表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/29

初日

 外から、日の光が射してくる。


 郁紀は目を開け、あたりを見回した。自宅とは、違う風景が目に入る。一瞬、自分がどこにいるのか把握できず戸惑った。

 その時、昨日の出来事を思い出した。ペドロの乗る車に乗り、この部屋に連れて来られたのだった。


 ここは、どこなのだろうか。


 郁紀は、窓から外を見てみた。目に映るものは道路と空き地、それに電柱だ。他に、人の住んでいるような所は見当たらない。微かに車の走る音が聞こえてくるが、当の車は見当たらない。言うまでもなく、人っ子ひとり出歩いていなかった。

 この町を一言で表現するなら、ゴーストタウンだろう。だが、日本にそんな場所があるのだろうか。

 思い当たるのは、山奥にある限界集落である。しかし、ここは山ではなさそうだ。少なくとも、秘境の地でないのは間違いない。道路にはアスファルトが敷かれているし、数は少ないが電柱もある。にもかかわらず、人の姿はない。

 なんと不気味な町なのだろうか。

 

 外に出てみようか?


 ふと、そんなことを考えた。見たところ、外には誰もいない。外に出たところで、咎められはしないのではないか。

 だが、すぐに思い直した。あのペドロは、恐ろしい男だ。ひょっとしたら、どこかから自分を見張っているかもしれない。外出は禁止されている以上、その言い付けには従った方がいいだろう。

 たかが一週間だ。耐えられないことはない。郁紀は、再び座り込んだ。その途端、空腹感を覚える。

 タッパーを開け、入っていた粥と鳥のささみを食べ始めた。終わると、畳に寝転がる。ペドロが迎えに来るまで、何をすればいいのだろう。ここでは、何もすることがない。


 退屈だ。


 暇な時間を潰す手段が、ここには何もないのだ。しかも、時計がないため今の時間もわからない。こういう時、今までの自分は何をしていただろうか。

 考えるまでもない。今まで、暇な時はスマホをいじっていた。だが、ここにはスマホがない。テレビもない。目に映るものといえば、天井と壁だけ。


 その時、カサカサという音が聞こえてきた。ビクッとして、すぐに上体を起こした。音のした方向を見てみる。

 そこにいたのは、ゴキブリだった。触角を動かしながら、部屋の隅にうごめいている。

 思わず舌打ちした。こいつは、どこにでも現れるのか。

 郁紀は、すぐさま立ち上がった。彼はゴキブリに怯み、叫び声を上げ逃げ出すタイプではない。だが、ゴキブリが好きというわけでもなかった。こんな不快な生き物と同居する趣味もない。今すぐ叩き潰す──

 だが、虫の方も黙って潰される気はなかった。郁紀の動きに対し、瞬時に反応する。素早く動き、あっという間に床の隙間へと潜っていく。

 

「クソが……」


 毒づきながら、再び座り込む。他にもいるかと、部屋の四隅を見回してみた。

 今のところ見当たらない。だが、いないとも言いきれない。

 先ほどのゴキブリは、昨日の時点で部屋に潜んでいたのだろうか。全く気付かなかった。出来ることなら、仕留めておきたい。寝ている間に、自分の周囲をカサカサ動かれるのは迷惑だ──


「おはよう」


 突然、声が聞こえてきた。郁紀は、飛び上がりそうな衝撃を受ける。慌てて振り向いた。

 入口に、ペドロが立っていた。昨日と同じく、作業服のようなものを着ており、帽子を被っている。

 しかも、扉は開かれていた。いつの間に開けたのだろうか。そんな音は、全く聞こえなかったのだが。


「お、おはようございます」


 反射的に、言葉を返していた。すると、ペドロはくすりと笑う。


「実のところ、おはようというには少々遅い時間帯ではあるがね。まあ、そんなことはいい。そろそろ行くとしようか」


「えっ……どこにですか?」


 尋ねると、ペドロの表情が僅かに変化する。


「稽古場だよ」


「け、稽古場?」


「そうだ。あるいは、トレーニングジムと言った方がいいかな。さあ、付いて来るんだ」


 ペドロに促されるまま、郁紀は外に出た。彼の後を付いて歩く。外の風景は、不思議なものだった。一面に広がる荒れ地、アスファルトの敷き詰められた道と電柱、目に見えるものは、それだけだ。

