第1話 猫妖精に拾われる
いきなりの土砂降りの雨に、外で仕事中だった奴隷の身のディルナは、雨宿りする場もなく、しばし、立ち尽くした。
粗末な服も、草履も、ぐしょ濡れで、夏とはいえ、少し寒い。
幸いなことに、雨は直ぐに止み、今度は、強い日差しが差し込んできた。
見事な七色の虹が掛かるのが、貴族の城の裏手の庭からも、よく見える。
と、
「虹の橋をわたってはだめよ」
不意に、どこからか声が聞こえ、でも、虹の方がディルナの上を駆け抜けて行った。風が吹き抜けるように。
そして、気がつくと、ディルナは、雨にぐっしょりと濡れた草原の真ん中に、ひとり座り込んでいた。
見回しても、貴族の城は、何処にもない。
(ここは、どこなんだろう?)
見慣れない草原。明るく、暖かで、気持ちの良い空気。
(でも、きれい)
立ち上がろうとすると、遠くの空に、小さな黒い点が現れ、それが、だんだんと大きくなって近づいて来るのが見えた。
近づいてくるにつれ、蝙蝠のような羽を持つ何かが、バサバサと空を舞って、こちらに向かってきているのだとわかる。
黒猫?
ふわりと、ディルナの前に舞い降りて、二本足で立つ黒猫の背には大きな黒い蝙蝠の羽。舞い降りたと同時に、黒猫の羽は仕舞われた。少し毛足の長い、ふわふわの毛皮の黒猫だ。
ディルナが立ち上がれば、同じくらいの背丈になるだろうか?
黒猫は、鮮やかな光輝く緑の瞳を向けて、直ぐに何か喋ったのだが、全く分からない言葉だった。
「あなたは、だぁれ?」
立ち上がれないまま、問うものの、こちらの言葉も、通じないようだった。
しばらく思案気にしていた二本足で立つ黒猫が、右手の人差し指っぽい爪の先に、何か、玉っころのようなものをくっつけて、ディルナの口元へと差し出す。
困ったように瞬きしていると、黒猫の左手に、鼻を摘まれた。
呼吸するために口を開いた途端、先ほどの玉っころが、口の中に突っ込まれる。
ゴックン。と飲み込んだ。
「どうだ? これなら、言葉が分かるだろう?」
黒猫の言葉が、急に聞き取れるようになって、ディルナはコクコク頷く。
「我が輩の領地に何か居る、と言われて来てみたのだが、これはまた、小汚い」
黒猫は、そんなことを言いながらも、別に嫌悪している様子ではなく、どちらかといえば興味深そうな口調だった。
泥まみれで働かされていた所に、土砂降りの雨に打たれて、粗末な衣服も草履も、跳ね返った泥と雨で酷い有様だから、小汚いと言われても仕方ない状態だ。
「ここはどこ? 虹の橋が渡っていったら、ボクは、ここに居た」
ディルナは黒猫に問いかける。
「ここは妖精界だよ。我が輩は、猫妖精のレルシュト・ルバス。誇り高き、ルバス家の当主だ」
黒猫は、古の騎士がとるような優雅な礼をしながら、そう名乗った。
「妖精界? ボクは、ディルナ・ミノ。ディアリスの街のガラノエ家のお城の奴隷だよ」
妖精界というのが、どこにあるのか分からなかったが、ディルナも一応、名乗る。奴隷という身分を示すかのように、粗末な衣服では隠しようのないゴツい首輪と、手首足首の枷。
「まぁ、とにかく、来なさい。びしょ濡れだ」
言うと、猫妖精のレルシュトは、座り込んだままのディルナの、粗末な衣服の襟元に爪を引っかけ、来た時のように、蝙蝠のような羽をバサリ、と大きく拡げて舞い上がった。
ディルナの身体は座った体勢から足を伸ばし、ふわりと浮かび上がる。
服が引き攣れることもなく、どこかが苦しいこともなく、空に浮かんで、爪に引かれるまま空を飛んでいる。心地好い風が頬を撫でて行き、草原の向こうに街らしき景色が見えてくる。
「レルシュト様、重くはないですか?」
爪の先だけで持ち上げられているので、爪が傷んでしまわないか気掛かりだ。
「心配は要らない」
