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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 第一鐘 ◇ 務め ――――――
103/194

◍ 豆粒少年、ビンタ食らう


「余計なことするな、このオカマ野郎っ! 放せッ、放せよ…っ!」


 逸人いつとは首根っこを掴んでいる手を振り解こうと、宙に浮いた両手足をばたつかせていた。

 人通りのない脇道まで連れ込まれる。放たれるや否や、猫のように歯を剥いた。


「俺は助けてくれだなんて一言も…っ」


  ぱしっ、


 乾いた音が走った。

 通りの賑やかな笑い声を遮るように立ちはだかった相手が、大儀そうに片膝をつく。逸人は叩かれた頬を押さえて、目線を合わせてくる彼を呆然と見つめた。


 後についてきた嘉壱も、これには目が覚めるような衝撃を食らっていた。手の平ではなく指の背で、ハエでも払うかの如く、皐月は無造作に子どもの頬を叩いた。

 そこに特別な感情なんてものはうかがえない。ただ腰を下ろすついで―――とでも言うような動作であった。


 逸人は初めこそほうけていたが、次第に奥歯を噛みしめる力を強くしていった。


「なにすんだよ…っッ!!」


「なにしてんだよ、こんな所で―――」


 険しい顔をされているわけではないが、声が冷たい。

 逸人は悔しさを抱えて押し黙る。頬が、脈動に似た痛みを訴えてくる。


 ふと足音が聞こえてきて、嘉壱は「?」と怪しむ目を背後に向けた。


「――おお、やってるな。借金苦の最中で知り合った者同士、仲の良いことだ」


「ちゅ…、中枢っ!?」


 どう見ても険悪な雰囲気のところへ、あごの無精ひげを摩りながらやってきた暇人飲み師は、慌てふためく嘉壱に眉をムッとさせた。


(ここ)では “武尊(ほたか)” と呼べと再三申しているだろうに。お前も覚えん奴だなぁ」


「す…、すみません。まさか、翠天平すいてんびょうにお越しとは…」


「いや、それよりも、あの逸人という少年。何故こんな所に?」


「いつと……?」


 いまいち鈍い嘉壱の反応に、武尊はきょとんとした。


「なんだお前、何も聞かされていないのか」


「は?」


 武尊は呆れたと言わんばかりにため息をついた。まぁ、仕方がないといえば仕方がない。


「だから程ほどにしろと忠告してやっているのに。あの石頭が…」


「い、石…?」


「お前たちの大将のことよ。この間から奴らしくない失態が続いている。気になってな。ちと息抜きをさせてやろうと、ひそかに燦寿と謀ってみたのだが……」


 如何いかんせん、あの男も堅気というか、なんというか……。先日のことを思い起こし、武尊は小難しそうに襟足をカリカリと掻いた。

 それは、燦寿の強靭な脚力を借りて、飛叉弥を宵瑯閣しょうろうかくに連れ込むまでに交わしたやり取り。面白いものを見つけた。きっとお前も興味がわくだろうと、誘い出す口実はざっとこんなもんだった。

 



