◍ 盤猛鬼人の痕跡
「男の靴が落ちていたのはここか?」
翌早朝――、柴は案内されてたどり着いた雑木林の中で、片膝をついた。
秋の深まりを教えてくれる白露で、土が冷たく湿っている。
「ええ。どうやら、この木に登ったようです」
言葉とは裏腹に、信じられない、という顔で答えたのは、真っ白な頭巾付きの外套に身を包んだ丸眼鏡の青年だ。
壽星台閣・天外宮の木守神堂司――魯薗。寝癖がそのままの紺色の髪と、不健康な食生活がうかがえる、ひょろっとした痩身が特徴。
いわゆる心霊現象や怪奇として噂される事件は、調伏師の精鋭集団であり、一官庁である天外宮の案件なのに、新人でもない奴が情けない。禁簾※【符が下げられている簾状の規制線】の中には、入るどころか近寄ろうともしないのだった。
「俺ぇ、実は冗談抜きで超ビビりなんですよー。だから、得意なのは調伏じゃなくて、危機察知…」
「だろうな。逃げ腰になってる」
「だってぶっちゃけこれぇ、怪奇現象じゃないしぃ~」
柴が見上げる目の前の大木は、大人三人が腕を広げて、ようよう囲めるくらいの太さ。岩のような巨漢の自分でも、さすがにこの丸太は運び出せないかもしれない。
だが、大きさ以外は “普通の黄葉した楡の木” であった。
「それにぃ、どっちかって言ったら俺ぇ、試験管とか薬研と向き合ってるのが本業でぇ」
魯薗は各分野の研究・人材育成機関がそろった大研院で、呪医学を専攻している。天外宮の木守や土守はとりわけ、呪具、武器、薬草の改良開発にも欠かせない存在なのである。
「柴さんも、 “盤猛” の仕業だと思ってるんでしょ?」
「ああ、おそらくな……」
柴はため息交じりに肯定して立ち上がり、そいつがいたであろう、巨木の樹冠を見上げた。
盤猛は矮躯でも人間の二、三倍はある。花人同様、 “神代の生き残り” と呼ばれる血筋が残っていて、常磐から生ずる鬼の性質上、寿命が非常に長く、稀に四千年前を知る本当の意味での生き残りもいる。
もし、かの大戦を生き抜いた天兵が、今も存在しているなら、体には相当の勲章を負っているだろう。その巨躯ゆえに、彼らも戦場で甚大な破壊力を誇ったが、盤猛族は龍王に加勢した天兵勢力の盾となることに徹し、反勢力にとっては良い標的であった。
夜覇王樹の民は、彼らの屍を踏み越え、越えられなければ世界樹と同様に木っ端微塵とし、神代に血の雨と、弔いの花を降らせたのである。
そして、花人と名を変え、来歴を歪め、栄え始めた人原に、新たな形で根付こうとしてきた。しかし、盤猛族は――……。
時代が進むにつれ、やはり、人と距離を置くようになった。
「雲上の北紫薇ではそう珍しくないんだが、彼らはそもそもが恥ずかしがり屋だ」
「……。」
魯薗は赤らんだ顔を両手で覆って、うつむいている大鬼を想像し、そんなわけないと思った。だが、確かに人口密集地である都に、のこのこやってくるような鬼ではないはずだ。
「砂漠化で森林自体が減ってしまった華瓊楽では、様々な生き物が行き場所を失い、今もさ迷っている……」
「ようするに、人里に降りてきた、化け物級の熊みたいなもんでしょ? この大木を気に入ったんだとしたら、根こそぎ持ち去ったり、枯らしたりして大丈夫ですかねぇ。俺たち、ド突き倒されたりしません?」
魯薗の危機察知センサーは、調子を悪くしているようだ。目覚めはじめた小鳥の羽ばたきにすら過剰反応を示す反面、盤猛への偏見を丸出しにしている自分が少し嫌で、多少堪えているらしい。
柴は苦笑した。
“桐峰” の姓は後付け。 “柴” と名付けられた方が先で、理由は最初に与えられた務めが、山での柴刈りだったからだ。赤銅色の乱髪と肌色をさらして歩いていたため、垢男などと罵られ、投石を食らったこともある。夜覇王樹壺の花人になる前は、自分も盤猛と同じような目で見られていた――……。
「盤猛鬼人は馬鹿じゃない。巨木騒ぎに興味を持って山を下りてきたのかもしれないが、この木が毒されていることに気づいた可能性もある。もしそうであれば、俺たちが横取りしても、始末してしまっても、怒りを買うことはないだろう」
「じゃあ、行方不明になった顧元という男の靴が、ここに落ちていた理由はどう説明します?」
昨晩、帰宅しないことを心配して、捜しに出た妻がこの巨樹と顧元の靴を発見し、警軍に報せた。警軍も、盤猛が関与していることは間違いないと見ている。
「どこから来たかは分かりませんが、最近、田畑の作物目当てで現れるようになったそうです。足跡の特徴がすべて同じなので、おそらくは単独。とりあえず、農夫らには遭遇しても刺激しないよう、注意を促していたみたいですけど……」
害すれば、害される。どんな生き物とてそうだ。
むしろ、顧元の場合は、一方的に襲われたと考える方が自然。盤猛族は、ある種の霊域を作り出し、幻を見せる。そうして宝を守っている場合もあれば、宝があると見せて、人間をおびき寄せ、喰らうという場合も―――。当代は、後者の割合のほうが多いかもしれない。
「砂漠化直後にも、よくありましたよねぇ。今回は、 “ケリゼアンによる土壌汚染問題” が原因ってことですよ。自活が制限されている山岳地帯から来たのかも。野山で口にするものに異常を感じ取るようになって、仕方なく都市近郊の人里を狩場に……」
柴もそう考え、注意するに越したことはないと思っている。だが、医学分野などの研究や犯罪捜査において、思い込みは禁物である。
「魯薗、お前は他人の大事な物を奪って、幸せになっている奴がいるとしたら……、どう思う」
突飛な質問だ。と、いぶかしげに眉根を寄せつつ、魯薗は上目に想像してみた。
「そりゃあ……、道理に合わないと思いますけど」
「略奪によって幸せを堪能しているのが、神や、恐ろしい鬼神であっても――?」
むしろ、自分と同じ人間であったとしても非難できるか。
「御伽話の最後に、宝を持ち帰ったそいつが皆から英雄視されようと、お前は迎合せず声を張って盗人だと指摘できるか」
「ー……。声を張る度胸はないですけど、「間違ってると思いまー…す」くらいの小声は発します。あと、嫌悪感も一応抱きます」
「ならいい。豆にこつこつ勉強して、働いて、お前は家族のために長生きする人間になれ」
「は……?」
「この世の中に、そう都合良く行く話があっては堪らん、ということだ。誤魔化したり背伸びをすれば、その分弊害が生じる」
人も木も、こんなふうに、一息には大きくならないのが普通なのだから―――。
◆ ◇ ◆
〔 読み解き案内人の呟き 〕
【 楡の木 】とは……
様々な神話に登場します。
冥界の門にある木という一面から、
怖い夢、体験と結び付けられることも。
樹皮の内側に粘り気があり、ヌルヌルと滑りやすいため、
「滑れ」が転じて「ニレ」になったとか。




