狂気
血、暴力などの残酷な描写があります。
王の葬儀は粛々と――かの人が王であることを感じさせないほど、静かなものだった。
涙を流すものも、悲しむものもいない。たった一人を除いて。
王の顔を見たことがない人間のほうが多い葬儀を、亡くなった王はどう思うのだろうか。
ベルクフリートに設置されたベッドの上。かつて喪った愛犬の骨を抱いて、眠るように逝った王は、もしかしたら不幸ではなかったかもしれない。
シャルロットは、会ったこともない王の死を悲しめるほど、王のことを知らなかった。
だから、ただ、ただ――シャルロットは、王の棺の前に茫然と立ちすくみ、はらはらと、静かに涙を流す王妃を見ていた。
王はきっと、不幸ではなかった。
夢見るように、だれも顧みず、愛する唯一を抱いて逝けたのだ。楽で、幸福な眠りをこれからも続けるだけ。シャルロットもシャロも、王を知らない。
だから、伝え聞いていた王の話だけで王を形作って想像した。
アルブレヒトとよく似た王――愛犬を喪って心を壊した王。彼は、もしかすると、シャルロットが産まれることなく、二度と会うことのなかったアルブレヒトなのかもしれなかった。
「王太子殿下、即位の準備を――」
「国が乱れます、何とぞ……」
アルブレヒトが、議会の大臣たちに懇願されている。
葬儀中に不謹慎な。顔をゆがめた参列者らが言う。
けれど、もともとなんの仕事もしていなかった王だ。臣下らは、もう王を見限っていたのだろう。
だからこんな簡略化した葬儀で、国庫からの支出を抑えようとしているのだ。
静かに涙を流す王妃を、後ろから見つめる。毅然と立つ王妃の背中は、恋が苦しいものだと口にしたあの日よりずっと小さく見えたのだった。
「わすれないで……」
ふいに、王妃がつぶやいた。小さな小さな声が、かすれて音階をたどっていく。
「わすれないで……おぼえていて……」
歌う王妃の姿は、もう誰も見ていない。
だけど、シャルロットはずっと忘れない。ひとつの恋の、終わり――。
あまりにも悲しくて、シャルロットの手が伸ばせないものがあるということを。
「マルティーズ、アルブレヒトさまは、お元気でいらっしゃる?」
「シャルロット様。会いに行けばよろしいのですよ?」
「いいえ――、今、お忙しい時期だから。寝る前にいつも来てくださっていたけれど、今は来てくださらないもの、それだけ大変なのだと思うわ」
戴冠式の準備、葬儀の後の種々ある手続きを経て――最後に会ったアルブレヒトの目のしたには濃い隈があった。
その世話をするようにと、シャルロットは自身のところにいる侍女たちを一時的にアルブレヒト付きにしている。だからシャルロットは、今、マルティナひとりを伴って、食堂に向かって歩いているのだ。
消沈したシャルロットを、マルティナが痛々しいものを見るように目に映す。
「そんなの、気にしなくても、あの王太子殿下ならもろ手を挙げて歓迎するでしょう。シャルロット様に文字通りメロメロなんですから」
「いいえ、だけど」
「それでも、です。シャルロット様」
マルティナは、シャルロットの手を取った。
「王太子殿下に、お会いしましょう。そうでないと、シャルロット様が倒れてしまいます」
マルティナの、緑の目に映った自分が目に入る。やつれたおもては白く、病的なまでに青白く――生気のない自分の顔に、もう、言い返す気力すらないことに気づいた。
国にかかわらなかった王は、死んだあとに、少したってから、はじめて大勢の心を揺らした。
王妃は部屋に閉じこもり、在りし日の王のようになった。
アルブレヒトは執務に明けから暮れまで拘束され、ヴィルヘルムも缶詰で、臣下は右往左往し、それをまとめるためにまた時間をついやす。
そしてシャルロットは、見たことのないはずの王を、どうしてもアルブレヒトに重ねてしまい、心臓の下、腹の上のあたりがカッと熱くなり、痛みを覚えてしまうのだ。
誰もかれもが沈んでいる。置き土産というには、王の遺したそれは重すぎた。
「……そうね、久しぶりに、アルブレヒトさまにお会いしたいわ」
「それでは、参りましょう、シャルロットさ、ま……ッ!」
ぴたり、と。マルティナが、シャルロットを守るように素早く前に出る。
「シャルロット様、わたくしから離れないで。ゆっくり、こちらにいらして」
腰に佩いたレイピアを抜き放ち、マルティナが鋭く言った。
シャルロットが息をのみ、慎重に歩を進め――そうして、陰から這い出るように現れた一人の男を見て、足を止め、た。
「あ――」
声が引きつれた。シャルロットは動けなかった。その顔、その顔を覚えていた。
19年前――白銀のナイフ。特徴のない顔の男。
震える足が、動いてくれない。背筋を焼けつくような痛みが走る――。
シャルロット様!マルティナが叫ぶ。その一瞬をつかれた。
