怪物の提案
「なるほど、そういう事情があったのか」
ペドロの声は、とても優しく聞こえる。思い出したくない過去を語り終えた郁紀にとって、それは心地好いものだった。幼い頃に聞いた、父の声のように。
だが、安らかな気持ちは一瞬で壊される──
「この先、君がどうなるか教えてあげよう。暴力のもたらす高揚感に酔いしれた挙げ句、人を殺してしまう。その後は少年刑務所に入れられ、そこで人格が徹底的に歪んでいく。最終的に、君は犯罪者の仲間入りをして、どこかの街角で野垂れ死ぬ………と、こうなる可能性が非常に高い。このラストを避けるには、相当の幸運が必要だろうね」
ペドロの言葉は、先ほどと違い冷たいものだった。その冷たさが、刃のように心に突き刺さる。郁紀は、思わず言い返していた。
「お、俺はそんな風にはなりません──」
「なるんだよ。俺は嘘はつかないし、そこいらの占い師みたいにいい加減なことは言わない。君は、惨めな犯罪者として人生を終えることになる……ほぼ間違いなく、ね。君だって、自覚しているはずだよ」
冷酷で、容赦のない言葉だった。
郁紀には、その言葉が真実であることがわかっていた。そもそも、今まで警察に逮捕されなかったのが奇跡なのだ。高校時代に補導されたが、それ以降は幸運の為せる業により逮捕を免れてきた。
もっとも、幸運がいつまでも続くわけではない。いずれ、不運の番が来る。こんな無謀なことを続けていけば、いつかは逮捕されるだけだ……。
沈黙する郁紀の前で、ペドロは語り続けた。
「ここで肝心なのは、君の意思だ。果たして、このままでいいのかい?」
このままでいい、などと思ってはいない。思っているわけがない。郁紀とて、今の自分の行動を良しとしてはいなかった。
だが、他に何をすればいいかわからない。何をすれば、この胸の裡にうごめくものを押さえられるのか。
そんな郁紀に、ペドロはなおも問いかける。
「何も成さず、哀れな犯罪者として人生を終える……そんな終わりを、君は望むのかい?」
その問いに、郁紀は無言のまま首を横に振った。そんな終わりなど、望むはずがない。
すると、ペドロはにっこり微笑んだ。
「俺には、わかっているんだよ。君がやりたいのは、チンピラを痛めつけることじゃない。君は、正義を執行したいんだろう?」
「せ、正義?」
「そうだ。君は弱さゆえに、悪人の所業に対し見て見ぬ振りをした。結果、ひとりの少女が死んだ。全く罪のない無垢な少女に、死という残酷にして究極の罰を与えてしまったんだよ。その責任の一端は、間違いなく君にもある。悪を見逃すことも悪だよ。父親に腕力で勝てなかったとしても、何か打つ手はあったはずだ」
悪を見逃すことも悪。
その言葉は、強烈に郁紀の心を打った。確かに、ペドロの言う通りだった。
言ってみれば、自分も共犯なのだ。
「その罪の意識から逃れるために、君はチンピラを叩きのめしている。だがね、そんな雑魚を相手にしていていいのかい? 挙げ句に、ケチなチンピラとして人生を終えていいのかな?」
ペドロの言葉は、じわりじわりと郁紀の心を侵食していく。不思議な声だった。母の優しさと父の怖さ、神の暖かさと悪魔の残忍さとが同時に伝わってくる。こんな声を聞くのは、生まれて初めてだった。
「世の中には、もっと悪い人間がいるんだよ。人を死なせておきながら、罰を受けない上級国民がいる。虫けらを潰すように、人間を殺す者もいる。生かしておいたら、世の中に害毒を垂れ流す人種だね。そんな連中が、今の世の中には野放しになっているんだよ。君が拳を振り上げるべきなのは、そういった者たちではないのかい?」
そこで、ペドロは言葉を止めた。郁紀の顔を、じっと見つめる。
郁紀は、耐え切れず目を逸らした。逸らさざるを得なかったのだ。ペドロの瞳からは、異様なものを感じる。目力、などという単純な言葉で表現できるものではない。瞳の魔力で石に変えられたかのように、郁紀は下を向いたまま動けなくなっていた。
だが、直後にペドロの口から発せられた言葉を聞いた時、郁紀は心臓が飛び出そうな衝撃を受けた──
「今の俺は、まだ時間に余裕がある。あと、一週間ほどかな。その一週間で、君を本物の戦士へと変えることが出来る。もちろん、辛く厳しいトレーニングをすることになるがね。トレーニングを終えた暁には、全く違う視点から世の中を見られるようになっているはずだ。少なくとも、今みたいにチンピラを狩って自己満足に浸っているような生活からは、確実に脱却できるよ」
「は、はい!?」
