奥村雅彦の末路(1)
「お、お前! こんなことして、ただですむと思ってんのか! 俺はな、桑原興行だぞ!」
奥村雅彦は吠え、目の前にいる若者を睨みつける。だが、若者は怯まない。
「くわばらこうぎょう? 聞いたことねえな。桑原だか吉本だか知らねえがな、そんなもん関係ねえんだよ」
「ふ、ふざけるな! もし俺に何かあったら、桑原さんが黙ってねえぞ! お前みたいな雑魚、生まれてきたことを後悔──」
言い終わる前に、左拳が飛んだ。左拳は顔面に炸裂し、奥村はたまらずしゃがみ込む。両手で顔を覆い、呻き声を上げた。
「うるせえよ。黙って人の話を聞け」
奥村を見下ろしす郁紀の目は、氷のように冷たい。声もまた、ひどく冷静であった。
・・・
昨夜は、あまり眠れなかった。
初めて人を殺した、あの日よりも緊張しているのがわかる。郁紀は、異様な気分で床に入った。
いつ眠りについたのか、全くわからない。しばらくは、異様な興奮に支配されていたのは覚えている。
今日もまた、ペドロの運転する車に乗った。一時間ほど走り、到着した場所は……またしても、あの廃墟である。
中に入っていき、階段を下り、暗い廊下を進み、重い鉄の扉を開けた先には、だらしない顔で眠りこけている男がいる。安物のスーツ姿で、ネックレスやブレスレットなどのシルバーアクセサリーをあちこちに付けていた。
繁華街をうろつくチンピラ、といった風情だが、郁紀にはわかる。間違いなく奥村雅彦であった。髪の色は黒くなっているが、顔つきは昔とほとんど同じだ。既に四十歳を過ぎているはずだが、妙に若く見える。ピアスを付けているのは、昔のままである。
何より、首に彫られたタトゥー………忘れようもない。
初めて会った時、異様に大きく強そうに感じた奥村。しかし今、目の前で寝ている男は、笑いがこみあげてくるくらい貧弱に見えた。路上で叩きのめしたチンピラよりも、遥かに弱いだろう。
「後は、君の好きなようにしたまえ。俺は、上の階で待っている。仮に死体に変えたとしても構わない。俺がきっちり始末するよ」
そう言い残し、ペドロは去っていく。室内には、郁紀と奥村の二人だけが残された。
郁紀は、じっと彼を見下ろす。今は、奥村にとって最悪の状況であろう。にもかかわらず、平和な顔で眠りこけている。
腹が立ち、尻を蹴飛ばした。すると、僅かに動いた。だが、目を覚ます気配はない。
もう一度、蹴飛ばした。そこで、ようやく目が開く。
郁紀と、目が合った。
「あ、あれ……お前、誰だ?」
その声は、ひどく間が抜けていた。いらついた郁紀は、どんと足を踏み付ける。
すると、奥村は叫んだ。
「お、お前! こんなことして、ただですむと思ってんのか! 俺はな、桑原興行だぞ!」
・・・
「おっさん、俺のこと覚えてるか?」
郁紀は、静かな口調で尋ねる。だが奥村は、首を横に振った。
「し、知らない。俺は、あんたなんか知らない。これは、何かの間違いだ──」
べらべらと言葉を並べ立てる奥村に苛立ち、郁紀は彼の襟首を掴み、力任せに引き寄せる。すると、ヒッという声を漏らして口を閉じた。
見れば見るほど、惨めな男だった。ガリガリに痩せこけており、腕は箒の柄のように細い。頬の肉が削げ落ちているのは、恐らく覚醒剤の影響だろう。やろうと思えば、素手でも三秒で殺せる。
こんな奴に、俺はビビってたのか。
そのせいで、紗耶香は死んだのか。
新たな怒りが、体の奥底から湧き上がってきた。今すぐ、殴り殺してやりたい──
強い殺意を、どうにか押さえ込んだ。奥村に顔を近づけ、ゆっくりと囁く。
「俺はな、奥村紗耶香の友だちだったガキだよ。まあ、覚えてなくても仕方ない。だがな、俺は忘れたことはない……お前の面と、紗耶香のことをな」
「さ、紗耶香……」
言ったきり、口が半開きになった。呆然とした表情で、郁紀を見つめる。ようやく、事態が飲み込めてきたのだ。
そんな奥村に顔を近づけていき、囁くような声を出した。
「俺はな、紗耶香のことを今も覚えている。お前が何のために連れて来られたか、これでわかっただろう」
「ま、待ってくれ! お願いだ! 許してくれ! なんでもするから許してくれ──」
「ちょっと待てよ。お前にひとつ聞きたい。紗耶香は、許してくれといわなかったのか?」
途端に、奥村の表情が変化する。目がせわしなく動き、あちこちに視線を泳がせる。動揺しているのは明白だ。さらに、どう言ってこの場をごまかそうか……という姑息な考えも読み取れた。
その点には一切触れず、あえて優しげな表情を作り尋ねてみた。
「どうなんだ? あいつは、許してくれと言わなかったのか?」