振り返ったマルティナの姿を、隙ととったのか。目を血走らせ、口からよだれを垂らし、腐ったような息を吐く男――。その血管の浮き上がった手が、マルティナの、レイピアを持たない手――白い手袋をした右の手を摑まえ、ぎゅうと握りつぶした。
ぺき、ぐちゃ、と嫌な音がする。
「……ッ、が、ぁ」
マルティナの喉がぎゅるりとなって、汗が噴き出す様子が見えた。
「マルティーズ!」
「シャルロット、さま、お部屋へ、走って。部下を、配置して、います」
「それでは――マルティーズは」
「こい、つの、狙いは、わたくしではありません」
「マル――」
「――走って!!」
血を吐くような声。シャルロットの役立たずの足は、ようやく動いてくれた。
踵を返し、マルティナの背から飛び出すように走り出したシャルロットは――けれど、もう、遅かったのだ。
シャルロットの華奢な体を、ひょろりと背の高い誰かがまるで掬い上げるかのように抱き上げる。ついで、背骨がきしむような強さで羽交い絞めにされて、シャルロットは呻いた。
そして頭上から、狂ったような笑い声が落ちてくるのを、吐きそうな絶望の中で聞いた。
「ああ、やっとこの腕の中に飛び込んできたんだね。僕の愛犬」
「兄上、どうして」
「ここにいるのかって?そりゃあ僕が傀儡じゃないからさ」
すいと指をさす。顔がただれ、目が映ろな男をせせら笑ってクロヴィスは言った。
「それ、失敗作。やっぱりだめだねえ、加工品は。愛犬は、きちんと、天然ものじゃないと。それでも結構、いいや、19年か。持ったほうだけどさ」
シャルロットのつむじに頬ずりして、クロヴィスは言った。
加工品――天然もの。この上ない侮辱、その中に、忌まわしい響きを感じ――意味を悟ったシャルロットはう、と胃から何かせりあがるのを感じた。同じことに気づいたのだろう、マルティナはカッと目を見開いた。
――加工品と呼ばれた男の手から、赤に染まった手袋を脱ぎ捨てるように右の手を抜き去り、瞬間、床を蹴って跳躍した。
レイピアをクロヴィスの眉間に突き立てんと突進したマルティナの切っ先は、しかし、ずぐんという、肉を切るような感覚に阻まれる。
「犬は一人じゃないんだってば。ああ、言ってなかったね。ごめんごめん」
刺し貫いた肉塊はこちらを振り返る。腕にレイピアが貫通したというのに、表情一つ変えぬその「ひと」は、そのままひっくりかえすようにして、マルティナを地面に押さえつけた。
「不細工で、馬鹿で、筋肉だけが取り柄の愚妹……かわいくもないマルティナ、どうだい?偉大なお兄さまの犬になってみる?」
「……お断りだわ。クロヴィス・ティーゼ。それに、もうわたくしにはマルティーズというがあるの。あなたの犬に、なると思って?」
「なん、だと――」
とたん、かんしゃくを起こしたように金髪をぐしゃぐしゃに振り乱すクロヴィスが、シャルロットを取り落とした。
「お前が――お前が!犬に!すでに!その栄誉を!誉れを!――僕が得ていないものをなぜおまえが!」
マルティナの機転に、シャルロットはクロヴィスの足元から走り出そうとし――けれど、その背を思い切り蹴飛ばされる。
「――ッ!」
声なき悲鳴がほとばしる。それを意にも返さず、動けないシャルロットを再び抱き上げたクロヴィスは、息を荒げて言った。
シャルロットは痛みに気を失いそうになりながら、その言葉を聞く。
「ゆる、ゆるさない、ぞ、やはり、じゃあ、やはり、この国は、くそったれだ、マルティナ、ま、まずはお前を、殺してやる」
クロヴィスは、片足を持ち上げる。その下には、マルティナの、青紫の右手があって、まさか。
「お、おまえ、あの王太子に、右手を、つぶされたんだってな、な、なら、まずはここから、壊してやるよォ!」
「――やめて!」
ぐちゃりと、嫌な音がした。
肉がつぶれ、骨が砕ける音――マルティナの悲鳴は聞こえない。
苦し気に眉をゆがめるだけのマルティナに、だがその一瞬で唐突に飽きたのか、クロヴィスはなあんだ。とつぶやく。
「楽器にもならない。つまらない女!」
許せない――怒りとは、これか。こういうことか。
シャルロットは、クロヴィスを振りきろうと拘束された手に力を籠める。びくともしない腕を、それでも動かさんと。
それでもどうにもならない現実に、シャルロットの目に熱いものがこみ上げる。
けれどその時――声が聞こえた。かすれたような、小さな小さな声が。
しゃるろっと、さま。マルティナの唇が動くのが視界の端にうつる。
――生きて、あきらめないで――おねがい――。
「ああ、そうだ」
クロヴィスが、思いついたように、「ひと」に命令した。
「片づけておけよ、おもちゃは」
シャルロットが最後に見たものは、振り上げられた二人の男の手。そうして、その足元で倒れ伏し、それでもなおシャルロットを救おうと手を伸ばす、自身の友の姿だった。




