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晴れになる

――夢を、見ていた。


黒い髪の丸い目をした少年が、シャロを抱きしめてくれる夢。

シャロは、この少年のことが大好きで、ぺろぺろと顔をなめるたびにくすぐったいと言われるのも好きで、暖かい腕の中にいることも好きだった。


「あ、雨だね、シャロ」


くうん、シャロはいやいやをするように、少年の懐に潜り込む。濡れるのは好きではなかったから。


「こらこら、鼻をひっかけちゃうよ。でも確かに、少し寒いね。そこの東屋に行こう」


そう言って、少年は鼻歌を歌いながら、遠くに見える東屋を目指した。アーモンドの木が植わる場所、小さく建てられたそこは、まるで秘密の家のようだ。


「きゃう」

「どうしたの?シャロ」


優しい眼差しがシャロを包む。――ご主人さま。甘えるように、シャロはもう一度鳴いた。

ご主人さま、ご主人さま。シャロは何度も鼻先をご主人さまの腕に摺り寄せた。

陽だまりのにおいがして、大好きなご主人さまから香るそれにに、シャロはうっとりする。

行儀よく座ったご主人さまは、乳母のアンナが運んできた、みじんぎりの苺をつまんで、そっとシャロの口元に差し出した。

甘くて酸っぱい果汁がじゅわっとあふれる。シャロはおいしいことがうれしくて尻尾を振った。


なんて素敵な毎日なんだろう。ずっとこうしてご主人さまといたいと思った。

――本当に?

どこかで問いかける声がする。それは、聞き覚えのない女性の声で――いいや、誰より聞きなれた女性の声だった。


ふいに、ご主人さまが歌に歌詞をつけた。


「わすれないで、覚えていて……雨が降ったら、」


そのあとが続かないようで、照れくさそうに苦笑したご主人さまを見上げると、ご主人さまは、ごまかすように「雨が降ったら、晴れになるんだ、シャロ」と言った。

そうなんだ、と思った。ご主人さまは物知りだなあなんて思った。

調子っぱずれの歌が雨と一緒に地面にしみこむようだ。


「――ああ、幸せ」


ふいに、鈴のような女性の声がした。

いいや、違う。その声は、シャロの口からでていた。

シャロが瞬きをすると、シャロの肩からすとんと銀と茶の混じりあった毛が落ちる。毛むくじゃらの手は、白く透き通るような肌へと変わり、ガラスのテーブルにうつった自分の顔は、エメラルドグリーンの目をした少女のものへとかわっていた。


「本当に?」


目の前のご主人さま――アルブレヒトが、静かに口にする。


「君は、ずっとここにいてもいい。それが君の幸せなら。シャロ」


少し考えて、それはいけないことのような気がした。だから、いいえ、とシャルロットは答えた。

とたん、アルブレヒトの姿が変わる。自分と全く同じ容姿をした少女――いいや、シャルロット自身へと。


「ねえ、最初の約束を、覚えている?」


思いついたように、目の前のシャルロットは言った。

だけど首を傾げるシャルロットに苦く笑って、空を見上げ、そうね、とシャルロットは続ける。


「雨が降っているの」


そういって、シャルロットはシャルロットの手をつかんで、屋根の下へと導いた。

しとりしとりと音がする。ぽつんとシャルロットの手の甲に落ちたひとしずく。雨粒はあたたかかった。


――シャロ。


シャルロットが雫を眺めていると、ふいに、空から声が聞こえた。

優しい優しい声が。シャルロットが、この世界で一番大好きな声が。

はっとして、シャルロットは立ち上がった。夢の自分に会釈する。


「ねえ、わたし、約束をしたの。生きて帰るって」

「そうね」

「でもね」


シャルロットは空に手を伸ばす。つま先立ちになって、ぴんと張った手。その向こう、雲の切れ間が見えた。


「一番最初に約束したの。わたしが、この雨を、晴れにするって」


夢のシャルロットは、もうなにも言わなかった。ただ微笑んで、もう一度椅子に座りなおす。

こちらを向いたまま、お別れの時のようにひらひらと振られる手に、シャルロットはにっこり笑った。

屋根の下をでて、芝生へ駆け出し、シャルロットは遠くの空に、もう一度手を伸ばす。

今も鮮明に思い出せる。19年前、自分が死んだ日。これは、残酷なあの日に抱いた大切な約束だった。


シャルロットは走り出す。東屋は景色に溶けるように消え、かわりにアーモンドの花が咲く中庭が現れる。

ここだったんだね、シャルロットはつぶやいた。



――かつてあなたが言った言葉を、ちゃんと覚えている。

晴れになるよ。晴れにするよ。わたしが、あなたの雨を晴れにする。

一方的な約束で、けれど命を賭した約束だった。

この魂すべてと引き換えにしても叶えたい願いだった。


「アルブレヒトさま」


帰るよ。あなたのもとへ。

毛むくじゃらの手足も、牙もない。尻尾がないから感情を出すことにコツが要って、小さい体はすぐに弱ってしまう。

人間は不便だ。頭ばかりでっかちで、いらぬことを考えては悩む。めんどくさい存在。

シャルロットは、今、そんな人間で。

それでも――それでも、帰るのだ。


「あなたと、生きるよ」


シャルロットの手が何かをつかむ。

ついで、つかんだものに引き上げられる感覚がして、シャルロットの視界は白く染まった。








ぴくり、と、シャルロットの手が震えた。

はっと息をのんで、アルブレヒトはその手を握ったまま、シャルロットを見つめる。

銀色の、長い睫毛がゆるゆる揺れて、その中から萌える木々のようなエメラルドグリーンが顔を出す。

その目が、ゆっくりとこちらに向いて――微笑む形の口が、小さく小さく囁いた。


「……雨が上がったら、晴れになるの」


かすれた声。潤んだ瞳。弱弱しくアルブレヒトの手を握り返す手は青白くて。

気付けばアルブレヒトは、腕の中にシャルロットを抱え込んでいた。

ぽたぽたと、年甲斐もない涙がこぼれてシャルロットの髪を濡らす。

シャルロットは、ゆっくりとした動きで、アルブレヒトの胸に顔を埋める。

アルブレヒトは、唇をわななかせ、そうして、嗚咽をこらえ、ようやっと言葉を絞り出した。


「そうだったね……本当に、そう、だった」


雲がほどける。朝の光が降り注いで、二人を照らす。

銀の髪が朝焼けの色に塗り替えられ、見つめるアルブレヒトの目をも暁に染めた。

シャルロットは幸せそうに微笑んで、けれど何も言わなかった。アルブレヒトは、ただただ、シャルロットをかき抱いて――やがて、シャルロットが上を見上げる。アルブレヒトが見下ろせば、視線の交わった二人はそろって笑みをこぼして。


朝焼けの光が照らす中、寄り添う二人は触れるだけのキスをした。


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