思わず、すっとんきょうな声が出ていた。ペドロの申し出は、想像もしていなかったものだ。そもそも、本物の戦士とは何だ? まるきり理解できない。郁紀は唖然となり、口を開けたまま目の前の怪人を見つめていた。
すると、ペドロの表情が変わる。先ほどまでの優しい雰囲気が、一瞬にして消えうせていた。同時に、彼の周囲に漂っていた空気も変化する。郁紀は、部屋の気温が一気に下がってしまったかのような感覚に襲われた。
このままだと、殺されるかもしれない──
「す、すみません」
気がつくと、謝罪の言葉を口にしていた。
それに対し、ペドロは呆れたようにかぶりを振った。
「本当に、何もわかっていないのだね。君にとって、これは最大のチャンスなんだよ。わずか一週間で、最低最悪の人生を変えることが出来るというのに……今の自分を、変えたいと思わないのかい?」
「な、なぜ、俺にそんなことをしてくれるんです?」
気がつくと、そんな言葉が出ていた。すると、ペドロの表情が僅かに和む。
「俺はね、君が気に入ったんだよ。君は面白い。それに、ここで知り合ったのも何かの縁だ。せっかく縁あって知り合った前途有望な若者が、つまらない犯罪者として人生を終える……それは、とても悲しいことだよ。社会にとっても、大きな損失だ」
ペドロの口調は、穏やかなものだった。その言葉に、郁紀の心は揺れる。目の前にいる男の申し出を受けたい。だが、受けたくない気持ちもある。
結論が出せず、迷っていた郁紀だったが……直後のペドロの言葉に、またしても仰天させられる。
「では、こうしよう。全ての発端である人物・奥村雅彦氏を探しだし、君の元に連れて来る。これでどうだい?」
「お、奥村ですか!?」
思わず叫んでいた。ペドロは、深く頷く。
「そう、義理の娘である紗耶香さんを虐待死させた人間のクズだ。まだ刑務所に入っているかもしれないがね。もし君が、俺の申し出を受け入れてくれるなら、御褒美として奥村氏を君の前に連れて来るよ。これでどうだい?」
その問いに、郁紀は何も言えなかった。そんなことが可能なのだろうか?
迷っている郁紀に向かい、ペドロは再び口を開く。
「まだ結論を出せないのか。仕方ないな、君に少し考える時間をあげよう。今から、約二十三時間だ。自分がどうすべきなのか、その間によく考えてみるんだね」
そう言うと、ペドロは作業服の胸ポケットに手を入れた。中から、小さな紙切れを取り出す。
その紙を、郁紀に差し出した。
「そこに書かれている電話番号は、明日の夜九時までは通じている。その時刻を一分でも過ぎたら、繋がらなくなる仕組みだ。それ以降、俺と連絡をとる手段はなくなる」
確かに、そこには電話番号が書かれている。郁紀は、おずおずと受け取った。
「俺の申し出が嫌だと思うのなら、君は何もする必要はない。ただ、電話をかけなければいいだけだ。そうすれば、俺との縁は切れる。誓って、今後は君の前に姿を現さないよ。だが、それでいいのかい? ここで、俺との縁を切ってしまっていいのかな?」
郁紀は、憑かれたような表情でペドロの言葉を聞いていた。
「さっきも言ったが、俺は嘘が嫌いだ。口にした約束は、必ず守る。また、君に何かを強制する気もない。嫌なら、何もしなければいいだけの話だよ。そうすれば、普段通りの平穏なる日常が戻って来るだけさ」
そう言うと、ペドロは立ち上がった。呆然となっている郁紀の前を通り、玄関へと歩いて行く。
だが、ドアの前で足を止めた。
「最後に、もうひとつだけ。もし君が、自分の信じる正義を執行したいと本気で願うのなら……知っておかねばならないことがある。本物の極悪人と戦うには、彼ら以上の凶暴さと残虐さが必要だ。そのためには、人間をやめなくてはならないんだよ。君に、その覚悟があるのかな? 残された時間を有効に使い、じっくり考えてみるんだ」
ペドロがどうやって帰ったのか、よく覚えていない。
気がつくと、部屋の中でひとり座り込んでいた。時計を見ると、既に十一時を過ぎている。確か、九時前には帰ってきたはずなのに。
その時になって、空腹を感じた。冷蔵庫に入れておいたご飯と総菜を胃の中に流し込み、寝床に入る。
だが、なかなか寝付かれなかった。
郁紀にはわかっている。もし、あの男と連絡をとってしまったら……自分は、恐ろしい世界へと足を踏み入れることになる。その場合、元の世界には戻れないだろう。
その事実が、とても恐ろしかった。恐ろしくてたまらない。
にもかかわらず、別の気持ちもある。
郁紀は、ペドロともう一度会いたかった。会って、話をしたい。あの男なら、自分を高みへと押し上げてくれる。これまで知らなかった世界を見せてくれる。
さらに、あの忌まわしい記憶を忘れさせてくれるかもしれない。