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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 第二鐘 ◇ 白黒 ――――――
119/194

◍ 紅い瞳、救世主の養父をつきとめる



   *



 ジジっと、油蝉が庭先の木にとまった音がした。


「……これ、どうしますか?」


 一緒に出かけたはずの茉都莉まつりはとえいえば、なんでも、思わぬ人物に出くわしたため、自宅に帰ってしまったとか……。

 我が孫娘ながら勝手にもほどがある。荷物を一人で運んできた健二に、買い物袋を広げて見せられ、玄静げんせいは固まっていた。

 衝撃的中身だ。



「……とりあえず、冷蔵庫にしまうしかない。すまなかったな、井上くん。あとはワシがやっておく」


「じゃあ、僕はこれで…」


 律儀にお辞儀をして帰ろうとする背中を、玄静はなんとなく見つめた。


 萌芽に神主として住まうようになって十数年――……、訪ねてきたのは辻村家の人間以外だと、たったの三人。

 そのうちの一人は、御伽話の世界から抜け出てきた天女のように麗しい、青緑の着物をまとった女性。そして、もう一人は皐月が十歳の時、突然、境内の蓮池にある洞窟から抜け出てきた白髪の青年。

 彼は、蓮壬彪将飛叉弥はすみひゅうじょうひさや――― “花人” だと名乗った。初めて見た時は、色々な意味で呼吸を忘れるほどに驚いた。

 二人はいずれも、皐月の素性を知っていた。三人目のことはよく分からないが、ごく最近現れた金髪の青年花人。

 つまり、まったくの部外者が関わりを持つのは、この井上健二という少年が初めてだ。皐月のクラスメイトで、オカルトマニアであることは聞き及んでいる。どうやら皐月に大層な関心を示しているようだが、果たして本当に、ただ興味があるだけなのか……。



「井上くん」


 玄関の戸口に手をかけた健二は振り返って首をかしげた。

 黙って向かってこられると、何だか緊張する。だが、抱いたどことない不安は、すぐに打ち消された。

 玄静はふと、鬼瓦の相好そうごうを崩した。


「お茶でも飲んでいかんかね」


「お…、お茶……ですか?」


 聞き返すが、返答はもらえない。遠慮を示す隙もなかった。すでにその気でいる玄静が廊下を行くので、健二は再び上がり段に靴をそろえた。


 居間に戻ると、藍染めの暖簾がかかった向こうで、麦茶を注いでいる音がする。冷蔵庫を閉める音もした。

 玄静が暖簾をくぐって出てきた。


「ほれ」


「あ…、ありがとうございます……」


 ガラスコップの麦茶の色も、外の深緑と合わせると、澄んだ濃淡がキラキラと美しい。健二も足を進めて、先に座って待っているかのような玄静の斜め後ろに正座した。


 玄静の肩は丸まっていて、随分とリラックスしているように思える。上目に一瞥して、健二は日に焼けた畳へと視線を戻した。 

 妙な居心地だ。何か喋ったほうがいいだろうか……。

 誰の物でもないこの沈黙をどうするか思案しかけた時、おもむろに背筋を伸ばしながら、玄静が口を開いた。


「井上くんは……」


「は、はいっ?」


 転寝をしていて、先生に一喝された時のようなマヌケな声が出てしまった。

 肩越しに微苦笑を浮かべられた。


「いや…、井上くんはあいつの――……何を見たと言ったかな」


「なに…」


「怖いとは思わなかったか」


「怖い……?」



 はて。あいつとは皐月のことだろう。彼が非科学的現象を起こすところなら見た。だが、 “あれ” は怖かったと記憶に刻まれるような光景ではなかった。


「全然です。むしろ、ものすごく綺麗でしたよ?」


 焼け野原のような空き地に、よくそよぐ美しい花を満開にさせていたのだから――……。

 健二にとって、その時のことと、その後のことは、良い意味で忘れがたい貴重な思い出なのである。

 まぁ、確かに素っ気ないし、容赦のない眼光が飛ばされてくることもあるが、皐月よりも茉都莉のほうが断然怖い


「と――、思いますけどぉ……」


 健二は実の祖父を前に申し訳ない顔をしながら、引きつり気味の笑みで言う。

 反面、胸の中心が曖昧になってくるのが分かる――……。

 皐月に接近できるのは、まだその牙を向けられた事がないからかもしれない。だが、彼はひとより忍耐強い性格だと思う。自慢ではないが、さんざん迷惑顔をされてきたからこそ分かるのだ。怒られたり、殴られる恐怖感を乗り越えなければ向き合えないのは、今のところ茉都莉の方……。  


