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アインヴォルフの犬

「わたしは、何の力もないのね」

「おひいさま……」


アルブレヒトの出て行った扉を見つめながら、シャルロットはぽつりと呟いた。


「わたし、アルブレヒトさまに、何ができていたのかしら」


泣くことはできない。

胸の中の何かが枯れたのを感じていた。

ふと、窓際に飾られた花瓶を見る。咲き誇る白い薔薇ーーヒュントヘン公爵家の庭師が作った「シャルロット」。薔薇のシャルロットは綺麗で、けれど現実のシャルロットは、アルブレヒトのように、シャルロット自身を守ることもできない。

身を投げ打つことしか知らなかったシャルロットが、何をすればいいのだろう。

学べばいいのか。勉強は得意だ。だが、そういうものではないと、シャルロットが誰より理解していた。


「おひいさま、腕力だけが、アルブレヒト様を守るものではありませんよ」

「アンナ……?」

「おひいさまが生きて、アルブレヒトさまから逃げず、隣にいてくださった……。おひいさまは、アルブレヒトさまの心を、お守りになってくださったのです」

「……こじつけだわ」

「いいえ、いいえ。おひいさまは、おひいさまにしかできない方法で、アルブレヒトさまを守ってくださった……おひいさま以外の誰にもできなかったことです」


寂しそうに微笑むアンナの声が優しく響く。

シャルロットは、触れたままの手を滑らせ、アンナの手を握った。

ふっくらした手は、それでもシャルロットよりずっと長く生きているからか、少しだけかさかさしている。


「わたしにしかできないこと……」

「おひいさま、おひいさまが王城に来てくださる前、アルブレヒトさまが、王宮でなんと言われていたかご存知ですか?」

「氷の、王太子?」


その硬質な美貌を表して、誰かがつけた呼び名だ。

シャルロットを見つめるアンナは、頷いて、しかし、口ではいいえと否定した。


「氷と言うのは容貌のことではありません。心が凍っておられると……人の心がないのだと、そういう悪意の込められた言葉でした。シャルロットさまが、変えてくださったのですよ」


驚いてエメラルドグリーンの目を見張るシャルロットに、アンナは続けた。


「おひいさまが来てくださってから、アルブレヒト様は変わられました。食事もきちんと取るようになり、貼り付けたような顔で話すこともなくなりました」


アルブレヒト様は気づいておられないでしょう、とアンナは言う。


「おひいさまが来られた当初、アルブレヒト様の執着は異常でした。私共は、アルブレヒト様からおひいさまを守らねばと必死でした。時が来れば逃がさねば。おひいはまが儚くなってしまう前にと。……けれど、おひいさまは、アルブレヒト様と一緒にいてくださった」

「アルブレヒトさまと一緒に居たかったからいたのよ、たったそれだけ……」

「それだけのことが、アルブレヒトさまの心をお救いになったのです」


アンナは、穏やかで、けれど強い言葉で断言した。

息を呑んだシャルロットをまぶしそうに見て、細まった目を笑みの形にした。


「ですから、私共は、みんな、おひいさまのことが大好きなのです。大切なアルブレヒト殿下をお救いくださった仔犬姫さま…。シャルロット・シャロ・ヒュントヘンさま、ご自身が無力だと、お泣きなさるな……」


シャルロットは、アルブレヒトを守っていたのだろうか、本当に?

アンナの優しさかもしれない。ごまかしかもしれない……いいや、それでも、一筋の光のようにすら思えて、シャルロットは信じたく思った。


「アンナ、わたしはどうすればいいの。アルブレヒトさまを、傷つけてしまったわ」

「あんなことで傷が付くようにはお育てしておりません。怪我なんて唾をつけておけば治ります」


ふふ、と笑ったアンナは、だから、と続けた。


「何があっても、生きてください。アルブレヒトさまの隣で、ずっと生きてください」


ゆるゆると、アンナの腕がシャルロットの背に回る。抱きしめてくれた腕は震えていた。

ごめんなさい、シャルロットは呟いた。

生きるという、そのたった一点が、一番簡単で、一番大切な事ーー。


「わたしを、守ってくれる?アンナ。わたしが、アルブレヒトさまの隣で生きるために」

「ええーーええ、おひいさま。このアンナでは力不足でしょうが、全力でお守りいたします」


「ーー力不足なら、わたくしも使っていただけますか」


扉の向こうから、声が聞こえた。

振り返ると、豪奢な金髪が視界に入る。

クロエやアガーテ。アデーレたちに囲まれるようにして、マルティナ・ティーゼが入ってくるのが見えて。

思わず身構えるシャルロットの前に、金髪がふわりと舞った。


「マルティナ・ティーゼ?」

「力が足りないのであれば、わたくしの力をお使いください。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン。命をお返しすると申しました。わたくしの身を、あなたの手足として、あなたをお守りください」


マルティナが言う。シャルロットを見つめる目は、シャルロットより濃い色をしている。苛烈な眼差しーーしかし、それは、シャルロットをねめつけているわけではない。


跪き、手を胸に当て、請い願うような響きでシャルロットに提案しているマルティナに、シャルロットは尋ねた。


「どうして、あなたがわたしを守ろうと言うの?あんなことを言ったのに」


わたしも、あなたも。だから両成敗だと思ったのに。

うろたえたシャルロットに、マルティナはとんでもないことを言う。


「あなたを愛しているからです。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン」


マルティナは言った。シャルロットが瞠目すると、マルティナはふっと微笑んだ。


「敬愛しています。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン。あなたを心より尊敬しているーーわたくしは、あなたを守る「犬」になりたい」

「犬?」

「ええ、犬です。あなたも同じ犬の一族なら、きっとわかるでしょう」


マルティナは、そう言ってこうべを垂れる。

待っているのだ。シャルロットはそれが誰よりよくわかった。

そうか、犬ーーそういえば、誰もかれも、最初は犬だった。犬は家族で、友でーー愛犬とはまた別の、心から信頼できる存在を、父は、母は、兄は、姉たちはーーこの国の、最初の王は、犬と呼んだのだった。


「犬だもの、ね」


シャルロットは思い出して目を細める。

なんだかとてもおかしかった。


「そうねーーわたし達、アインヴォルフの人間は、みんな濃くとも薄くとも「仔犬姫」の血を引いているのだわ」


よくわかるわ、シャルロットは晴れやかに笑った。

膝をついて、立ち上がる。もう、震えはなかった。


「マルティナ・ティーゼ。あなたをわたしの「犬」にします。マルティーズ。あなたは、これより、マルティナ・マルティーズ・ディーゼ。わたしの犬ーーわたしの騎士。わたしの、親友」

「ーーは。拝命いたします。わたくしの主人、わたくしの姫君。わたくしーーマルティナ・マルティーズ・ティーゼの、この世で一番愛すべき、友よ」


シャルロットの手の甲へ唇を寄せ、心から喜ばしそうに、顔を上げたマルティナは、シャルロットを見つめる。

苛烈な緑は、最初から。けしてシャルロットを憎んでいたわけではないのだと、シャルロットは今この時、たしかに理解したのだった。

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