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紅い花びら

「どういうことですか、父上。シャルロットは王妃殿下より講義を受けているはずでは……」


バン、と、ヴィルヘルムが机に手をついて身を乗り出す。父公爵の腕に抱かれた、青白い顔で眠っている妹を見つめ、眉間にぎゅうとしわを寄せる。


「ヴィルヘルム、それについては別室で話す。今は……」


ヒュントヘン公爵が、シャルロットを急遽用意された簡易ベッドにそっと横たえた。

食い入るようにシャルロットを見つめるアルブレヒトの顔からは、表情という表情が消えうせ、体の横で握られたこぶしからは血がしたたり落ちている。

父公爵の視線を追って、それに気づいたヴィルヘルムは、シャルロットを起こさぬように、しかし、悔しさに唇をかみしめ、ただわずかに、絞った声で「はい」とこたえた。

たしかに、ヴィルヘルムには今のシャルロットにしてやれることを持ちえない。愛しい家族なのに、何もできない。

それが、ただただひたすらに悔しかった。



執務室の隣の部屋に用意された部屋では、母が待っていた。疲れたようにソファに腰を下ろすヴィルヘルムに、母の隣に座った父が、おもむろに声をかけた。


「大体は、わかっていると思うが」

「ええ……。そうですね。僕は人だし、「愛犬」という立場にはないですから、本当に理解しているとは言えませんが」


ヴィルヘルムはくっと喉を鳴らした。無理やりに笑って、けれど失敗したような表情をしたヴィルヘルムを、父も母も、笑いはしなかった。


「それでも僕だって、ヒュントヘンの直系です。シャルロットが産まれたとき、あの子がシャロ様だと気付いておりました」


シャロ様。なつかしい響きがヴィルヘルムの舌にふれる。

あの時10歳の少年だったヴィルヘルムは、今よりもずっと無力だった。



「アル!シャロ様!どこにいらっしゃるんです!今すぐ出てこないとケーキの苺は僕の胃に入りますよ」

その瞬間、がさがさと庭木が揺れて、長い毛に草を絡め、葉っぱだらけのシー・ズー犬が飛び出してきた。

「シャロ!もう……せっかく隠れていたのに」

「シャロ様のほうがアルよりずっと賢いな。なにせ今日は出てこないと父上のお小言のおまけがついてくる予定だった」

「お前は鬼畜か何かか?」

「無害な仔犬一族の長男だ」


軽口をたたくヴィルヘルムは、アルブレヒトには気楽な態度をとるが、このアルブレヒトの愛犬たるシャロには丁寧な態度を心掛けていた。

それは、アルブレヒトの命令でもあったし、ヴィルヘルム自身、このシャロをかわいく思っていたからでもあった。賢く、いうことをきちんと聞く。人の言葉をわかっているのか、すでに王としての責務を放棄して久しい現王の代わりに重圧を背負う、王太子としてのアルブレヒトに静かに寄り添っているのもよく見かける。

ヴィルヘルムは、アルブレヒトの心を守る「愛犬」――シャロに敬意をもっていた。

ヒュントヘン公爵家は、そもそもが建国王の愛犬の末裔だ。さらに、ヴィルヘルムには半分アルブレヒトと同じ血が入っている。

だからこそ、王家と愛犬の関係をなにより尊いものだと思っていた。

ただ、このころは、それだけだった。

「愛犬」を殺された王族がどうなるのか、知識として知ってはいても、理解はしていなかったのだ。


「さ、アル。シャロ様。行こう。父上のお説教が待ってるぞ。シャロ様は苺を食べて待っていましょうね」

「まったく……」


――そんな会話を、不意に途切れさせたものは、まっすぐにアルブレヒトに飛んできたナイフだった。


「……ッ」

「あ……る」


アルブレヒトの頬をナイフがかすめる。ヴィルヘルムの前にぱっと赤い花が散った。いいや――いいや!花なんかではない、あれは血だ!

