なにがあっても、その箱は開けられません
「何処もかしこも物騒なことばかりだな」
と三蔵は溜息をつく。
街で久しぶりに文化的な生活を送ったあと、一行はまた山道を進んでいた。
「どうしたら、平和な世になるんだろうな、悟空」
「お前が旅を続けてたら、とりあえずは平和になるんじゃないか?
その男の上から退けよ」
その言葉に、三蔵は踏みつけていた山賊の背中から足を下ろした。
襲いかかってきた山賊どもを悟空たちが倒したあと、ちょっぴり恨みを込めて踏んづけてみたのだ。
「おっ、いい女が居るじゃねえかっ」
と僧侶の衣を身にまとっているのに、襲われかけたからだ。
「お前、哀れな人間たちを救うのが仕事なんだろ?
一度、悪党になった奴はもう救わなくていいのか?」
コテンパンにされた挙句に踏んづけられていた毛深い男を見下ろしながら、悟空がそう言ってくる。
この男がリーダー格らしく、すぐにそれを見破った悟空に男がやられると、あとは散り散りに逃げ出していってしまった。
こういう連中が暑いのに毛皮の衣を身につけているのは、自分が大型のケモノをも打ち倒せるということを他に知らしめるためだろうかな、と思いながら、三蔵は倒れた男を見ていた。
まあ、結構弱かったから、そう見せかけているだけで、実際は商人から買ったものだったのかも知れないが。
「死ぬほど痛めつけられたら、後悔して、真人間になるかもしれないだろ」
私はちゃんと救っている、と三蔵が言うと、
「暴力でか」
と悟空が言ってくる。
いや、真っ先に殴りかかったの、お前だろ。
どうにもこうにも、うるさい猿だ、と戦いから逃げるように後退していた、ちょっぴり薄情な白龍の許に戻ろうとしたとき、
「お師匠様ー、この先に野営できそうなとこありましたよー」
と相変わらずの間延びした口調で、八戒が呼びに来る。
だが、そのあとには、たらたらと不満が続いた。
「もう~っ。
さっきの寺に泊めてもらえばよかったのに。
なんであいつらに箱の中の袈裟を見せてやらなかったんですか~」
或る大寺院に寄ったとき、格好のみすぼらしさを理由に宿を断られたのだ。
「駄目だ。
あれは必ず争いを呼ぶ」
太宗皇帝にいただいた装束を箱に仕舞って持っているのだが。
普段は、それを表に出すことも身につけることもしなかった。
ただただいつも、運んでいるだけだ。
……箱まで消化されなくてよかった、と三蔵は思う。
三蔵は馬に荷物の入った箱をくくりつけていたのだが。
それは消化できなかったらしく、後から、箱と鞍は、白龍が吐き出してきたのだ。
「私も同意見です。
あそこで泊まっていたら、こうして山賊に襲われることもなかったではないですか」
享楽的な八戒の意見には、いつも否定的な悟浄も、このときばかりは同意する。
「いや……あれは駄目なんだ。
それに、身なりで泊まる人間を選ぶような寺には泊まりたくない。
胸くそ悪いだろ」
そう言ってみたが、まだ弟子たちは不満げだった。
しかし、八戒が言い返そうとする前に、白龍が三蔵の襟首を掴み、自分の上に振り上げて乗せた。
「うわっ!」
大きく振られた三蔵に、慌てて近くに居た八戒たちが逃げる。
「こんなところでとろとろしてないで、早く休ませろと言ってるぞ」
とあまり白龍とは仲良さそうに見えない悟空が、珍しく、その心情を代弁して言っていた。
まったく――。
野宿の支度をしていた悟空は妙にイラついている自分に気がついた。
八戒たちがあれだけ訴えるのは、ただ、野宿が厭だったからではない。
普段は三蔵に心酔しているんだかいないんだかわからない言動を繰り返している八戒でも、やはり自分の師匠を馬鹿にされてムカついていたようだった。
珍しく悟浄が熱くなっていた原因もそこにある。
だが、何処までも三蔵はこの件に関しては冷静だった。
あの箱を開けろと寺院の前で、悟浄たちに詰め寄られても、
「今日は野宿にしよう」
と恨めしげな弟子たちに言い、三蔵は、すぐに僧侶たちに背を向けていた。
「開けもしない、かさばるだけの箱なら持ち歩かないでくださいよね、邪魔だから」
と八戒に罵られながらも、あのときは反論しなかった。
常に一言多いやつなのに。
そういうところは、女性っぽいんだよな、と悟空は思う。
一旦、降伏したと見せかけて、最後に言葉で一太刀浴びせかけてくるのは女妖怪が多い。
力では男には敵わなくとも、口では負けてないからだろうかな……。
女の別れ際の一言は、いつも真実を突いていて、グッサリ来る、と悟浄までもが言っている。
それにしても、すっきりしない、と悟空は木々の隙間から、夕暮れ色に染まる空を見上げた。
イラついているのは、自分もまた、ガツンとやって欲しかったと思っているからだろうか。
例え、それで争いが起きることになるとしても、自分たちが付いていれば大丈夫だという思いもあった。
まさか、大寺院の僧侶たちが、さっきの山賊より性質が悪いなんてことはないだろうし、と悟空が思っていたとき、
「たっ」
とお腹押さえて、火をつけるための枝葉を集めていた三蔵がうずくまった。
「ほらー、言わんこっちゃない。
だから野宿なんて。
お師匠様は身体強くないんですからね」
と八戒が顔をしかめる。
鼻をうごめかした悟浄が林の向こうを振り返り、
「この先、硫黄と水の匂いがします。
温泉でもあるのでは?
