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憧れにさよならを


「シャロ、」


突然現れたシャルロットの手から、白いハンカチがびた、と音を立てて落ちた。。

アルブレヒトのために用意したのだろう、濡れたそれを持っていたはずのシャルロットの手は赤くなっている。


「ご、めんなさい、お話中とは、思わなくて、」


しどろもどろに謝罪を繰り返すシャルロットの目は揺れていた。動揺と悲しみがじわりじわりと溜まっていくようなゆらゆらした眼差しに、アルブレヒトはどう言えばいいのかとっさに迷ってしまった。

ーーシャルロットに言えない話をしていた。

それはたしかだが、男女間の意味でのやましいことはしていない。

それでもきっと、シャルロットにはマルティナとアルブレヒトが密会しているように見えたのだろう。ヴィルヘルムという見張りまで置いて。


「お邪魔、だった、いいえ、違う、いいえ、あ、れ?」


今、シャルロットはアルブレヒトを信じようとしている。

それに心が追いつかないのか、目を瞬いたり、唾を飲み込んだりして心の均衡を保とうとしていた。


「ティーゼ侯爵令嬢とは何もない、シャロ」

「でも、それじゃ、いいえ、どうして、ここに、お兄さまも、いいえ、違うの、アルブレヒトさま、ええと、」


見てわかるほど狼狽したシャルロットを抱きしめて落ち着かせるのはきっと簡単だ。けれど、そうすればシャルロットを誤魔化すだけになる。

ヴィルヘルムがシャルロットを呼ぶーーアルブレヒトが、言葉を選んでーーその時。


「わたくしのせいです。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン。わたくしがお二人を呼びました。しかし、わたくしは王太子殿下となんの関係もございません」


