到着
どのくらい眠っていたのだろう。
目を開けた時、車は奇妙な場所で停まっていた。郁紀は、周囲を見てみる。既に日は沈みかけ、空は暗くなりかけていた。正確な時間はわからないが、恐らく五時を過ぎているだろう。
「ぐっすり眠れたようだね」
「は、はい」
間の抜けた声で答える郁紀に、ペドロは笑みを浮かべた。
「なら、ちょうどいい。ここから、十分ほど歩くことになるが……黙って付いて来たまえ」
そう言うと、ペドロは車から降りた。ゆったりとしたペースで歩き出す。郁紀も、彼の後を付いて行った。
周りの風景は、郁紀が住んでいる町とは全く異なっていた。人通りはなく、車も見当たらない。電柱も少ない上、カラスなどの鳥の鳴き声がひんぱんに聴こえてくる。地面はアスファルトで舗装されてはいるが、所々で隆起したり土が見えたりしていた。
だが、それよりも気になるのは……滅びの雰囲気が漂っていることだった。さびれたという表現が、実によく似合う場所だ。夕暮れ空が、さびれた印象をさらに強める。
そんな風景の中を、ペドロはのんびりと歩いて行く。一方、郁紀は不安を感じた。人気が無さすぎる上、この辺り一帯には不気味な空気が漂っている。ペドロは、何を考えているのだろうか。
ここで、何をするのだろうか。
やがて、ペドロは奇妙な場所で立ち止まった。古いアパートのようだが、外壁はボロボロで窓ガラスは汚れており、嫌な匂いが漂っていた。周囲の雑草は伸び放題で、カサカサと小動物のうごめく音が聞こえてくる。人が住んでいる気配はない。
だが、ペドロはお構い無しだった。ひとつの部屋の扉を開け、ずかずかと入っていく。郁紀は、恐る恐る後を付いて行った。
部屋は狭く、嫌な匂いが漂っていた。天井には裸電球がぶら下がっており、床にはボロボロになった畳が敷かれている。他には何も置かれていない。まるで、刑務所の独房のようである。
「トレーニングの間、ここで過ごしてもらう。君の家に比べれば不便だが、ほんの一週間だ。我慢できるだろう」
「わかりました」
郁紀が頷くと、ペドロは中へと入って行く。畳の上に腰を下ろすと、穏やかな口調で語り出した。
「この期間中、君は極限まで追い詰められる。疲労、苦痛、恐怖……だがね、その先に待っているのは、この世でもっとも貴いものだよ。巨万の富を持つ大富豪であったとしても、手に入れることのかなわぬものだ」
「それは……何なんです?」
「さあ、それは俺の口からは言えない。ただひとつ確かなのは、公園で貧弱な若者を倒して悦に入るような生活からは、別れを告げられるよ」
ペドロは、ニヤリと笑う。その笑顔を見た途端、郁紀の胸に不安が湧いてきた。
「これから、どんなトレーニングをするんですか?」
尋ねた途端、ペドロの顔から笑みが消えた。
「逆に聞こう。君は、どんなトレーニングを想像しているんだい?」
「えっ……たとえば、拳銃を撃ったり、軍隊格闘術を習ったり──」
「違う」
それまでとはうって変わって、強い口調で即答した。郁紀は、思わず叱られたかのようにビクリと反応する。
「仮にだ、君に拳銃の撃ち方を教えたとする。結果、十メートル離れた位置から、一円玉の真ん中を正確に射抜けるような腕前になるかもしれない。だがね、そこに何がある? 失礼な言い方だが、拳銃が上手いだけのチンピラが誕生するだけだよ。君は、そんな者にはなりたくないだろう?」
郁紀は、深く頷いた。言われてみれば、その通りだ。今の自分が、拳銃を上手く撃つスキルを手に入れたとして……それを、何に使えばいい?
