あの、出発したばかりなんだが、お師匠様
「悟空よ。
天竺っぽいところはまだか」
「……まだ、唐を出発してあんまり経ってねえだろうが」
三蔵の乗る赤い馬の横を歩く悟空が答える。
暑い……。
あまりの熱気に馬の上で行き倒れそうになりながら、三蔵は呟いた。
「前から思ってたんだがな。
教典持ち帰って、それでなんか民が救われるのかな?」
「根底から引っ繰り返すようなこと言うなよ、クソ坊主」
「水が飲みたいなあ、水」
「さっき呑んだろっ?」
と呆れ顔のサル――
いや、耳とシッポがある以外、何処もサルに見えない端正な顔をした男が、子どもに言い聞かせるような口調で言ってくる。
「……悟空よ。
お前は猿のくせに、どうしてそう理性的なんだ?
ケモノらしく率先して、残り少ない水を莫迦みたいに浴びてみせろよ。
そしたら、私も呑めるから」
と愚痴って、大きく溜息をつかれた。
「お前は坊主のくせに、どうしてそう理性がないんだ。
まあ、俺と会うまで女装して、男騙して食いつないでた似非坊主に理性など求めても無駄か。
っていうか、よく襲われなかったな?
男でもいいからとかいうヤツは居なかったのか?」
「そこはほれ、やはり、観音様やお釈迦様のご加護があったのだろう。
私が経典を持ち帰り、このケダモノどもを立派な僧侶にするまでお守りくださるに違いない」
しゃあしゃあと三蔵は言ってのけた。
そうなのだ。
いつの間にか、旅の仲間が増えていたのだ。
今、砂漠の向こうで点のように見える二つの影。
こちらに向かい、手を振っている。
ヘタりそうな馬と、とろくさい主人をおいて先発隊として下見に行っていた二人の弟子たちだ。
「お師匠様ーっ」
とこちらに向かい、ぶんぶんと大きな手を振っているのは、八戒。
小柄でどっしりとした豚の妖怪だ。
元は天界に住んでいたらしいが、女好きが高じて、天界で騒ぎを起こし、妖怪になってしまったらしいが。
今もなにも懲りているようには見えない。
その八戒の横に居る長身で細身の男、沙悟浄は三蔵たちが追いつくと、ぼそりぼそりと報告し始めた。
「この先にね、集落があるんですが。
途中、ちょっと危険な感じなんですよ。
なんでも、人喰い龍が出るとか」
沙悟浄は、妖怪というより、ただの顔色の悪い、虚弱体質な人、といった風情の男だ。
神経質そうな細い目許が印象的で、頭はいいようだが、少し細かい。
何か心に不満があると、俯いて、首から提げている九つの髑髏の首飾りをいじり始める。
お調子ものの八戒と違って、忠実な部下ではあるが、犯罪者一歩手前のような雰囲気を感じるときもあり、時折、その言動に、ゾクッと来てしまう。
だが、なにせ師匠なので、三蔵は、そんなときにも、なんとか余裕の表情を保つよう、努力していた。
「人喰いねえ……」
と呟いた悟空が、
「じゃあ、この中で喰われんのはお前だけだな」
と振り向き、三蔵に言ってくる。
確かに人は私だけだが、この薄情者め。
観音菩薩様に言いつけるぞ、と思いながら、三蔵は悟空を睨んで見せた。
少し歩くと、一行は、砂漠を抜けた。
今度は、突然現れた岩山を突き進む。
「……ライチが食べたい」
唐突に呟いた三蔵の言葉を悟空は最初、聞かぬフリをした。
「ライチが食べたいな。
たっぷりのお湯に、いい香りのする花でも浮かべて、お風呂に入ったあとで」
幻を追うように虚ろな目で呟く三蔵に、
「お前……ほんっとうに煩悩まみれだな」
と悟空が言う。
馬を休ませるため、降りて歩き始めた三蔵は疲れているわりに止まらぬ口で、まだ、タラタラと文句を言っていた。
切り立つ崖の上の道は細く、下は太い川が流れていた。
道幅が狭く危険なので、みな一列になって歩く。
先頭は勢いのある八戒。
その次がなんとなく仕方なく、という風情の沙悟浄。
そして、悟空の次に、三蔵。
そして、三蔵に手綱を引かれた赤馬だった。
「そういえば、今更なんだが。
あの山、叩き割ってよかったんだろうかな」
三蔵がそう呟くと、は? と悟空が前を見たまま訊き返してくる。
「あの巨大な山のような鉄の塊は、お前の罪の重みだったんだよな。
叩き割ったんでよかったのかな?」
「……お前、なんという今更な話を」
と言う悟空に、三蔵は、
「そうだ。
あれ、お前がやったことにしておけ」
と言ってみた。
「なんだと?」
「お前なら許される。
ケダモノだから。
観音様もお釈迦様も、おうおう、仕方ない、サルじゃからのう、と愛でてくださるさ」
「……お前は、本当に有名な高僧なのかっ?
慈悲の心はどうしたっ」
そこに直れーっ!
と振り返り、叫ばれたが、三蔵は崖下を見ていた。
「どうしたっ?
今度はなんなんだっ」
とこの世話の焼ける師匠に悟空が訊いてくる。
「馬、喰われた」
「は?」
三蔵は急な崖下に流れている大きな川を指差し言った。
「今、馬、喰われた」
食いちぎられた手綱を見せる。