◍ 豆粒少年、ビンタ食らう
「余計なことするな、このオカマ野郎っ! 放せッ、放せよ…っ!」
逸人は首根っこを掴んでいる手を振り解こうと、宙に浮いた両手足をばたつかせていた。
人通りのない脇道まで連れ込まれる。放たれるや否や、猫のように歯を剥いた。
「俺は助けてくれだなんて一言も…っ」
ぱしっ、
乾いた音が走った。
通りの賑やかな笑い声を遮るように立ちはだかった相手が、大儀そうに片膝をつく。逸人は叩かれた頬を押さえて、目線を合わせてくる彼を呆然と見つめた。
後についてきた嘉壱も、これには目が覚めるような衝撃を食らっていた。手の平ではなく指の背で、ハエでも払うかの如く、皐月は無造作に子どもの頬を叩いた。
そこに特別な感情なんてものはうかがえない。ただ腰を下ろすついで―――とでも言うような動作であった。
逸人は初めこそ呆けていたが、次第に奥歯を噛みしめる力を強くしていった。
「なにすんだよ…っッ!!」
「なにしてんだよ、こんな所で―――」
険しい顔をされているわけではないが、声が冷たい。
逸人は悔しさを抱えて押し黙る。頬が、脈動に似た痛みを訴えてくる。
ふと足音が聞こえてきて、嘉壱は「?」と怪しむ目を背後に向けた。
「――おお、やってるな。借金苦の最中で知り合った者同士、仲の良いことだ」
「ちゅ…、中枢っ!?」
どう見ても険悪な雰囲気のところへ、あごの無精ひげを摩りながらやってきた暇人飲み師は、慌てふためく嘉壱に眉をムッとさせた。
「巷では “武尊” と呼べと再三申しているだろうに。お前も覚えん奴だなぁ」
「す…、すみません。まさか、翠天平にお越しとは…」
「いや、それよりも、あの逸人という少年。何故こんな所に?」
「いつと……?」
いまいち鈍い嘉壱の反応に、武尊はきょとんとした。
「なんだお前、何も聞かされていないのか」
「は?」
武尊は呆れたと言わんばかりにため息をついた。まぁ、仕方がないといえば仕方がない。
「だから程ほどにしろと忠告してやっているのに。あの石頭が…」
「い、石…?」
「お前たちの大将のことよ。この間から奴らしくない失態が続いている。気になってな。ちと息抜きをさせてやろうと、ひそかに燦寿と謀ってみたのだが……」
如何せん、あの男も堅気というか、なんというか……。先日のことを思い起こし、武尊は小難しそうに襟足をカリカリと掻いた。
それは、燦寿の強靭な脚力を借りて、飛叉弥を宵瑯閣に連れ込むまでに交わしたやり取り。面白いものを見つけた。きっとお前も興味がわくだろうと、誘い出す口実はざっとこんなもんだった。
* * *
「悪いが俺は忙しいんだッ!」
「お主は散歩をこばむ犬かッ!」
老人らしからぬ力で、ぐいぐいと腕を引っ張る燦寿を、飛叉弥は本当に嫌がっていた……。
「大きなお世話だサラヒゲ爺ッ! そこの暇人飲師も、余計な気遣いは無用だと言ってるだ、ろうッ!!」
渾身の力で燦寿の腕を振りほどいた飛叉弥だったが、勢いあまって後ろにバランスを崩した。
「い…っ⁉」
「あわわわっ!」
思いがけず一緒になって声をあげたのは、荷車を引いて通りかかった老父だった。
飛叉弥は見事に尻もちをついて、彼が運んできた藁を空に撒き散らした。
「お…っ、お怪我はございませんか!?」
「――てて…。ああ、すまない大丈夫だ。俺がやる」
老父がすかさず腰を折ろうとしたのを制して、飛叉弥は自ら荷車の周りの藁をかき集めた。
「何をやっとるんじゃ、まったく。本当に大丈夫か」
呆れ半分、燦寿が本気で心配顔になった。その横から、武尊はため息交じりに歩み寄ろうとした。
「飛叉弥…」
「なんともない」
物言いだげな眼差しを感じたからだろう。渋い顔で遮るように言う飛叉弥に、武尊はしかし、その厳しくも労わるような眼差しを向け続けた。
「お前のことだから、自覚はしていると思うがな…、またいつぞやのように、一人で何もかも背負い込んでおると、反って周りに迷惑をかけることになるだろう?」
