板尾の自信
郁紀は、白土市に到着した。
駅を出て周囲を見回すと、真昼間だというのに妙に重い空気が漂っている。駅前は、一見すると華やかではあるが、初見の旅行客を歓迎していない雰囲気に満ちている。しかも、道を歩く人たちは、露骨に嫌な感じの視線を投げかけてくるのだ。よそ者め、何しに来た……とでも言わんばかりである。
今の日本に、こんな場所があるとはな──
思わず顔をしかめる。どうやら自分は、招かれざる客らしい。
まあいい、旅行に来たわけではないのだ。
桑原徳馬が、白土の事務所にいる。
そんな噂を耳にしたのは、二日前だった。念のため何人かのチンピラを脅してみたが、全員が同じことを言っていた。
郁紀は首を捻る。桑原興行の社長の行動にしては、あまりにもお粗末だ。狙われていることを知っていながら、周囲の人間に行き先をベラベラ喋るとは。
しかも、その情報が町のチンピラにまで洩れているのだ。
普通なら、罠を疑うだろう。だが、郁紀には確信めいた思いがある……これは、罠ではない。桑原は、決着をつけようとしているのだ。彼の意図を、はっきりと読み取った。
ならば、受けてやる。
郁紀は歩き出した。駅前の大通りを、真っすぐ進んでいく。駅から少し離れると、そこには寂れた商店街が広がっていた。開いている店は二三軒しかなく、あとはシャッターを閉めた店が連なっている。人の気配はほとんどなく、通行人も地元民と思われる数人の老人だけだ。
こんなゴーストタウンのごとき商店街の先に、桑原興行の事務所があるらしい。郁紀は、周囲に気を配りつつ歩いていく。
しかし、すぐに異変に気づいた。どこかから、車のエンジン音が聞こえてきたのだ。
振り返ると、商店街の真ん中に車が侵入してくるのが見えた。黒いバンが、真っすぐこちらに走って来る。拉致するのが目的なのは、バカでもわかる。
郁紀は、さっと脇道に逸れた。すると、車は止まった。同時に、三人の若者が降りる。全員、人相が悪い。明らかに堅気ではない若者たちだ。後を追って脇道に入って来た。絶対に逃がすまい、という勢いで慌ただしく追って来る。
その瞬間、先頭にいた若者の顔面を郁紀の拳が襲う。完璧な不意討ちであり、避けようがない。若者は顎にパンチを受け、ばたりと倒れる。
続いてやって来たふたりもまた、何の警戒も無しに飛び込んで来た。結果、同じ運命を辿る。一撃で倒され、地面にはいつくばっていた。
郁紀は、倒れた三人を見下ろす。こいつらは、どこまでバカなのだろう……と思った直後、とんでもない気配を感じた。さっと顔を上げる。
足音が聞こえる。こちらに、真っすぐ近づいて来ている。郁紀は下がりつつ、周囲を見回した。瞬時に、どう動くか考える。
姿を現したのは、岩のような巨体を持つ男だ。髪は短く耳は潰れており、首は異様に太い。その太い首が盛り上がった僧帽筋へと繋がり、がっちりした肩へと続いている。
一目で、格闘技をやっていたとわかる体つきだ。しかも、体重は軽く百キロを超えている。不意打ちでも、一撃で倒すのは不可能であろう。
「お前か、山木とかいうアホガキは。ずいぶんと好き放題やってくれたそうだな」
大男は、のっそりと歩いて来た。本当に大きな体だ。郁紀のような、常人の骨格に筋肉を付け大きくしたような体とは違う。もともとの骨格や肉の付き方からして、両者には大きな隔たりがあるのだ。その違いは、格闘において大きな差となる。打撃の威力や、組んだ時の差となって現れるのだ。
さすがの郁紀も、じりじりと下がっていく。その様を見て、男は笑った。
「俺は、桑原興行の板尾だ。昔は力士だった。この業界じゃあ、そこそこ知られてるよ。お前みたいな素人じゃあ、百パー勝ち目はねえ。おとなしく、おじさんと一緒に来な」
「よく喋るおじさんだな。だったら、おとなしくさせてみろよ」
軽口を叩く郁紀だったが、板尾という男の言葉が嘘やハッタリでないことはわかっていた。
「しょうがねえ奴だな。だったら、肋骨の五六本と腕の一本くらいは覚悟しとけよ」
言った直後、板尾の巨体が襲いかかる。図体だけの男ではない。相撲という格闘技にきっちり打ち込み、鍛え上げてきたのはわかる。
この男、確かに強い。だが、ペドロほどではない。そう、ペドロに比べれば雑魚だ。
突進して来る板尾。百九十センチに百四十キロの巨体は、それだけで凶器となる。
おまけに、板尾は元力士なのだ。二百キロ近い大男たちの中で鍛えられてきた力士の強さは、尋常なものではない。素人ならば、張り手一発でノックアウトさせられるほどの殺傷能力の持ち主だ。この強さは、実際に立ち合った者でない限りわからない。郁紀とて、真正面から闘えば倒されていただろう。
