狂気の一夜(2)
あれ、なんだ?
確かに今、部屋の隅に何かが見えたのだ。郁紀ははっとなり、そこに目を凝らす。
何もいないように見える。だが、確実に何かいるのだ。はっきりとその存在を感じ取っていた。
なんだこれ──
ひょっとして、幽霊と呼ばれているものだろうか。郁紀は、じっと目を凝らす。
視線の先には、何かがいる。はっきりとは見えないが、暗闇の中に存在していた。郁紀の心に、恐怖が湧き上がる。
すると、後ろから声が聞こえた──
「どうして?」
郁紀はハッとなり、周囲を見回す。だが、何もいない。
何もいない? そんなはずはない。確かに、何者かの声を聞いたはずだ。
では、幻聴か?
その時だった。またしても声が響く。
「どうして、助けてくれなかったの?」
間違いない。後ろから、何者かの声が聞こえた。
郁紀は、バッと振り返る。その途端、愕然となった。
部屋の様子は、今までとは全く違うものになっていた。闇に覆われているのは変わらないが、今でははっきりと見える。床に散らばるゴミ、宙を舞っている埃、壁や天井をカサカサ移動する虫たち。暗闇の中にいるはずなのに、はっきり見えているのだ。
さらに向こう側の壁から、青ざめた顔の少女出現した。
少女は、ゆっくりと近づいて来る──
「どうして?」
郁紀は、恐怖のあまり全身が凍りついていた。有り得ない。こんな少女は、先ほどまでいなかったはず。
それ以前に……この少女には、見覚えがある。どこかで、会ったことがあるのだ。
「どうして、助けてくれなかったの?」
少女は、はっきりと言った。その途端、郁紀は愕然となる。
目の前にいるのは、紗耶香だった──
「あたしは、君のせいで死んだんだよ」
言いながら、紗耶香は近づいて来る。郁紀は、その場にへたり込んだ。腰が抜け、動くことが出来ない。全身を恐怖に支配され、がたがた震え出していた。
「そんな……お、俺は知らない。知らなかったんだ。あんなことになるなんて思わなかった……」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。
そんなはず、ないのに。
「知らないわけない。君は、あいつと会った。話もした。あいつがどんな人間か、君は知ってたよね。なのに、何もしてくれなかった」
紗耶香の言葉は、容赦なく郁紀の心をえぐる。それは、殴られるよりも痛かった。小さな刃物で、足や腹をぐさぐさ刺されているような気分だった。
耐え切れなくなり、郁紀はその場で土下座する──
「許してくれ。こんなことになるなんて思わなかった。俺は、怖かったんだ……」
顔を歪めながら、郁紀は言葉を搾り出した。しかし、紗耶香はせせら笑う。
「許してくれ? 何言ってるの? 許せるわけないじゃん。怖かった? あたしの方が、数百倍怖かったよ。あんたのせいで、あたしは死んだんだから」
「そ、そんな……」
郁紀は、床に何度も頭を付ける。だが、こんなことをしても無意味なことはわかっていた。紗耶香の言うことは正しい。自分が許されるはずはないのだ。
その時、頭上から声が響く。
「本当に悪いと思ってるなら、死んで」
「えっ」
思わず顔を上げた。
紗耶香は、冷たい表情でこちらを見ている。いつのまにか、小学生の姿ではなくなっていた。成長した女性の姿……にもかかわらず、紗耶香だとわかる。
「あんた、悪いと思ってるんでしょ? だったら、死んでよ。今すぐ、この場で死んで」
言葉の直後、紗耶香は消えた。
郁紀は、慌てて室内を見回す。だが、彼女の姿はどこにも見当たらない。室内から、完全に消えていた。
いったい、どうなっているのだろう──
「早く死んで」
耳元で、囁くような声が聞こえた。郁紀は、震えながらそちらを向く。
そこに、紗耶香がいた。凄絶な表情で、ゆっくりと語る。
「あんたのせいで、あたしは死んだ。大人になれずに死んだ。だけど、あんたはあたしより七年も長く生きた。もう充分でしょ。今すぐに、死んで見せてよ。どうせ、生きてても仕方ない人生でしょ?」
その通りだ。
十二歳で、人生を終えてしまった紗耶香。一方、自分はおめおめと生き抜いている。無様な姿を晒している。
しかも、他者に対し胸を張れるような生き方はしていない。人に暴力を振るって生きて来た。世の中にとって、何ら役に立っていない。
「それに……あんたが死んで、誰が悲しむの? あんたが死んで、泣く人はいるの?」
いない。
両親は既に亡くなり、家族と呼べる者はいない。友と呼べる者もなく、将来もなく、居場所もない。
自分は、何のために生きている?