「い、言ってない……そうだよ、あいつは言わなかったんだ。ははは……紗耶香は、何も言わなかった。だから、俺も気付かなかったんだ。言ってくれれば、ちゃんと気付けたんだよ」
「そうか。紗耶香は、何も言わなかったのか」
親しげな口調で言うと、奥村はウンウンと頷いてみせた。
「あ、ああ。そうなんだよ。言ってくれれば、俺もすぐに病院に連れていけた。そうすれば、あいつも死なずにすんだんだよ」
「つまり、僕は何も悪くない。悪いのは、自分の体調を黙っていなかった紗耶香の方だと、そう言いたいのか?」
言った直後、郁紀の表情が一変する。奥村は、慌てた様子で首を横に振った。
「い、いや、そうは言ってない。俺、俺が言いたいのはだな……あ、あれは不運な事故だったってことだよ。そう、不運な偶然が重なって、あんなことになっちまったんだ──」
その瞬間、郁紀の拳が飛ぶ。
拳は顔面に炸裂し、奥村はまたしても倒れた。
「だったら、俺がお前を殺すのも不運な偶然だよな。不運だから仕方ない、ですまされるよな」
言いながら、倒れた奥村に手を伸ばす。襟首を掴み、ぐいと引き寄せた。
すると、奥村は震えながら口を開く。
「ま、待ってくれ……お願いだから待ってくれ。頼むから、俺の話を聞いてくれ。あれはな、母親が悪いんだ。そう、あいつの教育が悪いから、紗耶香は死んだんだ」
「お前は、どうしようもないクズだな。てめえのやったことを、全て他人に責任転嫁している。悪いのは俺じゃない、あいつだ……ってわけか。お前は、本当に何も反省してない。生きていてる価値もないな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 頼む! お、俺を殺したって紗耶香は帰って来ないんだよ──」
言葉の途中、再び拳が放たれる。
拳は奥村の鼻に命中し、彼は仰向けに倒れた。
「確かに、お前の言う通りだな。お前を殺しても、紗耶香は帰って来ない。けどな、それを殺した側の人間が言うとはね。いやはや、恐れ入ったよ」
「た、助けて……金なら、これから作る。お願いだから、殺さないでくれ」
奥村は、震えながら声を搾り出す。殴られても殴られても、言い訳を止めようとしない。
彼にはわかっている。目の前にいる若者は、ただの喧嘩自慢のチンピラではない。人を殺せる男だ。その瞳には、本物の殺意がある。
まだ死にたくない。奥村は生きるためなら、なんでもする。土下座も、靴をなめることもためらわない。
殺されないため、今は喋り続けるのだ。
「俺を生かしておけば、あんたに必ず儲けさせてやる──」
「安心しろ、殺しはしない。お前には生きていてもらうことにしたよ。生きて、罪を償うんだ」
突然、郁紀は動いた。奥村の右足首を掴み、力任せに引き寄せる。とっさのことに、奥村は抵抗も出来ずされるがままだ。
郁紀は奥村の右足首を脇に挟み、太ももを己の両足でロックする。
右足首を、一気に捻り上げた。
グキン、という奇妙な音が鳴る。続いて、奥村の悲鳴が上がった──
これは、ヒールホールドという関節技だ。相手の足首を小脇に抱えて捻り、膝関節を破壊する技である。抱えている足首は、あくまで膝関節を外すためのハンドルの役割を果たしているだけなのだ。膝に障害が残ることもあるため、禁じ手にしている格闘技団体もあるくらい危険な技である。
そんな危険な技を、手加減なしで奥村にかけた。手応えからして、膝の靭帯を完全に破壊したはず。この先、何年経とうが、以前と同じように歩くことは出来ない。
「どうだ、痛いだろう。だがな、まだ終わりじゃねえぞ」
冷酷な表情で言い放つ。一方、奥村は狂ったように泣き叫んだ。床を転げ回り、この場から逃れようとする。
だが、それは無駄な努力だった。
「た、頼むから病院連れていってくれ……足が、足が……」
必死で哀願する奥村を無視し、もう一方の足首を掴む。
先ほどと同じ、ヒールホールドをかけた──
グキン、という音が響く。一瞬遅れて、奥村が悲鳴を上げた。
「ひとつ覚えておけ。痛みは、生きている証拠だ。けどな、紗耶香は痛みを感じることすら出来ないんだよ」
言いながら、郁紀は奥村の右腕を掴む。
奥村は、何をされようとしているのか察した。両手を振り回し、必死で抵抗する。
それは、無駄な努力だった。
「安心しろ。殺しはしない。殺したら、罰はそれで終わりだからな。お前には生きてもらう。生まれたことを悔やみながら、この先も生き続けるんだ」
やがて、郁紀は部屋から出てきた。階段を昇り、上の階に行く。
先ほどの言葉の通り、ペドロはそこにいた。壁にもたれかかり、冷静な表情でこちらを見ている。
郁紀は、口元を歪めた。
「ペドロさん、あんたに頼みたいことがある」