焼きついた “自分を見据える紫色の瞳” と、万華鏡のように幾重にも交差する “花紋” の残像が、緩慢に回っている。
それはさながら、飛びだす絵本のように展開される不思議な夢で、最奥の闇にはいつも白い衣をまとった青年が佇んでおり、彼は光に背いていた鏡の如く、こちらを向こうとするたび眩い閃光を放つのだ。
肝心の顔が拝めない上、お陰でしばらくは動けそうにない――――。
――――【 悪夢 】――――
皐月は舌打ちした。
「くそ――……」
風が通り過ぎ、さやさやと触れ合っていた木々のお喋りが止んだ頃、ようやく片肘をついて、地べたから上体を起こせるようになった。
頭上で戯れあう幾重もの樹冠の隙間には、透き通った淡い色の空が垣間見える。
随分と爽やかな森だ。適度に明るく、おのずと気持ちが安らいできたが、どうやら頭を打ってしまったらしい。
「っ…、――…」
思考回路を、黒い影のようなものが、サッと断ち切った。
わが身を襲った一連のエピソードが車輪となり、脳裏を巡る速度を上げていく。
岩壁に覆われた道の奥――さらに奥の、濃密な闇に向かって息苦しさが増していき、巻き添えをくって、ともに奈落へと吸いこまれる細かい砂粒の乾いた音が、静止を叫んでいた誰かの声に重なってよみがえった。
*――須藤くん……っッ!!
普段はしどろもどろに萎えていくような喋り方しかできないくせに、耳朶を打ったそれは叱責のようにも聞こえた。
「井上……?」
一緒にいたはずのクラスメイトの名を呟き、辺りを見渡すが返事はない。
八曽木市立北船田高校二年A組、井上健二。
彼と同じクラスに割り振られたがために、始業式の初日から今日まで、最悪な気分が続いている。
皐月は深い草藪に面した洞窟の入り口に倒れていた。
いや、出口かもしれない。似てはいるが、ここは先ほど井上に案内されて訪れたところとは、まったく別の洞門だ。
周囲の森の雰囲気も微妙に違った。きっと、新緑の瑞々しさが眩しく見えるせいだろう。残念ながら、先日の嵐のせいでお花見シーズンは想定よりも早く終わってしまったが、そこかしこの桜の根元には、まだ散り花が雪だまりの如く残っていた
はずだ……。
皐月は冷静になるにつれ、逆に混乱してくる頭の後ろをわしわしと掻きまわす。
巡らせていた視線の先に、どういうわけか、紫色の野藤を絡めている樹木を見つけたのだ。
房同士が喧嘩をして、少し重たそうに揺れている。
ふと、妙な感触がすることに気づき、手を止めた。
頭の中だけでなく、現に何かが首の後ろでこんがらがってきている。
「……。」
嫌な予感がして、恐る恐る腰をひねっていくと、案の定、黒々とした長いものが、背中を覆っているのが見てとれた。
ハッ!! と前に向きなおるや、皐月はすかさず引っ張った襟元から、Tシャツの中をのぞきこんだ。
「っ!?」
顔を跳ねあげると、今度は左右を振り向き、後ろを振り返り――
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「何か探してるみてぇだな……」
灌木の茂りの中から、そんなふうに見て取った二対のどんぐり眼は、チロリと視線を合わせた。
「それにしても、様子がおかしいっスねぇ、兄貴ぃ……」
「相当の勢いで転がり出て来たからな。頭の打ちどころが悪かったのかも…」
「まさか。そんなドジ踏む人じゃないっスよ。相手を誰だと思ってるんスか?」
自分のことでもないのに、なぜか得意げな物言いをされた “兄貴” が舌打ちを返した。
「んなこたー、おめぇに言われなくても分かってんだよぅ。だが、どうも解せねぇ……」
光のこぼれる枝葉の隙間から、もう一度、金色の片目をつむってのぞき見る。
「なんだろうなぁ。ちょっと印象が違う気がぁ~……」
以前、越境人の格好をしてるのを見かけた時は、やはり何を着ても似合うと言うか――……、精悍な男だなと感心した。
「下に穿いてるのは “ジーンズ” だろ? 上着は~…… “パーカー” ってやつか」
派手な装いでないことに変わりはないが、どうも違和感がある。
「でも、あの長い黒髪」
「ああ。間違いねぇとは思うがぁ……」