「そうでしょ? あんたは、生きてても仕方ないんだよ」
そうだ。
俺は、生きていても仕方ない人間だ。
「わかったみたいだね。だったら、そこにあるナイフを掴んで」
紗耶香は、床の上を指差した。そこには、錆びた果物ナイフが落ちている。
「それを首の動脈に突き刺せば、あんた死ねるから」
俺、ここで死ぬのか。
「さあ、早く死んでよ」
そうだよな。
死んで詫びるしかないよな。
心の声の命ずるまま、郁紀はナイフを振り上げる。
その時だった。
(何も成さず、哀れな犯罪者として人生を終える……そんな終わりを、君は望むのかい?)
脳裏に蘇った言葉……誰のものであるか、考えるまでもない。あの男だ。
(全ての発端である人物・奥村雅彦氏を探しだし、君の元に連れて来る)
ペドロは、はっきりとそう言ったのだ。その言葉が、血液のように郁紀の五体をゆっくりと巡っていく……そんな、奇妙な感覚に襲われた。
直後、郁紀はナイフを投げ捨てていた。カラン、という音が室内に響く。その音は、やけに大きく聴こえた。心なしか、音にエコーがかかっているような気もする。
だが、そんなことはどうでもいい。紗耶香には、告げなくてはならないことがある。
「ごめん。やっぱり、俺まだ死ねないわ」
その途端、紗耶香の目が吊り上がる。
「どうして?」
「あいつは……ペドロは言ったんだよ。お前を殺した奥村雅彦を、俺の目の前に連れて来てくれるってな。だから、俺はまだ死ねないんだよ」
言いながら、郁紀は立ち上がった。先ほどまでとはうって変わって、不敵な表情で紗耶香を見つめる。
「俺は、ペドロの課す試練に耐える。そして、必ず奥村雅彦にケジメ取らせる。あいつに、生まれて来たことを後悔させてやるよ。それこそが、お前に対する償いだ」
語っているうちに、郁紀の体内に得体の知れない何かが漲ってくるのを感じていた。その何かをはっきりと意識しつつ、郁紀は喋り続ける。
「だから、俺は自殺なんかしない。ここで、自ら死を選ぶなんて出来ないんだよ。俺にどうしても死んで欲しいなら、この場で殺せ。止めないからよ。お前になら、殺されてもいい」
そこで郁紀は言葉を止めた。もはや、紗耶香への恐怖はない。裡から湧き出るドス黒い感情が、彼の体を支えていた。
「殺したければ殺せ。でも、自ら死ぬのはごめんだよ。俺は自殺なんかしない。あいつを、奥村をこの目で見るまではな」
そこまで言った時、ようやく気づいた。
自分の発する声が、妙に大きくはっきりと聞こえる。しかも、エコーがかかっているようにも感じるのだ。
これは、明らかに普通の状態ではない。
俺は、夢を……いや、幻覚を見せられているのか?
ようやく、郁紀の頭が働き出した。視覚や聴覚といった感覚が、通常とは違う状態なのだ。その狂った感覚が、幻覚を見せている……深呼吸を繰り返し、心を平静に保とうと試みる。
その時、郁紀は思い出した。
そうだよ。
俺は、ペドロに薬を飲まされたんだ。
排便をコントロールする薬だとか言ってたが、あれは幻覚剤だったんじゃないのか。
数時間が経過した。
既に陽は昇り、日光が室内を明るく照らしている。そんな中、郁紀は床に座り込んでいた。
不意に、ガチャリという音が聞こえた。次いで、金属のきしむ音とともにドアが開く。
立っていたのは、ペドロであった。郁紀に向かい、笑顔で口を開く。
「おはよう。無事だったようだね」
「無事だあ? ふざけんじゃねえよ……あんた、俺にドラッグ飲ませたな? 何が、排便を抑制する薬だよ。嘘つくんじゃねえ」
これまでとは違い、ぞんざいな口調だ。ペドロに対する態度も、ふてぶてしいものである。あぐらをかいた体勢のまま、じっと彼を睨みつけている。
あまりにも無礼な態度ではあるが、ペドロは気分を害してはいないらしい。むしろ、満足げな様子だ。
「いいや。あれは確かに、排便を抑制する薬だったんだよ。幻覚剤は、水の方に入っていたのさ。それにしても、大したものだ。常人がアレを飲んだら、ほとんどが耐え切れずに発狂してしまうんだがね。自殺してしまった者も少なくない」
とんてもないことを、平静な表情で語った。その言葉は大げさではない。あの薬は、郁紀を殺しかけたのだから。
しかし。郁紀の中に怒りはなかった。代わりに、笑いがこみあげてきた。ペドロの怪物ぶりには、もはや笑うしかない……そんな心境であった。
「あんたって男は、悪魔の生まれ変わりみたいだな」