ヴィルヘルムの頭はそう叫ぶのに、根が生えたようにヴィルヘルムの足は動かない。恐怖でのどが引きつって、かすれた声しか出やしない。

守らないといけない、だって、ヒュントヘンは、愛犬の末裔だ――王族を守るのが、しめ、い、で。

ヴィルヘルムがかくんと膝を折る。力が抜けた。かろうじて動かせる腕で、アルブレヒトのほうへ這うけれど、間に合うわけがなかった。


「……ァ……ッ!」


声を出せ、立て、前に出て盾になるのだ!なんども自分に言い聞かせる。それでもヴィルヘルムのこわばった体は動かない。どうして!どうして!どうして!

アルブレヒトが倒れる。押し倒されたのだ。情報は入ってくるのに、体が動かない。

特徴のない顔をした、衛兵の服を着た男。その男が手にした白銀が、陽光にきらめいて、アルブレヒトに迫る――刹那。

それは、本当に、たった一瞬の出来事だった。アルブレヒトの懐に、なにかもふもふしたものが飛び込んだ。アルブレヒトの心臓の上、ちょうどナイフの切っ先へ、彼女が――彼女が!

ぱっと散った血は、まさしく深紅の花びらのようだった。美しくて、残酷なそれ。この光景を、ヴィルヘルムは一生忘れない。彼女の命が散っていく、この瞬間を、ヴィルヘルムは絶対に忘れてはならなかった。


「殿下!」


父公爵が声を張り上げる。次いで、近衛騎士たちが男を取り押さえた。

はっと我に返ったヴィルヘルムが、シャロへ視線を向ける――その先にあったのは、絶望以外の何ものでもなかった。


「シャロ……シャロ……いやだ……シャロ……!」


半狂乱で叫ぶアルブレヒトは、赤い、赤い、この世で一番残酷なものにまみれた宝物を抱きしめている。

愛らしかった毛並みは、彼女の中にあらなければならないものに濡れて、いつもきらきらとアルブレヒトを見上げていた緑の目は無機質な何かにかわっていた。

これが、ヴィルヘルムの記憶。今も褪せない、褪せてはならない記憶。


アルブレヒトは、ヴィルヘルムを責めなかった。

もはやアルブレヒトは、うつろな目で心臓を動かすだけのなにかになっていた。

それがきっと、ヴィルヘルムへの罰だった。ヴィルヘルムは、大切なものを同時にふたつ失ったのだ。

それがかけがえのないものだと、知っていたのに。



シャルロットが産まれたとき、ヴィルヘルムはうれしかった。すぐにでも、アルブレヒトに会わせてあげたかった。

それを制止したのは、母だった。その時ほどヴィルヘルムがあれたことはない。

アルブレヒトを救えるのはシャロだけだと知っているのに、どうして、と。

母は泣きながら言った。

――アルブレヒトは、シャルロットを殺してしまう。

その時は、そんなことがあるはずないと食って掛かったヴィルヘルムだが。今になって思うと、母が正しかったのだ。

母の兄――王が、亡くした愛犬の代わりに慰めになれば、と恥知らずな貴族に連れてこられた令嬢や貴婦人たちを、最下層の劣悪な地下牢に投獄したのは、それからすぐのことだった。

愛犬を失った王族は、精神の均衡を失ってしまう。母も、首から下げている愛犬の遺骨がなければ、正気ではおられないのだといった。

ヴィルヘルムは一度、あきらめた。けれど――けれど、信じていた。親友を。そして、今は妹になった、愛すべきヴィルヘルムの師を。


目の前で眉を寄せ、苦し気にうつむく父と母は、あの誕生日パーティーの日、招待されていなかったはずの王太子を招き入れたのがヴィルヘルムだと気付いているはずだ。

その結果、シャルロットが苦しんでいる。これは、ヴィルヘルムのせいだ。

それでも、ヴィルヘルムは、ぐっと奥歯を食いしばって、無理やりに笑って見せた。


「大丈夫ですよ、父上、母上。あの二人なら」


思い出すのはいつだってシャロの死んだ日だ。

もう、ヴィルヘルムは絶対にあんな後悔はしない。

そう――決めたのだ。


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