初日
外から、日の光が射してくる。
郁紀は目を開け、あたりを見回した。自宅とは、違う風景が目に入る。一瞬、自分がどこにいるのか把握できず戸惑った。
その時、昨日の出来事を思い出した。ペドロの乗る車に乗り、この部屋に連れて来られたのだった。
ここは、どこなのだろうか。
郁紀は、窓から外を見てみた。目に映るものは道路と空き地、それに電柱だ。他に、人の住んでいるような所は見当たらない。微かに車の走る音が聞こえてくるが、当の車は見当たらない。言うまでもなく、人っ子ひとり出歩いていなかった。
この町を一言で表現するなら、ゴーストタウンだろう。だが、日本にそんな場所があるのだろうか。
思い当たるのは、山奥にある限界集落である。しかし、ここは山ではなさそうだ。少なくとも、秘境の地でないのは間違いない。道路にはアスファルトが敷かれているし、数は少ないが電柱もある。にもかかわらず、人の姿はない。
なんと不気味な町なのだろうか。
外に出てみようか?
ふと、そんなことを考えた。見たところ、外には誰もいない。外に出たところで、咎められはしないのではないか。
だが、すぐに思い直した。あのペドロは、恐ろしい男だ。ひょっとしたら、どこかから自分を見張っているかもしれない。外出は禁止されている以上、その言い付けには従った方がいいだろう。
たかが一週間だ。耐えられないことはない。郁紀は、再び座り込んだ。その途端、空腹感を覚える。
タッパーを開け、入っていた粥と鳥のささみを食べ始めた。終わると、畳に寝転がる。ペドロが迎えに来るまで、何をすればいいのだろう。ここでは、何もすることがない。
退屈だ。
暇な時間を潰す手段が、ここには何もないのだ。しかも、時計がないため今の時間もわからない。こういう時、今までの自分は何をしていただろうか。
考えるまでもない。今まで、暇な時はスマホをいじっていた。だが、ここにはスマホがない。テレビもない。目に映るものといえば、天井と壁だけ。
その時、カサカサという音が聞こえてきた。ビクッとして、すぐに上体を起こした。音のした方向を見てみる。
そこにいたのは、ゴキブリだった。触角を動かしながら、部屋の隅にうごめいている。
思わず舌打ちした。こいつは、どこにでも現れるのか。
郁紀は、すぐさま立ち上がった。彼はゴキブリに怯み、叫び声を上げ逃げ出すタイプではない。だが、ゴキブリが好きというわけでもなかった。こんな不快な生き物と同居する趣味もない。今すぐ叩き潰す──
だが、虫の方も黙って潰される気はなかった。郁紀の動きに対し、瞬時に反応する。素早く動き、あっという間に床の隙間へと潜っていく。
「クソが……」
毒づきながら、再び座り込む。他にもいるかと、部屋の四隅を見回してみた。
今のところ見当たらない。だが、いないとも言いきれない。
先ほどのゴキブリは、昨日の時点で部屋に潜んでいたのだろうか。全く気付かなかった。出来ることなら、仕留めておきたい。寝ている間に、自分の周囲をカサカサ動かれるのは迷惑だ──
「おはよう」
突然、声が聞こえてきた。郁紀は、飛び上がりそうな衝撃を受ける。慌てて振り向いた。
入口に、ペドロが立っていた。昨日と同じく、作業服のようなものを着ており、帽子を被っている。
しかも、扉は開かれていた。いつの間に開けたのだろうか。そんな音は、全く聞こえなかったのだが。
「お、おはようございます」
反射的に、言葉を返していた。すると、ペドロはくすりと笑う。
「実のところ、おはようというには少々遅い時間帯ではあるがね。まあ、そんなことはいい。そろそろ行くとしようか」
「えっ……どこにですか?」
尋ねると、ペドロの表情が僅かに変化する。
「稽古場だよ」
「け、稽古場?」
「そうだ。あるいは、トレーニングジムと言った方がいいかな。さあ、付いて来るんだ」