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「――……?」
皐月はふと、瞬きをした。
気配を感知されたことに気づかぬまま、茂みの中の会話は進む――。
「とにかく、話しかけてみましょうよ!」
「仕方ねぇ。不躾だがぁ、本人だったとしても、即効で平謝りすりゃーなんとか…」
「誰だ?」
「どあああああああァァァァァ……っッッッ!!」
そろって絶叫すると、彼らは隠れていた茂みの葉を突き破った。実は、現状況に陥った時から相当ビビっていたらしい。
その勢いには驚いたが、皐月はすかさず頭上を振り仰いだ。呼びかけた時点で警戒態勢を取っていたにも拘わらず、反応が追い付かなかった。
一瞬焦ったが、とらえた二つの黒い影は、想像していた人型ではなく、なぜか点のように小さかった。光のあふれる木々の梢に近いところから、ゆっくりと弧を描き、めいいっぱい短い手足を広げて降ってくる。
「お許しおおおおおぉぉーーー……ッッッ‼」
見上げていた顔に、迫ってきた一体がバフっ! と音をさせてくっついた。
「お許しおぉ~~~んっッ!」
続けざまにしがみついたもう一体が、ぶら下がるや、激しく足をばたつかせる。
「オイラたち何もしてないでやんすぅ! 殺さないででぇ~~んっ」
「おいッ、こらバカ野郎っ! 俺の背中に鼻水なすりつけんじゃねぇッ!」
「だって兄ぎぃ~~っっ」
「…………。」
得体の知れない二つの毛玉に突然視界を奪われて、それでも微動だにしなかった皐月だが、あまりにうるさいやり取りを聞かされているうちに、だんだんといら立ちを覚え
「おわわ…っ⁉」
仰天して慌てふためく声を黙殺し、わしづかむや、思いっきり振りかぶって
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ぶん投げた二匹の頭部から、シュウシュウと糸のような白煙を上げさせた。
「だ…、大丈夫かー助坊ぉ~……」
「~~……い…、痛いでやんちゅぅー……」
ぶち当たった木の根元までずり落ちてくると、二匹は仲良く大の字にひっくり返った。
「なにお前ら。ネズミ……?」
皐月は尋ねながらも、実はたいして興味がない。爪を立てられていた自分の頬の方が気になる。
「ぅう~っ…、ヒドイじゃないっスか! 花連の旦那あっ!」
すかさず跳ね起きたピンクのネズミが、膝元に駆け寄ってきた。大粒の涙を落とし、他人の手を勝手に持ち上げたかと思うと、瘤をナデナデさせてくる。
「だんな? 旦那ってなに。俺のこと?」
「あんた以外に誰がいるんスよお! 無抵抗なオイラたちを投げ飛ばすなんて、あんまりでやんす…っ!」
「この落とし前、どうつけてくれるつもりでいッ!!」
よたよたしながら、巻き舌気味に詰め寄ってきたブルーのネズミが、最後の一歩を踏みしめて凄んできた。威勢がいいところを見ると、千鳥足なのは瘤の痛みというより、重みのせいだろう。
半眼でじーっと観察し尽くした皐月は、思わず呟いた。
「……ネズミの世界にもいるんだ、不良って…」
「はあァっ⁉」
「そういえば普通じゃありえない毛色だな。染めたの――? なに考えてんのお前ら。これじゃ猫とか鳥に狙ってくれって言ってるような…」
ブルーは次の瞬間、落雷が背筋を駆け抜けたような顔をした。
「な…っ⁉ ああっ、あんた……っ!!」
剥きだされたその目に映る自分の顔を見つめ、皐月は思う。我ながら、静かに地を見下ろす仏像のようだ。
「一体…………どこの “誰” で……?」
眉をしかめるでも、首を傾げるでもなく、平然としていると、とんでもない化け物を見ているようなブルーの方がおかしいとばかり、ピンクのネズミが呆れる。
「 “誰” って兄貴、何すっとぼけたこと言ってるんです? 旦那に笑われちゃうじゃないっスかもぉ~」
「いいからお前は少し黙ってろ…っ! なぁッ、あんたよぉ! どこから来たっ? どうして驚かねぇんだ? オレたちを見て」
「どうしてってぇ……」
しばし間を置いたが、皐月はやはり落ち着き腐った真顔で答えた。
「夢じゃないの? これ―――」