だが、郁紀はそうしなかった。向かって来る板尾の巨体を、サイドステップで躱した。
直後に背を向け、一目散に逃げ出した。
「このガキャ! 待ちやがれ!」
当然ながら、板尾は後を追って来る。郁紀は逃げるが、先が行き止まりなのを見てとった。脇に建っているビルに入り込む。
階段を上がり、逃げていった──
「ここに逃げ込むとは、バカな奴だ」
板尾はほくそ笑む。このビルには、階段がひとつあるだけだ。しかも、全ての部屋に鍵がかかっている。屋上に出る扉にも、鍵はかけられているのだ。窓も小さく、郁紀が出られるような大きさではない。商店街周辺の建物の構造は、ほぼ完璧に頭に入っている。だからこそ、この場所で仕掛けた。
今や、郁紀は完全に袋のネズミである。奴がここから脱出するには、板尾を倒すしかない。
だが、そんなことは不可能だ。元力士である自分が、喧嘩自慢のチンピラに負けるはずがない……板尾は、自身の勝利を確信した。こうなれば、急ぐ必要はない。ゆっくりと、確実に追い詰める。板尾は、慎重に階段を登って行った。
この板尾、確かに強い。かつては、将来を有望視された力士だった。ところが、ヤクザとの付き合いや賭場の出入りをマスコミにすっぱ抜かれ、廃業と相成った。その後は桑原徳馬と出会い、彼のボディーガードを十年以上務めてきた。今も鍛練は欠かしていない。
しかし、実際に切った張ったの現場に出ることはなくなった。実戦から離れ、ただ桑原の身の安全だけを見ている日々……それが、彼の神経を鈍らせていた。
致命的なのは、板尾自身はその事実に気づいていなかったことだ。
最上階の踊り場にて、郁紀は突っ立っていた。しかも、両手を後ろに組んでいる。休めの姿勢そのままだ。逃げようという気配はなく、こちらをじっと見ている。どうやら観念したらしい。
「いい心がけだ。さあ、おじさんと一緒に来な」
言いながら、板尾は階段を上がっていく。その時になって初めて、自身の呼吸の乱れに気づいた。さらに、下半身にも少なからず疲労がある。百四十キロという体重を背負っていると、階段の上り下りはきついのだ。彼の強靭な肉体にも、かなりの影響を及ぼしていた。
それでも板尾は、郁紀を捕らえるべく階段を上がっていく。彼は、己の強さに絶大の自信を持っていた。大相撲の世界で揉まれてきた彼から見れば、郁紀がいかに強くても、しょせん素人に毛の生えたレベルだったのである。
確かに、お互いがベストの状態で素手での闘いならば、郁紀の勝ち目は薄かっただろう。しかし、今の板尾はスタミナをロスしていた。疲れている時は、考えることが面倒になる。用心することもまた、面倒になる。
しかも板尾は、郁紀を完全にナメていた。それゆえ、欠片ほどの警戒心もないまま安易に近づいて行ったのだ。
それは、真剣勝負において命取りであった。
板尾が階段を上がって来た瞬間、郁紀が動いた。瞬時に間合いを詰め、板尾に近づく。同時に後ろに組んでいた手が、いきなり振り上げられる。その片手には、何か赤いものが握られていた。
次の瞬間、板尾の顔に消火器が噴射された──
板尾は、完全に不意を突かれた。目に大量の消化剤が入り、思わず吠える。
「てめえ! ふざけやがって──」
口を開けた瞬間、気管にも消化剤の粉が入る。板尾は呼吸困難に陥り、思いきり咳込んだ。階段で咳込めば、どうなるか……バランスを崩し、転倒する危険性が高い。
板尾の身にも、同じことが起きた。バランスを崩し、よろめく。視界が粉によって塞がれ、気管には粉が入り、足には階段を上がって来たことによる疲労が蓄積している。こんな状態で、耐えられるはずがなかった。
彼の巨体は、階段を一気に転げ落ちていく。下の階で、うつぶせに倒れた。
倒れた彼を、じっと見下ろす郁紀。その目には、何の感情も浮かんでいなかった。やるべきことをやった、ただそれだけである。立場が逆だったら、自分がこうなっていただろう。生死は不明だが、どうでもいい。この巨漢は、しばらく動けなくなったのは確かだ。生きていようが死んでいようが、大した差はない。
残るは、桑原徳馬ただひとりだ。郁紀は、速やかに階段を降りて行く。
恐らく、桑原も自分を待っているはず。奴は、自分と同類だ。こういう状況になれば、自身が闘わずにはいられない。
桑原は、商売人ではない。良くも悪くも、根っからの武闘派なのだ。
もっとも、郁紀の最終目標は……桑原徳馬ではない。あの男は確かに強いだろう。しかし、所詮は通過点だ。
桑原を仕留めたら、ペドロは必ず出て来るはず。郁紀の目的は、あの怪物を仕留めることだ。