「ボク、ちゃんと、自分の足で歩きますよ?」
「それでは、いつ屋敷につくか分からん」
物凄い速さで空を移動しているのは確かで、一瞬でかなりの距離を進んでいるから、歩くとなると相当時間がかかるだろう。
上空からみても大きな家、それと、大抵は、すごく小さな家、沢山、立ち並ぶ街中の上空に、直ぐにさしかかった。
猫妖精は急降下し、高い塀に囲まれた大きな屋敷の前に降り立つ。ディルナの身体は、ふわりと、柔らかく地面に着地した。
「遠慮なく、中に入るといい。と、言いたい所だが、ちょっと先に洗おうか」
高い塀に囲まれた屋敷の門を潜って、大きな扉の前。レルシュトは少し思案気にした後で、ディルナを猫手で手招きしながら、横合いから壁伝いに外を歩いて行く。慌てて、ディルナは後を追った。
「まずは、ここから入ろう」
「失礼します」
ぺこりと頭を下げて、レルシュトの後について、屋敷の横合いの小さめな扉から、中へと入った。
そこは明るく広い、タイル敷きの風呂場のようだった。
猫脚で金の装飾の、お洒落な浴槽が置かれていて、香りの良い湯が満たされ、沢山の花びらが浮かべられて、とても綺麗だ。
ディルナは、くすんだ灰色の短め、ざんばら髪。瞳は鮮やかな青。煤けた肌と服。雨に濡れたせいで、それこそボロ雑巾のよう。
「取り敢えず、これは脱がすぞ」
粗末な、それこそ、ボロ布を巻き付けて紐で留めただけのような衣服だったこともあり、爪に引っかけられて引っ張られると、簡単に脱げた。
「うわっ! 済まない。女の子だったのか!」
レルシュトは、服を剥ぎ取ってから、女の子と気付いたようで、驚嘆の声を上げて申し訳なさそうにした。
「うん。でも、男の子と同じ仕事させられてたよ」
ディルナの言葉に頷きながら、レルシュトは、首輪と、手枷、足枷も取ろうとしたが、外れない。
「仕方ないな。湯に入って、湯に潜って、一旦、頭の先まで全部、浸かってごらん」
ディルナは、足置きを使って浴槽に足を入れる。それから、固く目を瞑って、言われたように、沢山の花びらが浮かんだ湯の中に、頭の先まで身体が全部浸かるように頑張って潜った。
すぐに呼吸が苦しくなって、湯から顔を上げる。沢山の花びらは、不思議と、肌にくっついてこなかった。
と、レルシュトが、また驚いたような声を上げる。
「凄い、そんなに明るい金の髪だったのか! 肌も象牙のように真っ白だ。だが、この湯でも、枷は取れぬか」
うーむ、と、思案気に猫妖精のレルシュトは腕を組んだ。
埃と泥に塗れ、荒れてガサガサ、細かい傷も沢山あった肌は、湯に入ったとたんに、汚れがすっかり消え、傷も治って、元来の肌へと戻ったようだった。
ディルナは自分の、すべすべになった腕を眺めながら、吃驚して青い瞳が、まん丸になっている。
視野の端に入る濡れた明るい金髪は、キラキラの蜂蜜のような色合いだ。
「枷はね、悪い魔道師が、ボクを攫った時につけたんだよ。ボクの記憶を少し奪って、首輪に閉じ込めてあるんだって。それと、手枷と足枷は、どこまで逃げても追いかけられるようにしてあるって言ってた」
何の記憶が奪われてしまったのか、奪われてしまったので、ディルナには分からない。そして、こうして猫妖精の傍にいても、あの魔道師が追いかけてくる恐怖は消えていない。
「そうか。だが、そんな悪い魔道師は、この妖精界には決して入れないから、ディルナを追いかけて来ることは出来ない」
声は穏やかだったが、ディルナに、こんな仕打ちをした魔道師に対して、レルシュトが相当怒っているのは、気配でなんとなくわかった。
「とはいえ、使い魔くらいは送り込んでくるかもしれんな。妖精王に、進言しておくとしよう」
思案気に腕を組んで、難しい顔をしたまま、レルシュトはそんな言葉を口にした。