   *    *    *




「悪いが俺は忙しいんだッ!」


「お主は散歩をこばむ犬かッ!」


 老人らしからぬ力で、ぐいぐいと腕を引っ張る燦寿を、飛叉弥は本当に嫌がっていた……。


「大きなお世話だサラヒゲ爺ッ! そこの暇人飲師も、余計な気遣いは無用だと言ってるだ、ろうッ!!」


 渾身の力で燦寿の腕を振りほどいた飛叉弥だったが、勢いあまって後ろにバランスを崩した。


「い…っ⁉」


「あわわわっ!」


 思いがけず一緒になって声をあげたのは、荷車を引いて通りかかった老父だった。

 飛叉弥は見事に尻もちをついて、彼が運んできた藁を空に撒き散らした。


「お…っ、お怪我はございませんか!?」


「――てて…。ああ、すまない大丈夫だ。俺がやる」


 老父がすかさず腰を折ろうとしたのを制して、飛叉弥は自ら荷車の周りの藁をかき集めた。


「何をやっとるんじゃ、まったく。本当に大丈夫か」


 呆れ半分、燦寿が本気で心配顔になった。その横から、武尊はため息交じりに歩み寄ろうとした。


「飛叉弥…」


「なんともない」


 物言いだげな眼差しを感じたからだろう。渋い顔で遮るように言う飛叉弥に、武尊はしかし、その厳しくも労わるような眼差しを向け続けた。


「お前のことだから、自覚はしていると思うがな…、またいつぞやのように、一人で何もかも背負い込んでおると、反って周りに迷惑をかけることになるだろう?」


 誰も、そこまで身を粉にしろとは言っていない。急かしてもいない。少なくとも俺は、一度としてお前を責めた覚えはないし、何一つ疑ってもいないぞ。

 いちいち他の一方的な主張を受け止めていては、お前たちの身が持たない。


「違うか――? 言いたい奴には、言わせておけ。どんな誤解が生じようとも、 “真実は逃げず、そして変わらず” ……」



「 “隠れはしても、決して失せぬもの” ――……、だろ?」



 飛叉弥は鬱陶しそうに、武尊を一睨みして後ろ髪をわしゃわしゃと掻き回した。


「それとも何か? お主は、味方が我らでは不満とな――?」


 燦寿が止めのように微苦笑を滲ませると、飛叉弥はよほどばつが悪かったのか、何も言わずに衣の土埃をはたき、スタスタと歩き出した。萌神荘へ帰る道の方へ……。


「コラあああっッ!」 




   *    *    *




「……どうだ嘉壱。お前からも言ってやってくれないか。スト()スはいかん、スト()スは。どんな病を引き起こすか知れないと聞いた」


「 “スト()ス” っすね、たぶん……」


「ああ、そうだ。スト()スだ」


「や、ですからスト…」


 嘉壱は残りの言葉をため息に変えた。(聞いちゃいねーな、この人……)

 武尊は前方の舞妓ぶぎの背を見つめて、さきほどから悩ましげな顔をしている。

 いい加減、逸人の方は泣きだしそうな目をしているが、皐月の態度が和らぐ様子は一向に見られない。


「何しに来たって聞いてるだろ……」


 発せられる一言一言が重く圧し掛かる。逸人にしてみれば、ひたすら黙っているしか、抵抗する術がない状態が続いていた。


 もう限界が近い。皐月が沈黙すると、ただでさえ心細い胸の内に、孤独感ばかりが膨らんでくる。逸人は必死で引き結んでいた唇を歪める。


「……にだよ」


「なに?」


 震える拳を握りしめ、逸人は泣き叫びたい衝動を、なんとか怒りの咆哮に替えた。


「仕事を探しにきたんだよ…ッ‼」


 今朝、お妙は医者の言った通り目を覚ました。だが、それからまたすぐ起き上がって、働きにいくだなんて言い出して。


「オレ、いても立ってもいられなくて…っ! それで、ちょっとでも金を稼げたら、母ちゃん楽になるんじゃないかと思って、だから…っ」


「バカかお前―――」


 皐月は不快なものでも目にしたように、眉をひそめた。


「え……」


 逸人の思考は文字通り固まった。音もなく、疾風のように素早い何かで斬りつけられた心が、痛みを訴えはじめる。

 さきほどの頂与とかいう男と似ているようだが、憫笑が混じっていない分、その眼差しは冷酷だった。

 胸の真ん中にジワジワと滲みだした嫌な感覚も、怒りというより、何故だか悲しみに近い。


「ば……バカって、オレはただ…」 


「豆粒のお前にできる仕事なんてない。さっきので思い知っただろ」


 分かったらさっさと家に帰って、下の弟妹たちのお守りでもしていろ。皐月は止めの一言を吐きつけた。



「そっちのほうが、よっぽどマシな仕事だ―――」



 漆黒の瞳の奥に、抗えない人格がのぞいている。厳かで揺るぎ難い、鉄壁のような事実そのものと言っていい。

 逸人は下唇を噛みしめた。


「……お前が “埋もれてちゃいけない” って言ったんじゃないか……」


 見開いた目の中いっぱいに熱いものが溜まってきていた。

 まずい――。何処かで何かが、引き千切れようとしている。

 喉元が苦しい。体が熱い。


「なんで俺がたれなきゃならないんだよ。悪いのは…っ、どう見たってあいつらの方だろッ!?」


 俺が何したってんだ。そう―――。




「何も知らないくせにッッ―――…っ!!」




 逸人は叫び終わらないうちに、思いっきり地面を蹴った。

 あっという間に路地を抜け、歓楽街を行き交う大人たちの影絵に溶け込んでしまった姿から、嘉壱は手前に視線を戻した。


「……皐月」


 なんとなく気遣った方がいい気がした。

 声をかけなければ、いつまでも立ち上がりそうになく見えたのだが、一泊して、彼は案外何事も無かったかのように膝を押し、普通に歩いて戻ってきた。



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