誰も、そこまで身を粉にしろとは言っていない。急かしてもいない。少なくとも俺は、一度としてお前を責めた覚えはないし、何一つ疑ってもいないぞ。
いちいち他の一方的な主張を受け止めていては、お前たちの身が持たない。
「違うか――? 言いたい奴には、言わせておけ。どんな誤解が生じようとも、 “真実は逃げず、そして変わらず” ……」
「 “隠れはしても、決して失せぬもの” ――……、だろ?」
飛叉弥は鬱陶しそうに、武尊を一睨みして後ろ髪をわしゃわしゃと掻き回した。
「それとも何か? お主は、味方が我らでは不満とな――?」
燦寿が止めのように微苦笑を滲ませると、飛叉弥はよほどばつが悪かったのか、何も言わずに衣の土埃をはたき、スタスタと歩き出した。萌神荘へ帰る道の方へ……。
「コラあああっッ!」
* * *
「……どうだ嘉壱。お前からも言ってやってくれないか。ストロスはいかん、ストロスは。どんな病を引き起こすか知れないと聞いた」
「 “ストレス” っすね、たぶん……」
「ああ、そうだ。ストラスだ」
「や、ですからスト…」
嘉壱は残りの言葉をため息に変えた。(聞いちゃいねーな、この人……)
武尊は前方の舞妓の背を見つめて、さきほどから悩ましげな顔をしている。
いい加減、逸人の方は泣きだしそうな目をしているが、皐月の態度が和らぐ様子は一向に見られない。
「何しに来たって聞いてるだろ……」
発せられる一言一言が重く圧し掛かる。逸人にしてみれば、ひたすら黙っているしか、抵抗する術がない状態が続いていた。
もう限界が近い。皐月が沈黙すると、ただでさえ心細い胸の内に、孤独感ばかりが膨らんでくる。逸人は必死で引き結んでいた唇を歪める。
「……にだよ」
「なに?」
震える拳を握りしめ、逸人は泣き叫びたい衝動を、なんとか怒りの咆哮に替えた。
「仕事を探しにきたんだよ…ッ‼」
今朝、お妙は医者の言った通り目を覚ました。だが、それからまたすぐ起き上がって、働きにいくだなんて言い出して。
「オレ、いても立ってもいられなくて…っ! それで、ちょっとでも金を稼げたら、母ちゃん楽になるんじゃないかと思って、だから…っ」
「バカかお前―――」
皐月は不快なものでも目にしたように、眉をひそめた。
「え……」
逸人の思考は文字通り固まった。音もなく、疾風のように素早い何かで斬りつけられた心が、痛みを訴えはじめる。
さきほどの頂与とかいう男と似ているようだが、憫笑が混じっていない分、その眼差しは冷酷だった。
胸の真ん中にジワジワと滲みだした嫌な感覚も、怒りというより、何故だか悲しみに近い。
「ば……バカって、オレはただ…」
「豆粒のお前にできる仕事なんてない。さっきので思い知っただろ」
分かったらさっさと家に帰って、下の弟妹たちのお守りでもしていろ。皐月は止めの一言を吐きつけた。
「そっちのほうが、よっぽどマシな仕事だ―――」
漆黒の瞳の奥に、抗えない人格がのぞいている。厳かで揺るぎ難い、鉄壁のような事実そのものと言っていい。
逸人は下唇を噛みしめた。
「……お前が “埋もれてちゃいけない” って言ったんじゃないか……」
見開いた目の中いっぱいに熱いものが溜まってきていた。
まずい――。何処かで何かが、引き千切れようとしている。
喉元が苦しい。体が熱い。
「なんで俺が打たれなきゃならないんだよ。悪いのは…っ、どう見たってあいつらの方だろッ!?」
俺が何したってんだ。そう―――。
「何も知らないくせにッッ―――…っ!!」
逸人は叫び終わらないうちに、思いっきり地面を蹴った。
あっという間に路地を抜け、歓楽街を行き交う大人たちの影絵に溶け込んでしまった姿から、嘉壱は手前に視線を戻した。
「……皐月」
なんとなく気遣った方がいい気がした。
声をかけなければ、いつまでも立ち上がりそうになく見えたのだが、一泊して、彼は案外何事も無かったかのように膝を押し、普通に歩いて戻ってきた。




