電車の中でスマホを眺めている人々
電車の中でスマホを眺めている人々
僕が思うに、現代社会において最も問題になっているのがスマホを眺めている人々だと思います。
山手線の車内の中で、座席に座っている人のほとんどがスマホをいじっています。
そして僕もその例に漏れることはありません。
でもどうして彼らはスマホをいじっていると思いますか?
そんなどうでもいいようなことについて少し考えてみたいと思っています。
他人の動向について考えてみたいということになれば、自分自身がどうしてそのようなことをやるかということを、他人の視点に立って考えてみるのが一番いいことでしょう。
まず、電車の中で座席に座って待っていると、僕はどうしても暇です。
だから退屈しのぎをするために、僕は普段何かをしています。
というわけで、僕は普段ずっと電車の中で座っている時はスマホをいじっています。
それから僕はよく読書をやっていますが、生憎ながら電車の中で読書をやっている人はあまりいません。
最近は電車の空き時間の最中に片手間で読書をすることができる方法が書店の中では流行っているようですが、それもあまり効果を発揮していないようです。
人々は読書をするのではなくて、スマホをいじっています。
このことから分かることは、人々は読書よりもスマホの方を、容易にいじることができるということです。
読書はなかなかそうやすやすとできるものではありません。
大江健三郎さんの文章を読むということになれば、それはそれで非常に困難なものです。
そして活字を読むということはとても大変な作業なのです。
皆さんがこうやって僕の文章を読んでいる際にも、とても苦痛なのかもしれません。
読書をすることとスマホでゲームをすることと、一体どちらがたやすいことでしょうか。
ということになれば、活字を読むよりもおそらく、ゲームをやった方が楽なのでしょう。
スマホを操作するということは誰にでもできるということなのです。
簡単なのか難しいのかということで、電車の中でもこのような傾向が見られます。
単に難易度の問題で片付く問題ではないと思いますが、ある一つの視点で考えればそのような結論が出ます。
皆さんは普段ゲームをやっているでしょうか。
僕はゲームをほとんどすることができませんが、皆さんの中には普段ゲームにのめり込んでいる人がたくさんいるのかもしれません。
そもそも電車の中でゲームをやっているのかどうかすらもよく分かりません。
スマホをいじっていても、その人がスマホで一体何をやっているかということまでは分かりません。
実はそこにも、何か重要なことが隠されているのではないでしょうか。
スマホをいじっていれば、他の人もスマホをいじっているから行動が均一化されることになります。
つまり、他人と同化することができるということではないでしょうか。
座席に座っていてもつり革につかまっていても、スマホをいじるということで 、それが雰囲気になっているのかもしれません。
日本人という人種は雰囲気をとても重視する人種ですから、これはあながち、間違いとも言えません。
こんなことを考えていると、僕はおそらく、科学者には全然向いていないと思います。
自然科学者が日々、どれほどのデータをいじりながら、色々と理論を組み立てていくことでしょうか。
データを分析するということは現代社会の中でも最も求められる素養だと思いますが、僕にはそのような能力が決定的に欠けているのです。
これはとても致命的だと思いますが、自分自身でもどうしようもないものです。
データを分析するよりかは、日記を書いた方が僕としてはとても嬉しいものです。
僕は本当に現代社会には向いていないと思っています。
だからひょっとしたら社会的な問題も、独創的な視点で見ることができるのかもしれません。
この世の中にはあまりにも多くの社会問題が寝転んでいますが、それを叩き起こすということもとても大事なことなのでしょう。
それが目覚めてくれなければ我々は、その問題について感知することができないからです。
叩き起こすという作業こそがひょっとしたら、文学で何かを訴えるということなのかもしれません。
まあそんなことを書いてみましたが、一向にネタがありません。
明日までにいろいろと取り寄せてきます。
それでは、Bye!