第3話 使用人さんは居ないの?
「さあさあ、そろそろ何か食べに食堂に行こう」
それこそ、頭の先から足の先まで、何度も、鏡の中の姿を眺めて、それでもまだ不思議な気持ちで一杯のディルナに、レルシュトは声を掛けてくれた。
レルシュトの後について、とことこと、歩いて行く。
ふと、レルシュトの背には、羽の痕跡が全く無いことに気付いた。
「レルシュト様、空を飛んでいた時の羽は、どうしているんですか?」
レルシュトは半分振り返り、
「これのことか?」
と言いながら、背からバサリと、黒い蝙蝠のような羽を拡げて見せた。
「使わない時は、仕舞っている」
どこに、とは言わず、レルシュトは、また元のように羽を仕舞う。
羽の消えたレルシュトの背は、毛足の長い黒猫のもので、羽の痕跡は無い。
「不思議です」
どこに仕舞われているのか全く分からず、瞬きしているディルナに、レルシュトは、にんまりと笑った。
「以前は、服を着ることも多かったのだが、羽を出す時に不便でな。今では、妖精王に謁見する時以外は、ずっと、この格好だよ」
二本足で何気に優雅に歩く黒猫姿で、レルシュトは、くるりと振り向いてから、また歩き出した。ふさふさで長い尻尾がくるんと半円を描いて揺れている。
屋敷は静かで、今の所、レルシュト以外の者は見掛けていない。
やがて、レルシュトは、装飾が美しいアーチ状の入口から、食堂らしき広間へと入って行った。
大きなテーブルに、椅子が用意されていて、ディルナはレルシュトと並んで座った。
目の前には、食べやすいように切られて綺麗に盛り付けられた果物と木の実が、どーん、と置かれている。
「妖精界の食事は、人間には、ちょっと物足りないかもしれないが」
レルシュトは、そんなことを呟きながら、更に一皿、甘い香りのするケーキだというものを、ディルナの目前に置いてくれた。可愛い皿に取っ手つきのカップが乗せられた茶も一緒に置かれている。
ケーキには、蜂蜜のようなソースが添えられていた。
「わぁ、いい香り。とても美味しそうです」
「さぁ、お食べ」
レルシュトも同じものをテーブルに置き、そう勧めると、添えられたフォークを使って器用に食べ始める。
ディルナは、先が三本に分かれているフォークを暫く興味深げに眺めていたが、レルシュトの食べ方を真似ながら食べ始めた。
「美味しい! 甘ぁくて、とても美味しい。こんなの初めて食べます!」
「果物も、木の実も、好きなだけ、お食べ。こんなものしか無いのだけれど。栄養はタップリで、お腹も一杯になる」
レルシュトの言葉に、コクコク頷きつつも、ディルナは、夢中でケーキを食べていた。
「レルシュト様は、猫なのに、お魚とか食べないの?」
「人間界では食べるのだそうだね。だが、ここの魚は、ちょっと食べにくい」
喋るし、と、ぼそっとレルシュトは呟き足した。
「お魚、喋るの? うん。それは、ちょっと食べにくいね。じゃあ、鳥のお肉とかは?」
「人間界では良く食べるそうで、噂は聞いているよ。人間界に行くことでもあれば、一度は食べてみたいとは思うが、ここでは鳥も食べにくい」
喋るし、と、またレルシュトは呟き足した。
「うん、喋るんじゃ、食べるのは無理かな。でも、果物と木の実で足りるの?」
レルシュトの呟きに頷きつつも、ディルナと同じくらいに身体の大きい猫妖精の食べるものが果物と木の実、というのを少し心配そうにしながら聞いた。
「我が輩は、猫妖精だからな。少しの蜂蜜でもあれば十分なんだ。人間も、この妖精界に居る間は、果物や木の実で十分、足りるはずだよ。ただ、まぁ、偶には、こんな風に、ケーキを食べたりしよう」
美味しそうに食べ進めるディルナを、レルシュトの鮮やかに光輝く緑の瞳が、嬉しそうに見詰めている。
「こんな、お腹いっぱい食べたの初めてかも」
ただ、奪われた記憶の中には、きっと、美味しいものを、お腹いっぱい食べた記憶も入っているに違いない。
そんなディルナの言葉を聞いて、レルシュトは少し、切なそうな表情を浮かべたようだった。
「それに、果物も、木の実も、なんだか珍しいというか、初めて見るものばかりだよ」
厨房に食材を運び入れるような仕事もさせられていたので、食べたことはないけれど、見たことのある果物や木の実は多かったが、そのどれとも違っていた。
レルシュトは、口元を布で拭くような仕草をしている。
「こんなに綺麗な飾り付け。でも、こんなに残ってしまって、勿体ないです。煮て、ジャムにすればいいのかな?」
満腹になっても、綺麗に飾り付けられた果物は、たっぷりと残っていて、ディルナは少し困惑ぎみだ。
「大丈夫。これを被せておけば、時がそのまま止まるから」
レルシュトが笑みを浮かべながら言うと、飾り付けられていた果物に、綺麗な装飾の大きな覆いが掛かった。
「そうなの?」
驚きに青い瞳を、まん丸に見開いてディルナは感嘆したように声をあげた。レルシュトは徐に頷く。
「すごい! また今度、続きを食べてもいいの?」
「勿論。慌てず、ゆっくり食べるといい」
レルシュトの言葉に、ディルナは嬉しそうに微笑んだ。
屋敷の中を案内すると言われ、ディルナはレルシュトの後について歩き始めた。
天井は高く、通廊も部屋も広々としていて、柱も壁も細部まで凝った造りをしている。様々な彫刻や絵画のような壁画が描かれていたり、見飽きない。
ただ、広い屋敷の中を歩き回っても、誰かが働いている姿に出会わない。
ディルナが居たディアリスの街の貴族の城は、いつも様々な使用人や、その下で扱き使われている奴隷達で、ごった返していた。
「こんな、お城みたいに、立派なお屋敷なのに、使用人さんは、いないんですか?」
歩きながら色々な所を覗き込むように見回したりもした後で、不思議そうに、少し首を傾げてレルシュトに問いを向けた。
「使用人は必要ないからな」
「そうなの? でも、ボク、仕事ないの困っちゃうかな」
折角、下僕にして頂いたのに、と、ちょっと口籠もりながら呟き足した。
「まぁ、頼むことは出てくると思うから、その時で良い。妖精界に来たばかりで、右も左もわからんだろう?」
そんな会話を交わしながら、一階から二階、三階、と屋敷の中を歩き回った。見せてもらった部屋は、どれも、とても立派で、調度類なども豪華なものが揃えられている。
「ディルナの部屋を決めないといけないが、残りの部屋を見るのは明日にして、今日は、この部屋に寝て貰おうか」
ずっと思案気にしていたレルシュトが、三階の一番奥にある広い部屋にディルナを招き入れながら言う。
他の部屋と同様、この部屋も、隅から隅まで、隙のない美しい装飾に満たされていた。調度類は、どれも猫脚で、金の装飾が美しく、統一感もあるし、何より明るい。
「こんなに広い部屋!」
壁の装飾も綺麗で、天井も高く、部屋というよりは広間だ。もう、吃驚して、ディルナは、それ以上、言葉が出なかった。