過去の記憶
それは、郁紀が十二歳の時のことだった──
ある日、彼のクラスに転校生が入ってきた。奥村紗耶香という名前であり、郁紀の隣の席に着くこととなる。
郁紀は、この紗耶香という少女に夢中になった。彼女は目鼻立ちがはっきりしており、手足が長くすらりとした体型だ。美しい顔立ちであると同時に、どこか謎めいた雰囲気をも醸し出している。とても魅力的な少女だった。
隣の席になったのを幸いとばかりに、郁紀は積極的に紗耶香に話しかけていく。少女は戸惑いながらも、隣の席に座る活発な少年からの話に応じた。
やがて二人は、一緒に遊ぶようになる。遊ぶといっても、どちらも小学校の六年生だ。しかも紗耶香の家は厳しく、門限にうるさいらしい。したがって、大したことは出来ない。学校の帰りの、ほんの僅かな時間を二人で過ごすだけだ。
それでも、郁紀は嬉しかった。紗耶香を連れて町を案内したり、公園のベンチで会話したり、一緒に駄菓子を食べたり……そんな他愛もないことに、幸せを感じていた。
だが、楽しい日々は唐突に終わりを告げる。
ある日、郁紀と紗耶香はいつものように帰り道を並んで歩いていた。
郁紀の語る言葉に、楽しそうに笑っていた紗耶香だったが……道で、いきなり足を止めた。その表情が、みるみるうちに強張っていく。さらに、体が小刻みに震え出した──
その変化を作り出した者が、二人の目の前に立っている。髪を金色に染めており、目つきは鋭い。痩せているが背は高く、病的な肌の色をしていた。銀のピアスを左耳に付けており、首にはタトゥーが入っている。
「紗耶香、こんなところで何をしてるんだ?」
嫌な感じの声だった。知性も優しさも感じられない。ただただ、不快な感情を声として発している……そんな印象しかない。郁紀は、思わず後ずさっていた。
だが、紗耶香の発した言葉は意外なものだった。
「お、お父さん……」
紗耶香の声は上ずっている。明らかに、恐怖によるものだ。郁紀は顔を歪めた。まさか、この男が彼女の父親なのか?
「最近、帰りが遅いから心配してたんだが……こういうことだったのか」
言いながら、父親は郁紀へと視線を移す。その目には、露骨な敵意が浮かんでいた。
「お前、誰だ?」
その問いに、郁紀は答えることが出来なかった。目の前にいる男は、あまりに恐ろしい。郁紀の周囲にいる大人たちとは、明らかに違う人種だ。彼は無言のまま、立ちすくんでいた。
すると、父親の表情がさらに険しくなる。
「誰だって聞いてんだろうが。クソガキ、なめてんのかコラ」
彼の声には、怒気がこもっている。郁紀は、どうにか答えようとした。が、言葉が出てこない。
その時、紗耶香が口を開いた。
「と、友達の山木くんです」
「友達?」
父親は、不快そうな表情で紗耶香の方を向く。
「俺は言ったよな、男の子の友達は作るなと。お前には、罰が必要だ。きっちりとしつけてやる。来い」
そう言うと、紗耶香の手を掴む。
強引に手を引き、大股で去って行った。紗耶香はなす術もなく、引きずられるように付いていく。
その刹那、一瞬だけ振り向いた。
懇願するような瞳で、郁紀を見ていた。助けて、と訴えているかのようにも見えた──
翌日、紗耶香は学校に来なかった。
次の日も、また次の日も。
郁紀は不安だった。いったい何が起きたのだろう。彼女の父親は、明らかに普通ではない。髪を染めているとかピアスを付けているという以前に、人として何かがおかしい。
あの父親に、何かされているのではないだろうが……そう思うと、いても立ってもいられなくなる。郁紀は、紗耶香の家を訪ねてみることにした。
紗耶香の家は、真幌市の外れにある安アパートだ。建物は古く、築ウン十年という雰囲気を醸し出している。二階建てで、階段はトタン屋根に覆われていた。郁紀は、中に入ったことはない。だが、家の前までは行ったことがある。
もっとも、今日は初めての訪問だ。郁紀は、勇気を出して近づいていく。確か、一階の角部屋だったはず──
「クソガキ、何しに来たんだ」
後ろから、不快そうな声が聞こえてきた。振り向くと、父親が立っている。染みの付いたジャージ姿で、足はサンダルだ。火の付いたタバコをくわえ、イラついた様子で郁紀を見下ろしている。
「あの、紗耶香……さんは、どうしたんですか?」
恐怖のあまり、心臓が破裂しそうだった。それでも、どうにか声を搾り出し聞いてみた。
すると、父親の顔がさらに歪む。
「てめえに関係ねえだろうが。殺すぞ」
直後、蹴りが飛んで来た。父親の爪先が、郁紀の腹に食い込む。これまで体験したことのない強烈な痛みを感じ、その場にしゃがみ込んだ。
さらに髪の毛を掴まれ、強引に上を向かされる──
「紗耶香はな、てめえみてえなガキと遊んでる暇はねえんだよ。次来たら、本当に殺すぞ。わかったか」
囁く声が聞こえた。郁紀は恐怖のあまり、必死で頷く。これ以上、暴力を受けたくない。
その時、髪を掴む手が外れた。もう一度、声が聞こえてくる。
「このことを誰かに言ったら、お前を必ず殺す。家に帰って、口を閉じてろ」
それから数日が経ったある日。