シャルロットの前に進み出たマルティナが、威圧するように断言した。

シャルロットはどうして、と混乱したように小さく告げた。


「わたくしは間違いを申しませんわ。どうとでもおとりになって」

「ーーマルティナ!」


ヴィルヘルムが叫んだ。

マルティナが一瞬ヴィルヘルムを振り返る。

だが、強く強く睨み据えただけで、マルティナはまたシャルロットに向き直った。

諦めたような顔、手に入らないともがくことをすでにやめた顔ーーそのくせ、希望だけは捨てられない、その顔は見たことがあった。

昔のアルブレヒトと、同じ顔だった。


ーーもしかすると、マルティナ・ティーゼは。

それに気づいた時、シャルロットはすでに口を開いていた。

マルティナが、断頭台に立つような顔で目を閉じる。


「あなたは、アルブレヒトさまを好きではないわ。どうしてそんなことを言うの」










はっと見返したシャルロットは、そのエメラルドグリーンの目をまっすぐマルティナに向けていた。

これはいけなかった。

マルティナは、この目で見られると、本心をぶちまけてしそうになる。

王城でふとすれ違う時、窓を見上げて、視線があった時ーーその度に、マルティナは、叫び出しそうになる。


「……言えません」

「でも、」

「わたくしは、それを言うべき権利を持ち合わせていません」


シャルロットを守りたい。

その願いを口に出すことは許されなかった。


幼いマルティナは、何も罪のないシャルロットに子供じみた理想を押し付け、偶像を追いーーその果てに、最初に憧れたシャルロットを傷つけて。

自分に追従したものは無視したけれど、言ってしまえば彼女らがシャルロットに向けた悪意を放置したも同じ。


それら全てーー全て、あの日に置き去りにしてここまできてしまった。

あの日、シャルロットを打った右手が熱い。

水を打つような感触が消えない。


泣き喚いてもどうにもならないから、マルティナはせめて遠くでシャルロットを守る一部になりたかった。

謝ろうと這いつくばらんとする自分を、精神力で押さえ込んだ。


「あなたの、ためですわ。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン」


ようやく絞り出した言葉はかすれていた。

これで引いてはくれやしまいか。


「ーーあなたは、いつもそうね、マルティナ・ティーゼ」


けれど、シャルロットは、マルティナの考え付く限りで最悪の返答をしてきた。


「あの時、わたしを睨んだあなたはどこへ言ったの?わたしにはっきり嫌いと言った、あなたのことが、わたしは嫌いではなかった……あなたのしたことだって、今では」

「言わないで!」


悲鳴のような声だった。

マルティナは、それが自分から発せられたことに、一瞬、気付かなかった。

背後で気配がする。アルブレヒトが自分を抑え込もうとしているのだろうか。それなら早くしてほしい。


マルティナがシャルロットに、謝ってしまう前に。


けれどいつまでたってもマルティナを拘束する力はなく、気配はそれ以上動かない。


だからーーだから、マルティナはもう耐えることができなかった。

緑色の目が、マルティナを見透かしているようだった。だから、マルティナは、血を吐くように発することしか、もう、すべがなかった。


「あなたに……謝りたいと、思っていました」

「そう、そうなのね、マルティナ、では」

「だけど!」


マルティナは続けた。喉が熱い。声帯が、千切れるような気さえした。


「そうすれば、あなたは許すでしょう、わたくしを。わたくしは、許されないことをしたのです。わたくしは許されてはいけないーーそれだけのことをしました。……だから」

「謝らない?」

「はい」


最初に告げようとしたことが思い出せない。

マルティナは、荒くなった息を整える余裕すらなかった。

そんなマルティナに、シャルロットは静かに告げた。


「それは……あなたの決めることではないわ」


弾かれたように顔を上げたマルティナを、シャルロットの目が覗き込む。そういえば、今日、シャルロットは一度もマルティナから視線をそらしていない。


「許すのも、許さないのも、わたしが決めることだわ。……マルティナ・ティーゼ。それは、あなたが、高慢よ」


一言ずつ、噛みしめるように言葉を紡ぐシャルロットは、あの日マルティナが言った言葉をなぞっているようだった。


「それが、今、この場で、何をしていたのか言わない理由なら、わたしは、あなたを、嫌いだわ」


嫌い。

そう言われて、ほっとするはずだった。

けれど、突き刺さる痛みはその真逆で、マルティナは、自分の胸までしかないシャルロットの小さな体にすがりつきそうになるのを必死で耐えた。

シャルロットは続ける。


「許されたくないならそれでいいわ。けれど、決めるのはわたしよ。マルティナ・ティーゼ」


すとんと、マルティナの体から力が抜けた。

崩れ落ちたマルティナに、シャルロットは手を差し出さない。

シャルロットは、その優しい緑に力を込めて、白い手を握りしめて、今ーー全身全霊で、怒っていた。

地に這いつくばったマルティナは、力の入らない足を無理やり立たせる。

ここで命をかけねば、かける場所が二度と訪れないとわかっていた。


片膝を立て、ぐらつきながら、心臓に片手を置く。

無様だった。騎士として訓練を受けたマルティナは、しかし、今は自分で礼を取ることもできない。

喉から鉄の味がする。

それを無理やり飲み下して、マルティナは半ば、叫ぶように声を出した。


「ごめんなさい、シャルロット・シャロ・ヒュントヘン。わたくしは、あなたを侮辱したーーいいえ、勝手に期待して、憧れてーーそれなのに、あなたに勝手に失望して、それで、あなたに傷を与えました」


かしいだ体を支えるように、片手で地面を押さえつけた。


「許されたくない……そんな、ことすら、思っ、て」


シャルロットは、無様なマルティナを、じっと見つめていた。

じっと、じっとーーけして目をそらさず。


「ッ、謝罪を、あなたに、いいえ、命ごとあなたにお返しする。あの日、わたくしに生きる芯を与えてくれたあなたに、シャルロット・シャロ・ヒュントヘン!」


ベシャッと、マルティナが地に伏せる。泥が顔について、不快感をもたらす。

それでも、今この時、シャルロットの前で、最後まで礼を取りきれなかったことが、一番苦しかった。


「……アルブレヒトさま、お兄さま、侍女を呼んできてください。それと、清潔な布と、お湯を」


答える声が何か聞こえる。

そしてその声をきっかけに、足音が遠ざかっていく。

這いつくばったままその音を聞いていたマルティナは、自分の目の前に差し出された白く美しい手が、最初、自分のためのものだと気づくことができなかった。


「マルティナ・ティーゼ」


シャルロットは告げる。その緑に、マルティナを映して。


「わたしは、あなたを許すわ。……あなたがどれほど苦しんでも、わたしはあのことを気にしたりしない」


すう、と。シャルロットは息を吸った。


「ーーあなたが一番苦しむことが許しなら、わたしはそれを選ぶわ」


一拍。マルティナは、言葉を咀嚼してーーそうして、絶望にも似た安堵に包まれた。


ああ……。マルティナの目から、涙が溢れる。

どこまでも優しくて、どこまでも強い人ーーあの日、あの時、憧れた、「マルティナのシャルロット」は、もうどこにもいない。

そこにいたのは、マルティナがこれからの人生で、心から敬愛し続けることになる、気高い姫君ーーシャルロット・シャロ・ヒュントヘン、その人だった。





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