「はははっ! 井上くんは面白いな」


「そ…、そうですか?」


 健二には玄静の大笑いが大げさに思えた。




     |

     |

     |



 機嫌を良くした玄静は、健二に「よければ昼ご飯もご馳走しよう」と、自ら台所に立った。

 健二はさすがに遠慮気味な態度を示したが、こんな山奥に暮らしているせいか、滅多にない来客との会話が、年寄りには嬉しいのだ。


 茹で上げたそうめんと、お手製の白瓜の漬物、余分に作られてしまった今朝のだし巻き卵をふるまうと、健二は一口目が想像以上に美味しかったらしく、あとは促す必要がなかった。軽快に食べ進める、年相応の普通の少年だ。


 彼と同じように、皐月が関わりを持った人間と触れあいたいと思うことは、いたって普通のこと。ただそれだけで、他人を害そうというつもりはない。今も



 そう。八年前の “あの時” も――……。




「なぁ井上くん、君は…」


 残念ながら、その先の会話は阻まれた。


「ただいまぁ~」


 玄静の言葉を押しのけたのは、玄関の引き戸が開かれる音だった。

 茉都莉の声と同時に、足音が廊下を渡ってくる。長年、一緒に過ごしていれば分かる。戸を開けたのは茉都莉で、家に上がってきたのは別の人物だ。

かなえか……?) いや、それだったら挨拶代わりに、「お父さん生きてるー?」と声をかけてくるはず。

 訝りながら待ち構えていた玄静は、想像もしていなかった長身の黒髪美女が現れたことで、頭の中を真っ白にした。


「……どうも。突然、お邪魔してしまって…」


「あ、井上くんゴメンね…! ケーキしまっておいてくれた!?」


 その背後から、ひょっこりと顔をだした茉都莉に、健二はハッとしてうなずく。


「う…、うん。それよりも辻村さん。なんでこの人が……?」


 麦茶をもう一人分用意しつつ答えようとした茉都莉だが、本人が返答する方が早かった。


「私はここを突き止めるために、越境してきたのよ」


「あ……あんた、もしや…」


 玄静の表情が一変した。それを見て、薫子の顔に視線を戻した健二は


「ぅわあぁ…っ!」


 悲鳴をあげた。彼がこぼした麦茶が、畳上にじわじわと広がる。

 その様子を映している(あか)い瞳は、こうなることを予想していたのか、健二のことなど気にも留めていない。

 両耳がいつの間にか尖り、赤いマネキュアを塗っていたはずの指の爪が黒光りしている。白い半袖シャツを着た左二の腕から、赤黒い桜に似た花模様がにじみあがってくる。いや、今まさに焼き印を押したかのようだ。かすかな火の粉と煙を上げていた。


「……桜源おうげん・りょう薫子かおること申します」


  カタン…


 取り落とした盆が、床の上を転がった。


「うそ……」


「つ……、辻村さん…っ?」


 ゆっくりと踏み出したかと思うと、すがりつくように薫子へ飛びつく。その瞳のルビーのような発色に見入り、茉都莉はかすれた声を漏らした。


「まさか……、どうして薫子さんが」


「やっぱり、あなたは怖がらないのね」


 同じような異色の瞳を――これとは別の七彩目を知っているのだろう。


「なにが夜隠月石セレンディバイドよ。本当は黒くなんかなかったッ。そうでしょ⁉ やっぱりここに住んでいるのよね、彼!」


 須藤皐月――、あの少年は何者なのだ。どういう経緯で、南壽星巉みなみじゅせいざんの世界樹を担うことになった?


「せ、世界樹……?」


 茉都莉は呆然と反復することしかできない。健二には耳馴染みのないワードではなかったが、本物の鬼女を目の当たりにした衝撃に思考を絶たれている。

 


「彼は “足抜き” に当たる花人ですか……」



 白なのか、黒なのか。



「他に訪ねてきた花人は―――?」



 まっすぐに見つめられているのは玄静だ。

 すべては十二年前――、綿雪の降り出した、息も凍るほど寒い蓮池から始まったことは、茉都莉にも分かる。

 玄静は皐月を須藤家の養子にして、もう一人孫ができたようにかわいがってきた。それ以上でも、それ以下でもない



 ―――はずだ。



「おじいちゃん……」



 健二は不安と戸惑いを声に表しながらも、自分よりは冷静であるらしい茉都莉を横目に、あらためて、ただならぬ者たちと関わり合いになったのだということを実感した。


 八曽木市は昔から、怪奇事件が後を絶たない土地だ。市内に無数にある神社仏閣の数だけ縁起が伝え残されていると言っても過言ではなく、住民にも、子供時代の不思議な体験談を有する者が多い。

 しかしまさか、これほどあからさまに出現する人外がいるとは―――。



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