その歌声、実に音痴
「まあ!なんてかわいいのかしら!」
王妃の待っていた部屋は、庭の見える窓の大きな部屋だった、と思う。
というのも、シャルロットの視界は、部屋に入って早々に防がれてしまったからだ。
衛兵がドアを開け、一歩足を踏み入れると、まず感じたのは、シャルロットに向かって吹く風――ついで、ふわふわとしてあたたかく、柔らかなな何かがシャルロットの顔を覆いつくした。
ぎゅうぎゅうとシャルロットに押し付けられるふわふわがシャルロットの呼吸を難しくする。鼻が完全に防がれてしまって、苦しくなってじたばたともがくも、シャルロットの小さな体躯では、引きはがすのはもちろん、空気の通り道を作ることすら不可能だった。
「王妃殿下、シャルロット様が苦しがっておられます!」
付き添ってきた侍女のひとりが声をあげる。はっ、と息を吸い込む音が聞こえると同時に、シャロの鼻は解放された。
「ごめんなさい、シャルロット、あんまりかわいくて……わたくし……」
ふんわりと。シャルの鼻腔がくすぐられる。ぱちぱちとしばたたいた目が映したのは、アルブレヒトとよく似た匂いの女性――豪奢な金髪を優雅なシニヨンにまとめ上げ、涼し気な水色のドレスを身にまとっている、目は、アルブレヒトと同じ、深い深い青色をしていた。
「おうひ、でんか?」
舌足らずな声が出てしまった。はずかしくて口を覆うと、王妃の手がまたシャルロットを抱え上げた。むぐ、とシャルロットの顔が、再び王妃の豊かな胸に埋まる。
どうしたらいいのかしら。アルブレヒトに迷惑をかけたくないのでじたばたするわけにもいかなくて、息ができる隙間を確保したシャルロットは、おびえた仔犬のように固まっていた。
「なんてかわいらしいの!シャルロット、あなたがわたくしの娘になるなんて、偉大なる健国王にも感謝すべき幸福だわ!」
「……王妃殿下は、愛らしいものがその……とてもとても……好きでして……」
そう言ったのは、王妃の背後に控えている女官だ。顔を覆ってまさかこんなに……とぶつぶつつぶやいている。
「ああ、ごめんなさいね。わたくし……」
しゅんとうなだれた王妃は、アルブレヒトを産んだとは思えないほど若々しかった。
外見もだが――中身が。
シャルロットは、その理由をすぐに知ることになる。
王妃の待っていた部屋は、王妃の趣味のものを集めた部屋だとは聞いていた。
兎に猫のぬいぐるみや、花をかたどったクッション。その上に、シャルロットより少し小さいくらいの人形が、いくつもいくつも飾られている。大きなものはシャルロットと同じくらいの背丈だったから、シャルロットが黙ってここに座って居れば、何人かはシャルロットを人形だと思うのではないだろうか。
「さあ、お話ししましょう。ああ、お勉強もよね。まずはアインヴォルフの貴族のお顔とお名前を覚えましょうか」
そう言って、シャルロットを抱えて自身の膝の上に乗せた王妃は、鼻歌をうたいながら、侍女を手招いた。
「さ、ここに乗ってるひとたちをみんな覚えなくてはいけないから、がんばりましょうね」
「はい、王妃さま」
「もう!お義母さまと呼んでほしいわ。わたくし、今とてもうれしいの」
「ええと、はい、お義母さま」
「かわいい……っ!」
シャルロットは、ひとりひとり、貴族名鑑の絵姿を指して名前を口にした。
そのたびに王妃はシャルロットをほめて撫でた。
よほど楽しいのだろう。ふらりふらりとした音程が、王妃の鼻筋に響いている。
その歌には覚えがあった。ずうっと昔、シャロにアルブレヒトが教えてくれた歌だ。
「わすれないで、おぼえていて……わたしはずっと……」
ほのかに暖かくなった胸は、ぽわぽわとはじけるようなぬくもりに満たされていく。
口ずさんだ歌詞は、王妃が奏でた鼻歌のそれだった。
普通に考えれば、厳しくしかられるだろう。勉強中だといって。けれど王妃は、一瞬戸惑ったように口をつぐんだ後、しかし今度ははっきりと歌いだした。