使い道など、自分にはないのだ。
「拳銃や格闘術といった技能は、例えるなら枝葉の部分でしかない。枝葉を支える幹がしっかりしていなければ、何の意味もないんだよ。俺がこれから鍛えるのは、幹となる部分だ。いや、幹というよりは根だな」
ペドロの語る言葉には、説得力がある。理屈ではない。この男の圧倒的な自信が、こちらにも伝わって来るのだ。その自信こそが、彼の言葉に異様なまでの説得力を与えている。
この自信の源は、いったい何なのだろう……などと思いつつ、ペドロの言葉を聴いていた。
「ついでに言っておこう。軍隊格闘術というのは、一般人の間では神格化されているようだね。だが、技の種類からいえば君の普段やっていることと大差ない。強いのは軍隊格闘術ではない。軍人さ」
そこで、ペドロは言葉を止めた。ちらりと、窓から外を見る。つられて、郁紀も外に視線を移した。
「食事は一日に一回、俺の知人が運んで来ることになっている。美味とは言いがたい代物だが、栄養に関しては問題ない。俺の課すトレーニング以外の時間は、この中で過ごしてもらう。外出は禁止だが、それ以外は中で何をしようが構わない」
外出禁止、とは。もし外出したら、どんなペナルティーがあるのだろう……という考えが頭を掠めたが、聞く気にはなれなかった。
「では、明日からトレーニング開始だ。覚悟しておきたまえ」
そう言い残し、ペドロは出て行った。
ひとり残された郁紀は、改めて室内を見回した。ベージュ色の壁は、あちこちに黄色い染みが付いている。天井には、蜘蛛の巣が張っていた。畳は古いが、まだ使えそうだ。
立ち上がると、裸電球のスイッチを入れてみる。すると、明かりがついた。部屋の中が明るくなり、殺風景な室内も少しはマシになった気がした。
次に、キッチンを見てみる。蛇口を捻ってみると、しっかり水は出る。電気と水道は通っているようだ。
それ以外は、何もない。
さらに、室内は沈黙が支配している。たまに外から、車のエンジン音らしきものが聞こえてくるが……それ以外は、一切の音がないのだ。隣にも、住人がいないらしい。
ここ、本当に独房だな。
そんなことを思った時だった。突然、扉をノックする音。さらに、声も聞こえてきた。
「おい、飯を届けに来たぞ」
男の声だ。明らかにペドロではない。ドアを開けると、痩せこけた中年男が立っている。ペドロと同じく、灰色の作業服を着ている。髪はとても短く、郁紀と同じく坊主頭だ。頬はこけ、病的な痩せ方をしている。
男は、乱暴な態度でお盆のようなものを突き出した。上には、プラスチック製の大きなタッパーが三個、さらに箸とスプーンと空のコップと、折り畳まれた紙切れが載せられている。郁紀は困惑しつつも、お盆を受けとった。
直後、男は無言のまま帰って行く。何の挨拶もないままだ。郁紀は、唖然としたまま彼の去り行く姿を見つめていた。
ややあって、郁紀は扉を閉めた。タッパーを開けてみたが、またしても困惑した。
中には、お粥のようなものが入っている。もうひとつを開けてみたが、全く同じものだ。最後のひとつは、鳥のささみの薫製とブロッコリーがぎっしり入っている。
豪華な食事とは、お世辞にも言えない。もっとも、郁紀は食事にはこだわらない生活をしていた。その点に関しては、不便を感じなかった。実のところ、森の中に入って食糧を取って来い……というような、サバイバルの訓練をさせられるのではないかと思っていたのだ。食事付きなら、ありがたい。
次に郁紀は、紙切れを開いてみた。綺麗な字で、こう書かれている。
(今日の夕食と、明日の朝食だ。明日の昼過ぎから、トレーニングを開始する)
これは、ペドロの書いた字なのだろうか。
いや、それよりも……昼過ぎからトレーニング開始と書かれているが、時計もないのに、今の時間をどうやって判断すればいいのだろうか。
微かな疑問と不安とを感じつつ、お粥を一口食べてみた。味が薄い。はっきり言って、美味くはない。
だが、その一口が郁紀の空腹感を呼び覚ます。朝から、緊張であまり食べられていなかったのだ。彼は、あっという間にタッパーのお粥を平らげた。鳥のささみとブロッコリーにも手を付け、半分だけ食べる。
食事を終えた郁紀は、そっと立ち上がった。窓から、外の風景を見てみる。
既に日が沈み、辺りは完全に暗くなっている。見えるものは、電柱と荒れ果てた空き地だけだ。人の姿は、どこにも見えない。
これから、何が待っているのだろうか……郁紀は、不安な気持ちになった。