 本当に不気味な所だな……などと思っていると、不意にペドロが話しかけてきた。


「ところで、あの部屋の居心地はどうかな」


「えっ? いや、それは……」


 聞かれた郁紀は、答えに窮した。まさか、退屈で死にそうだなどと言えない。

 すると、ペドロはにやりと笑った。


「正直に言いたまえ。退屈だろう」


「は、はい」


 こうなった以上、ごまかしても仕方ない。郁紀は頷いた。


「で、その退屈な時間だが……君は、どうやって過ごそうと思っていたんだい?」


「えっ? いや、考えていなかったです」


「だろうね。ところで……今までは、暇な時間には何をしていたんだい?」


「えっ?」


 訳がわからず、そっとペドロの顔色を窺う。あまりにも普通すぎる会話だ。この怪人らしからぬ問いである。


「そうですねえ、スマホいじったりテレビ見たりしてました」


 仕方なく、そう答えた。


「なるほど。確かに、スマホは便利だ。俺の若い頃に、あんな便利な道具があればな……と思うよ」


 ペドロの言葉に、郁紀は平静を装ってはいたが……内心では困惑していた。さっきから、何を言っているのだろうか。まるで、親戚のおじさんと会話しているような空気が漂っている。

 だが、次の瞬間に空気は一変した。


「だがね、今はスマホがない。そして……言うまでもないことだが、時間には限りがある」


「はい?」


 思わず聞き返していた。どういうことだろう。


「人間に残された時間というのは、有限だ。永遠に生きられる人間などいない。誰もが、いつかは死ぬ。わかるかい?」


 ペドロの口調は、穏やかなものだった。にもかかわらず、先ほどとは何かが変化している。郁紀は、不安を感じつつ頷いた。


「はい、わかります」


 言った途端、郁紀はしくじったことに気づいた。

 彼の言葉を聞き、ペドロが立ち止まったのだ。口元を、僅かに歪めている。


「いや、君はわかっていない。本当の意味で理解した、とはいえないだろうね」


「す、すみません」


「謝る必要はないよ。君も、これが終わる頃には理解できるようになっているはずだ。人間はね、死を知った瞬間から子供ではなくなるのさ」


 そう言って、ペドロは微笑んだ。が、その笑みは一瞬で消える。


「ところで……先ほど、君は俺の訪問に気付かなかったね。いったい何をしていたんだい?」


「あ、あの、部屋にゴキブリがいて──」 


「ゴキブリ? 君は、ゴキブリが嫌いなのかい?」


 いきなりの質問に、郁紀は唖然となった。あんな生き物が好きな人間など、いようはずがない。

 思わず、ペドロの顔をまじまじと見つめていた。もしや、からかわれているのだろうか……と思ったのだが、ペドロの顔つきは真剣そのものだった。


「は、はい、嫌いですが……」


 そう答えると、ペドロはうんうんと頷いた。


「まあ、そうだろうね。それが、ごく普通の感覚だよ。俺も、ゴキブリは好きではない。だがね、あの生き物から学べることもあるんだ」


「学べること? ゴキブリから、ですか?」


 びっくりして聞き返すと、ペドロは笑みを浮かべる。


「そうさ。君のような都会に住む一般人でも、野性の恐ろしさや奥深さに触れることが出来る……それが、ゴキブリなのさ」


「野性を学べる? どういうことです?」


 さらに尋ねる。正直、意味がわからないのだ。一般家庭の台所をうごめくゴキブリのどこに、野性の恐ろしさや奥深さがあるのだろう。


「それに関しては、いずれ教えてあげるよ。まずは、あの車に乗りたまえ」


 そう言うと、ペドロは道路の先を指さす。そこには、白い軽自動車が停まっていた。恐らく、昨日乗っていたのと同じものだ。

 

「は、はい」


 言われるがまま、その車に乗り込む。すると、ペドロも運転席に着いた。


「では、トレーニング開始だ」






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 「人間はね、死を知った瞬間から子どもではなくなるのさ」 こう言い切るペドロさんに底知れない闇を感じ、一方では奇妙な優しさを感じました。 ふしぎなものですね。 [一言] どんなトレーニン…
2020/02/25 01:35 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