郁紀は、いつものように登校した。が、教室でとんでもない話を聞かされる──
「みんなに、大事な話がある。奥村紗耶香さんが、亡くなった……」
担任の教師は、沈痛な面持ちで語った。やがて、啜り泣きの声が聞こえてきた。「そんなあ……」「奥村さん、いい人だったのに」など囁き合う声も聞こえてきた。
教室にいる大半の生徒が、彼女とは話したこともなかったのだが。
紗耶香の死因は、暴行と衰弱によるものであった。義理の父親である奥村雅彦から手酷い暴力を受け続け、さらに一週間の断食を強制させられたのだ。食事も与えられず、殴る蹴るの暴行を受け続け、紗耶香は死亡してしまう。
犯人の雅彦は、以前よりその言動が問題視されていた。かつては手の付けられない不良であり、刑務所に服役していたこともある。やがて出所し、白土市に住んでいたが……そこで紗耶香の母・涼子と出会ってしまう。
雅彦は、シングルマザーの涼子と親しくなり、やがて籍を入れる。だが、それが不幸の始まりであった。雅彦は、涼子と紗耶香を暴力で支配する。二人に対する暴力は常軌を逸したものであり、やがて近所の人からの通報により、児童相談所の調査が入る。しかし、虐待の決定的な証拠を掴めぬまま調査は終わる。
その後、一家は真幌市へと引っ越した。すると、雅彦がこれまで行っていた虐待の記録は消滅した。前科と違い、そうした家庭の事情は転居先にまで付いて回ることはないのだ。
さらに、雅彦は同僚とトラブルを起こして、仕事を辞めてしまった、その後は、求職活動もせず日がな一日ぶらぶらしているようになる。紗耶香への虐待は、さらにエスカレートしていった。
そして、最悪の事態を迎えてしまう──
その夜、ニュースで紗耶香の事件が派手に報道された。中でも、彼女の書いた「誓約書」に関するニュースは大きく取り上げられていた。もちろん、自らの意思で書いたものではない。雅彦の命令により、強制的に書かされた文章である。
それは、あまりにも悲惨な内容だった──
(私は、お父さんの言い付けを破り、学校で男の子の友達を作ってしまいました。それだけでなく、勉強や家の手伝いをサボり、その友達と毎日遊んでしまいました。
私は、本当に悪い人間です。ですから、罰として二週間の休学と一週間の断食をします。これは、お父さんの命令でするのではありません。私が自分の意思で行います。
これからは心を入れ替え、お父さんのいうことをきちんと聞きます。その証として、これから断食を行います。頑張りますので、今後も御指導、御鞭撻をお願いします)
この文章を、女子アナウンサーが悲痛な面持ちで読んだ。言うまでもなく、休学も断食も雅彦の強制である。しかも休学している間「指導」と称した暴力を受け続けたのだ。紗耶香の体は痣だらけで、針金のように痩せており、体重は二十キロを割っていた。
コメンテーターは、皆一様に険しい表情で容疑者に厳しい言葉を吐く。中には「この父親を呼んでこい! 俺がブン殴ってやる! こんな奴、死刑にしちまえ!」などと怒鳴った者までいた。さらに、市役所や児童福祉課には大量のクレームが寄せられたという。
もっとも一月後には、この事件も忘れられていた。ワイドショーは芸能人のスキャンダルを取り上げ、アナウンサーやコメンテーターの攻撃の矛先は、その芸能人へと移っていた。
だが、郁紀にとって事件は終わっていなかった。
彼の心から、女子アナウンサーの読んだ文章が離れてくれない。あの文に登場した友達とは、間違いなく郁紀のことなのだ。
自分の存在が、行動が、紗耶香に死をもたらしてしまった──
しかも、郁紀にはわかっていたのだ。あの父親が、異常だということを……にもかかわらず、恐怖に震え何も出来なかった。
(このことを誰かに言ったら、お前を必ず殺す)
あの時、雅彦の吐いた言葉に、郁紀は震えながら頷いた。何度も何度も。
暴力による痛みよりも、恐怖の方が強かった。紗耶香を心配する気持ちなど、完全に消え失せていた。ただただ、無事に家に帰りたい……その思いだけが、あの日の彼を支配していた。
あの日、俺が警察に駆け込んでいれば、紗耶香を救えたのかもしれない──
紗耶香が死んだことを知った日から、郁紀の心の中にある何かも死んだ。彼は、自分をどうしても許すことが出来なかったのだ。
恐怖に負け、無様に逃げ出した自分を。
以来、郁紀は体を鍛え始めた。狂ったかのように鍛え続けた。まるで、己に罰を与えるかのように。
やがて、郁紀は夜の町に出る。たったひとりで飲み屋の並ぶ通りを徘徊し、ヤンキーやチンピラや酔っ払いを相手に殴り合う。時には、大人数を相手にひとりで大立ち回りをすることもあった。入り組んだ路地の地形を利用してひたすら逃げ回り、相手の息が上がったところで反撃する。結果、全員を病院送りにしたのだ。
自暴自棄になっていたとはいえ、あまりに無茶な行動である。だが皮肉にも、町中で喧嘩を繰り返す日々は、郁紀の格闘技術をどんどん高めていった。もはや、町のチンピラレベルの人間では、郁紀に太刀打ちできる者などいない。
いつしか郁紀は、暴力のもたらす快感に酔っていた──