◍ 漕ぎ出す動きあり
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沈黙している闇―――。風が吹く気配すらないその中で、幻想的な緑光ではない、蛍火が漂っている。
赤い。では、黄泉路蜻蛉か。
否――。
「……シュルサンガバルニラン、シルザンジマ、スムラウン」
詠唱が、だんだんと速まるにつれ、人魂が生きているかのように大きく、そして鮮やかに成長し、素早さを増して行く。
ぼわっと術者の指先を追って、膨れ上がった。地に四散した火の粉。それに照らし出され、現われたのは、洞窟内の辺り一面を埋め尽くす紫色をした無数の丸い物体だ。
岩上にいる術者の痩身を取り囲んで、ひっそりと―――しかし、明らかな意欲をたぎらせ、蠢いている。
「いやぁ、壮観ですねぇ! あらためて、研究の成果を実感できればと思ったのですが、想像していた以上に素晴らしい」
浮遊する篝火を召喚し終えた左蓮は、背後の相手とは対照的に冷めた目をしていた。
本性が夜叉である花人は暗視に長けているが、こいつは明かりがなければ夜道もまともに歩けない。計画の進行状況をうかがいに来たと言うので、仕方なく見せてやった次第だ。
「自画自賛ばかりだな、貴様は」
「せめて、宋愷という名前で呼んで下さいよ。あなたは見たままの事実を、もっと素直に受け入れるべきだ。これだけ増殖させられたのは、例の薬が効いているからに他なりません。どうです」
左蓮は無視した。答えてやる必要などない。宋愷は確信している。ただ、それを他人に言わせて、褒められた気になりたいだけである。
こいつの夢は、賞賛を浴びること。つまりは、そうした喜びに飢えている。
相変わらず外套の頭巾を目深に被っていて、うつむき加減だ。しかし、闇と炎が、日の下では曖昧な彼の特徴をいくつか浮き立たせている。
くっきりと影を落とす窪んだ眼窩。そこに、狂気じみた光が爛々と踊っていた。隙間が目立つ歯並びからして、随分な年寄りのようだが、仙人にはなりきれていない齢と見ている。
いずれにしろ、外套の下は、半端な魔物より異様に違いない―――。
「そっちは、随分と大胆に漕ぎ出したそうだな。いささか露骨すぎやしないか?」
「心配には及びませんよ。 “あの病” をかつて以上に広めることが、私にとっての締めなのですから」
舟はついに終着地目前。暗渠のドブ鼠のように、こそこそと気を遣って動く必要も、もうない。
「すべては黒同舟の傘下となれたお陰。いよいよ、夢にまで見た瞬間にたどり着くことが出来る」
クツクツと笑って、木の枝のような両手を天にかかげる宋愷に、左蓮は鼻を鳴らした。
「どうでもいいが、この前も言ったはずだ。あくまでも同胞だと主張するなら、私の周辺を嗅ぎまわるような真似は止めてもらおう」
「失礼……。ですが、どうにも人間は、学ばぬ生き物でして」
「人間? ははッ! 笑わせるな。薬におぼれ、人知を侵し、挙句の果てには、朽ちかけの体で動き回っている盲鬼のような “久施安教祖” のお前が、人間を名乗るなど…」
宋愷は不気味に沈黙した。
長引くほど重苦しくなるその間は、禁句を発した左蓮をにらみ据えていることを示すものだった。
対する左蓮は、うっかり口を滑らせたわけではない。それを誇示するように、堂々と腕を組んで見せている。
宋愷は自嘲をこぼした。
「心外ですね……。でも、さすがです。こうして全身を包み隠していても、あなたには、やはり知られていたわけですか」
細いあごの下に手を伸ばすと、頭巾の紐を解く。
「この顔を人目に晒すのは、何年ぶりでしょう……」
現われたのは、人間とも人外とも言えない、さながら髑髏の容貌だった。
白粉のような粉まみれで、頭髪が襟足にしか残っていない。額や頬は化膿しており、青カビも同然の異色を帯びている。今にも蛆が湧き出してきそうだ。
「……大したご面相だな」
「それはどうも……。ですが、 “人にして人にあらざる者” とされてきた元花人である貴方も、所詮は私と同類でしょう。この化錯界にありながら、我々のような種は、なかなか化われない。私もこう見えて、昔と何一つ変わっていないのですよ?」
夢の万能薬完成に希望を抱き、共に研鑽を積んだかつての同士も、会ったらきっと、しみじみそう感じてくれる。
「まぁ、私が屍同然でも、こうして生きながらえている以上、再会は叶いませんがね」
「お前のその薄ら笑いを二度と見ないで済むなら、私は地獄の住民となろうとも本望だな。再びこの世に生まれ落ちるのも御免だ」
「そうですか。だとしたら、かわいそうですねぇ。花人は使命を果たさぬ限り、また花人として、萼の地に生を受けるのでしょ? 来世でも、避けられないんじゃありませんか? 私のことはともかく……」
心から愛した
触れるのも躊躇われるほど、白く穢れない相手が
「相変わらず、あなたを待っている展開―――」
刹那、風の飛刀が首筋を掻き切った、―――気がした。
花のようにしか生きられない定めであったとはいえ、左蓮は感情を欠落させた部類ではない。足枷から解かれた今はむしろ、本質たる夜叉の性格しか、持ち合わせていないと考えるべきか。
何も言われていないのに、凄まじい咆哮を食らった余韻を感じながら、宋愷は大人しく、ゆっくりと諸手を挙げた。
「……すみません。あたなには、冗談でも、言っていいことと悪いことがあるのを忘れていました。さぁさぁ、もう私には構わなくて結構ですから、早く準備を整えてください。欲を言えば、もう少し薬の効きが早い方がいいでしょう」
左蓮の周りで蠢いている紫紺の海月たちは、一週間も世話をしてやったのに、大きくとも、せいぜい豚か、子牛程度にしか肥大化していない。増やすだけでなく、肥やさなければならないはずだ。
「制御不能になる可能性は否めませんが、それでも構わなければ、特別に、薄めていない原液をさしあげますよ」
「……」
左蓮は、最後まで宋愷をにらんでいた。ふいに背を向けると、洞窟のさらに奥へと踏み入っていく。
その後をついていく、嬉々とした海月状の生き物。そいつらが這い回った箇所には、どろりと腐敗した草木や、動物の皮、骨が残されている。
「…………女狐が」
宋愷は聞こえないだろう距離ができてから、舌打ちした。
一度くらい痛い目に遭わせてやりたいのだが、彼女に手を出せば “あの御方” が黙ってはいない。
それにしても何故、わざわざ、萼の花人であった女を同じ舟に乗せることにしたのか。
十二年前、国と同胞を裏切った証として、彼女はいざす貝を黒同舟に献上し、信用を得た。だが、それまでの過程を、宋愷はよく知らない。おそらく、黒同舟の誰に聞いても詳しくは分からない。
まあ、いい。お手並み拝見といこう。もし今回のことが上手くいけば、近く “かの少年” の正体に、確信を得ることが出来る。
「……しかし、考えたな。暗婁森の湖虞霊を上回る化け物を生み出そうとは」
面白い。時期にやってくるだろう、その瞬間が楽しみだ。
宋愷は、赤く熟れた果実のような歯茎で嗤った。