入ってきたらどうですか?」
温まりますよ、と言ってきた。
そうだな、と三蔵は腹を押さえてしゃがんだまま、溜息をつく。
「火焰山も近いし、温泉はありそうだな。
夜になって、気温が下がったから冷えたのかもな」
八戒たちが火を熾して食事の支度をしはじめたので、三蔵はとりあえず、その熱を受ける位置にある大岩に背を預けていた。
悟空が薪を集めに、大岩の後ろに回ったとき、三蔵の側に人の近づく気配がした。
「玉龍」
と三蔵が呼びかける声がする。
上から覗き見ると、青年の姿に戻った白龍が居た。
三蔵は人のときと、馬のときと、呼び分けているようだった。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫大丈夫」
とあまり大丈夫でなさそうな力ない声で、三蔵は手を振っていた。
「無理を言っても、あの寺院に泊めてもらえばよかったのに」
「……金でも払えば泊めてもらえたからもな。
持ってないが」
立てた膝で頬杖をつき、三蔵は溜息を漏らす。
「あの箱は開けられない――」
「だろうな」
と言った玉龍を三蔵が見る。
「悟空」
と振り返らずに三蔵が呼びかけてきた。
「ちょっと湯に入りに行くから、お前も付いてきてくれないか?
また山賊が出ると厄介だから」
そう言い、三蔵はこちらを見て笑う。
……気づいてるなら気づいていると言え。
盗み聞きしてたわけじゃないと言い訳するのも変なので、
「わかった」
とだけ悟空は言った。
玉龍が無言で、こちらを見ていた。
馬になった玉龍に三蔵が跨り、三人だけで出発した。
山道に岩場が多くなった頃、三蔵は口を開き、ぽつりと言った。
「夢を見るんだよ。
なにやら疲れる夢だ」
それはひとりごとにもとれる口調だった。
どちらに話しかけているのか、両方なのか。それすらもわからないくらいに。
「夢の中で、私は女なんだが」
難しい顔をして、そう呟く三蔵に、いや、今でも見た目は女だが、と悟空は思っていた。
「此処とは全然、違う世界に居る――」
夕暮れの風を追うように見て、三蔵は言った。
そのとき、ごつごつした岩の転がる開けた場所に出た。
大きな岩の向こうに、煙が上がっている。
おお、温泉だ! と三蔵は喜び勇んで飛び降りる。
お前、具合が悪いんじゃなかったのか、と思ったが、まあ、気分で調子がよくなるのなら、それはそれでいいことだ。
「先に入ってもいいか?」
と機嫌よく訊いてくる三蔵に、
「別に俺は入らなくていい。
お前、ゆっくり入って来い」
と悟空が言うと、三蔵は、いそいそと岩場の陰に行ってしまった。
いつもなら、
「入らなくていいのか? サル。
温泉好きだろうが、お前ら」
と、だから、お前、本当に坊主なのかと問いたくなる上から目線の暴言を吐いてくるところなのに、今は、それさえも忘れているようだった。
余程、腹が痛かったんだな、と悟空は思った。
ゴロゴロとした大岩のせいで、湧き出している湯の端の方しか見えない。
三蔵が湯に浸かったあと、悟空は辺りを見回し、賊の類が居ないことを確認する。
「お前も休んだらどうだ?」
と白龍に声をかけ、小さな岩に腰をおろした。
白龍はひとつ嘶いたあとで、青年の姿に戻る。
「お前も入りたいなら、待っててやるぞ。
入って帰れ」
と言い、白龍――
人の姿になったので、玉龍か―― は側に腰を下ろした。
三蔵と一緒に入るという発想は二人ともなかった。
師だから遠慮して、というのではなく、なんとなく――。
煙だけが見える湯の方を悟空はチラと振り返った。