◍ 救世主、子どもには人気
「なあ…」
意を決して口を開いた時には、すでに家を出てから半時ほどが経過していた。
永遠と続く沢沿いの山道。右手の杉林に切れ間はなく、先ほどから通り過ぎても、通り過ぎても、一行に進んでいない気がしている。
「なあ…」
逸人は、なんとも居心地が悪そうに繰り返した。
「何かしゃべらないのかよ」
こそっと問いかけると、相手は視線だけを落としてきた。その目つきと独特の間からは、頼むから俺に話しかけるな……という訴えが読みとれる。
それはいつも通り、末っ子の眞子を背負って洗濯物を干していた時のことだった。彼が訪れたことに最初に気づいたのは、それまで庭先を駆け回っていた捺己たちで、ぱぁっと花が咲いたように笑うと、まっしぐらに突撃していった。
* * *
「わぁ! このあいだのお姉ちゃんだぁ!」
「おねえちゃんだ! おねえちゃんだ!」
皐月はゲ…っと身を引いた。嫌がるような反応を見せると、子どもは案外面白がったりする。
野兎のように逃げる彼を、捺己たちはきゃっきゃと楽しそうに追いかけ回しはじめた。
庭を二、三往復したところでくたびれたらしく、皐月は観念した素振りをして腰を下ろし、順々に迎え入れた。
ドンっ
でんッ
ドスでしっッ!!
ぐふ…。
ちょっとした玉突き事故発生……。
「つかまえたあ~っ!」
「やっぱりお姉ちゃんだあ~っ」
無駄に子どもウケが良いことだけは認めてやろう。逸人は、突き倒された姿を横目に、フンと鼻を鳴らした。
捺己たちはまだ小さいから、分からなくても当然かもしれないが、コイツはそんなにいい奴じゃない。
昨晩――、あの花街から家に逃げ帰った逸人は、待っていたお妙に案の定、泥だらけである理由を尋ねられた。
途中の道で転んだのだと、咄嗟に突いて出た嘘に自信はなかったが、仕事を探しに行って、挙句、無礼打ちになりかけたなんて言うよりは絶対にマシだった。
*――そうかい……
お妙はため息混じりに薄く笑って、気をつけるんだよと竈に向きなおった。
そして逸人はこのすぐ後に、信じられない話を聞かされることになったのである。
|
|
|
「ああー…、うるさい。頼むから、飛んだり跳ねたりしないで。一人ずつ喋ってくれない?」
ぴいちくぱーちくと餌を求める雛鳥のように、子どもたちの主張は絶えない。
こいつが――。
逸人は、辟易している皐月を睨む。
こんな奴がまさか、あの対黒同舟花連の新しい隊長だなんて信じられるか。
実は今、巷でひそかにその噂は広がっている。他国の兵にもかかわらず、華瓊楽奎王から絶大な信頼を得ている萼の猛将――蓮壬彪将飛叉弥に代わり、彼よりもさらに若い青年――いや、少年が新たな隊の顔となるのだと。
だが、逸人はまるで縁のない話だと思っていた。彼ら花人の評判は、良いものばかりではないと聞く。裏切りだとか、結託だとか、その話題になると必ずといって不穏な言葉が飛び交うようだが、とりわけ興味といえるものは湧かなかった。
みんな大人が面白がることで、逸人にはよく分からない。それが、蓋を開けれてみれば、単に摩天からやってきたという物珍しいだけの少年と分かると、興味がなかった分、大した落胆は感じないが、逸人は馬鹿らしいと思わずにはいられなかった――。
「あー…、お願いだから順番に。言いたいことは手を挙げて、もしく一列に並んで……」
皐月はげっそりとやつれた顔で、肩越しに背後を見た。
逸人もそちらが気になっていた。
木に寄りかかり、青年が一人、平然と読書している。
おそらく花人の一人だ。眼鏡をかけていて勉強好きのようだが、鬼の背丈に鋭い眦、刈り上げられた髪が銀色で、なにより態度に情が感じられない。
完全にこっちの世界とは無縁であることを主張している……。
皐月は彼に半眼の眼差しを注ぎ続けている。
どうやらまだ、思い通りに動かせる駒ではないらしい。分かってはいるが、物言いたげな目をせずにはいられないのだろう。
「ねぇ、聞いてる――?」
そんな皐月の意識を引っ張り戻す容赦のない子どもたち。
「痛たたああッ⁉ ちょ…、なに引っ張ってんのそこ。なんで三つ編みしてんのッ?」
たちまち爆笑が起こった。
何がそんなに面白いってんだ……。と、早くも一日分の疲労を覚えたようにしゃがみ込んでいる彼に、逸人は気が進まないながらも歩み寄った。
「……。なんの用だよ」
昨夜のことを根に持っているのがよく分かる声だと、自分でも思った。
しかし、一段とぶっきら棒なご挨拶も、案の定、皐月には効かない。
「ああ、そうだ。お前に用があって来たんだ。てか、ひとまずこれ……、この手どうにかして」
捺己たちを引っ剥がして欲しいとの懇願。
なんだんだよ、まったく~~……。逸人は渋面を作ったが、しばらくして、やるせないため息をついた。




