◍ 宝と天梯……『呉剛伐桂 | ○○と〇の木』
ほろ酔い気分で足取り軽く、顧元という男が家に帰ろうとしている。
城外だが、翠天平から舟を利用したため、あとは一部落ほど歩くだけ。
奇樹が生えた岩山が多い地帯で、秋の夜長に散歩する風情も悪くない。
遥か頭上の月が澄んでいるせいか、いつもより、着生している老松の影絵がくっきりと見える。
数日前、宵瑯閣で舞っていた紗雲という舞妓の姿が思い出されてきた。
まさに山月が似合う天女。月下に香る妙花の如き美貌であった。
「今日は拝めなかったが……、どうしたのだろうな。本当に雲間の月のような娘だ」
月には各国、様々な伝説があるという。月の世界の住民についてだけでも、水を汲む女だとか、美男だとか、蛙だとか蟹だとか兎だなどと伝えられており、顧元が聞かされて育ったのは『呉剛伐桂』だった。
月に万能薬となる桂の巨木が植わっていると知った男が、病の母親のため、それを取りに行く話。
彼はいざその木に登ると、力いっぱい揺すった。疫病に苦しむ人々のためにもなるよう、たくさんの花を降らせたそうな。
その小花は、金星の如くきらめきながら地上の川面に落ち、九里にも渡って甘く香り、延々と流れた。
万民を思うがゆえの行いとはいえ、これは神の所有物を奪うという大罪に当たる―――。
なぜか、そんなことを思い出しながら歩いていた顧元は、ふと足を止めた。
「なっ? なんだ、あれ……」
思わず目を疑った。幻覚を見るほど酔ってはいないと思うのだが、雑木林の中から、化け物じみた木が夜空に突き出ている。
そういえば、四ヶ月前に鳥妖の襲撃を受けた畝閏の近辺で、異様な巨木が発見される怪異が相次いでいるとか。
噂好きの妻から一方的に聞かされた話では、果実を鈴なりにさせている木もあり、人々がこぞって持ち帰ろうとしたところ、台閣の役人が駆けつけ、根こそぎ持って行ってしまったらしい。
「これは……、なんの木だろうなぁ」
草藪に分け入り、歩み寄ると、身の丈の十倍以上ある。樹皮が夜目にも白く、確かに異様だ。
葉が肉厚で丸く、霧状に見える幻想的な薄桃色の小花が咲き乱れている様は、金の生る木―――花月に似ている。
昼間はこんな木など目につかなかった。手が届く下枝から、さらに視線を上げ、顧元は一気に夢心地となった。
星空を垣間見せる樹冠の美しさもさることながら、こぶし大の立派な実が、視界いっぱいに艶めいているのだ。
普通の植物は、花が散ったあと結実する。実も同時に観賞できるとは、まさかである。しかも、砂金混じりの瑠璃の実――。
「ははっ、嘘だろっ!? 七宝樹が、なんでこんなところに…!」
各部位が鉱石化する霊樹は、特別な土壌にしか存在しない。謎の巨木騒ぎを調べている、台閣の大研院や神堂司らの中に、対黒同舟の花人がいたらしいが、見慣れているとすれば、彼らのような “まほろば” とされる国の住民だけだ。
頭では分かっている。現実には考えられないと。だが、顧元はどうしたことか、夢中で目の前の樹皮を撫でまわし、「よし」と意気込んで飛びついた。
木登りは苦手である。少年時代に骨折を経験して以来、むしろトラウマとなっているはずなのに、不思議と体が軽い。
瑠璃の実を一つ、二つ三つ四つ。懐に押し込む。もっともっと高く、どうせなら天辺まで登ってやろうという気になった。
「っ…?」
が――、顧元に後悔する時が訪れた。
残すはあと三分の一というところで、直視してはならないと分かるものが、自分の真横にパッと現れたのだ。
いや、最初からそこに顕現していたのに、気づかなかっただけかもしれない。顧元の体一つ分と変わらない太さの脹脛が垂れていた。
左上の枝に腰掛け、片胡坐をかいているらしい。そいつを見上げてはならないと直感した瞬間、顧元は自分が体験している夢のような出来事が、子どものころに聞いた御伽話の一つと重なることに気づいた。
*――そいつは、とにかく巨木を探し回る。自分の隠れ家にするためさ
花を飾り、八雲をなし、まるで御殿のようにしつらえて遊ぶ。
そして、古に思い描いた、戦友たちとの夢に浸るんだ。
*――哀れ、哀れ……
囲炉裏の炭が爆ぜた音を聞いた気がした。
何十年も前に死んだお婆の語り口調を鮮明に思い出しつつ、震えと冷や汗で手を滑らせた顧元が最後に見たのは
月光に照らし出されていく、焼けただれたように醜い、大鬼の半顔だった。
【 七重宝樹 】とは……
黄金の根、紫金の茎、白銀の枝、瑪瑙の条、
珊瑚の葉、白玉の花、真珠の果実からなる宝の樹。
または、楽園にあるという七重に並んでいる七種の宝樹。