ふら、ふらと横道にそれそうな旋律は、とても難しい。
それでも、王妃と一緒に歌うのは楽しかった。姉たちと一緒に歌った日々を思い出すほど。
「わすれないで、おぼえていて、わたしはずっとわすれないから」
「ここはあなたの道の先の先。きっといつかやってくるあなたを待ってる」
最後のフレーズを歌い終わると、王妃はふふっ!と笑い声をあげた。
シャルロットが振り返ると、王妃は、先ほどまでの張り付けたような少女の笑みではなく、シャルロットの母がシャルロットに向けるような、やわらかな表情を浮かべていた。
「シャルロット、よく知っていたわね。それは、わたくしの故郷の歌――ずうっと向こうの国の、古い歌なのよ」
「……あっ!お勉強中にごめんなさい」
「…………いいの、それにもう敬語なんかいらないわ。シャルロット、わたくし、アルブレヒトがあなたを愛しく思う気持ちがわかった気がするの」
王妃はそう言って笑った。シャルロットを正面から抱き上げてほおずりする。
シャルロットの頬が赤く火照ったころ、えへん!という侍女の咳払いで、王妃はバツが悪そうに眉を下げて苦く笑った。
「お勉強の続きをしなくてはね。もう少し……ここまで覚えたら、また一緒にお歌を歌いましょう。シャルロット」
「はい、お義母さま!」
シャルロットは、この義母のことを、とても好きだと思った。だから今、幸せだと思った。
そして、それにほっとしている自分に、そっと目を背けたのだった。
その日は日が暮れるまで王妃といっしょに歌を歌った。それは童謡だったり、適当な歌詞で歌う鼻歌だったりしたけれど、そのどれもが不安定な音色で、言ってしまえば調子っぱずれだった。
「おひいさまにも苦手なことがあるんですねえ、お歌を歌うのは、王妃さまもアルブレヒトさまもその、ええと……。でも、おひいさまも苦手なら、今日歌った歌は難しいのかもしれませんね」
アンナが言いづらそうに言った後、あわてて付け足した。
「ああいう、お歌ではなかったのかしら」
きょとんと首を傾げるシャルロットに、アンナは肩をはねさせた。
「おひいさま、まさか知らない歌を?」
「ううん、お義母さまが最初に歌っていた歌は知っていたわ。そのほかは……ごめんなさい、お姉さまが歌っていない歌だから、よく知らなかったの」
まあ。アンナは驚いたように口を開けた。
シャルロット自身、自覚もなく、誰からも聞いたことのないことだったが、シャルロットは、ヒュントヘン公爵夫妻が時を見て自慢しようと思っていたほどの歌の名手だった。
だから、知らない歌をとっさに合わせて歌うことくらい、息をするようにできたのだ。
「では、どうして王妃様のお歌だけ?」
「あれは、アルブレヒトさまが教えてくれたの」
「……ああ……道理で……」
「また、お義母さまとお歌を歌えるかしら」
「ええ、もちろんです。王妃様はあんなにおひいさまを気に入っておられますからね。シャルロット様が望めばきっと」
「……ありがとう、アンナ」
――本当に?
アンナが自室の扉を開けるために後ろを向いた時、目を足元に向けて、シャルロットは思った。黄色いドレスが、差し込んだ夕焼けで金色に染まる。
かつて、ずっと昔に一度見た王妃は、シャロのことをけして見ようとしなかった。
そして、王妃の部屋にあったぬいぐるみ……多くの動物がいたのに、犬だけは一つたりともなかった。
これは、気付いてはいけないことだ。あの部屋に入った瞬間、そう理解した。
――幸せなんだよ。本当だよ。
シャルロットは、頬に手を当てた。くいっと持ち上げて、目を細める。
――幸せにならないとだめなんだよ。
上手に、幸せになりたかった。
今日も、アルブレヒトは来てくれる。シャルロットが本当の意味で息を吸えるのは、アルブレヒトの腕の中だけだった。そんなの、もうごまかせないくらい、わかっていることだった。