ペドロに促されるまま、郁紀は外に出た。彼の後を付いて歩く。外の風景は、不思議なものだった。一面に広がる荒れ地、アスファルトの敷き詰められた道と電柱、目に見えるものは、それだけだ。
本当に不気味な所だな……などと思っていると、不意にペドロが話しかけてきた。
「ところで、あの部屋の居心地はどうかな」
「えっ? いや、それは……」
聞かれた郁紀は、答えに窮した。まさか、退屈で死にそうだなどと言えない。
すると、ペドロはにやりと笑った。
「正直に言いたまえ。退屈だろう」
「は、はい」
こうなった以上、ごまかしても仕方ない。郁紀は頷いた。
「で、その退屈な時間だが……君は、どうやって過ごそうと思っていたんだい?」
「えっ? いや、考えていなかったです」
「だろうね。ところで……今までは、暇な時間には何をしていたんだい?」
「えっ?」
訳がわからず、そっとペドロの顔色を窺う。あまりにも普通すぎる会話だ。この怪人らしからぬ問いである。
「そうですねえ、スマホいじったりテレビ見たりしてました」
仕方なく、そう答えた。
「なるほど。確かに、スマホは便利だ。俺の若い頃に、あんな便利な道具があればな……と思うよ」
ペドロの言葉に、郁紀は平静を装ってはいたが……内心では困惑していた。さっきから、何を言っているのだろうか。まるで、親戚のおじさんと会話しているような空気が漂っている。
だが、次の瞬間に空気は一変した。
「だがね、今はスマホがない。そして……言うまでもないことだが、時間には限りがある」
「はい?」
思わず聞き返していた。どういうことだろう。
「人間に残された時間というのは、有限だ。永遠に生きられる人間などいない。誰もが、いつかは死ぬ。わかるかい?」
ペドロの口調は、穏やかなものだった。にもかかわらず、先ほどとは何かが変化している。郁紀は、不安を感じつつ頷いた。
「はい、わかります」
言った途端、郁紀はしくじったことに気づいた。
彼の言葉を聞き、ペドロが立ち止まったのだ。口元を、僅かに歪めている。
「いや、君はわかっていない。本当の意味で理解した、とはいえないだろうね」
「す、すみません」
「謝る必要はないよ。君も、これが終わる頃には理解できるようになっているはずだ。人間はね、死を知った瞬間から子供ではなくなるのさ」
そう言って、ペドロは微笑んだ。が、その笑みは一瞬で消える。
「ところで……先ほど、君は俺の訪問に気付かなかったね。いったい何をしていたんだい?」
「あ、あの、部屋にゴキブリがいて──」
「ゴキブリ? 君は、ゴキブリが嫌いなのかい?」
いきなりの質問に、郁紀は唖然となった。あんな生き物が好きな人間など、いようはずがない。
思わず、ペドロの顔をまじまじと見つめていた。もしや、からかわれているのだろうか……と思ったのだが、ペドロの顔つきは真剣そのものだった。
「は、はい、嫌いですが……」
そう答えると、ペドロはうんうんと頷いた。
「まあ、そうだろうね。それが、ごく普通の感覚だよ。俺も、ゴキブリは好きではない。だがね、あの生き物から学べることもあるんだ」
「学べること? ゴキブリから、ですか?」
びっくりして聞き返すと、ペドロは笑みを浮かべる。
「そうさ。君のような都会に住む一般人でも、野性の恐ろしさや奥深さに触れることが出来る……それが、ゴキブリなのさ」
「野性を学べる? どういうことです?」
さらに尋ねる。正直、意味がわからないのだ。一般家庭の台所をうごめくゴキブリのどこに、野性の恐ろしさや奥深さがあるのだろう。
「それに関しては、いずれ教えてあげるよ。まずは、あの車に乗りたまえ」
そう言うと、ペドロは道路の先を指さす。そこには、白い軽自動車が停まっていた。恐らく、昨日乗っていたのと同じものだ。
「は、はい」
言われるがまま、その車に乗り込む。すると、ペドロも運転席に着いた。
「では、トレーニング開始だ」