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初恋

「シャロ……」


ヒュントヘン公爵に抱かれて眠ったシャルロットが、書類の整理の終わって一息ついたばかりのアルブレヒトの執務室へ入ってきたとき、アルブレヒトは一瞬、歓喜した。

だが、それをすぐに打ち払って、こぶしを握り締めた。



ぐったりと目を閉じるシャルロットの、青くなった顔。血の気がないから、彼女の美しさも相まってまるで本物のビスクドールに見えた。

シャルロットは――いいや、シャロは、鳴き声以外の言葉を持たなかった。

けれど、シャロが死ぬ間際にアルブレヒトに何か伝えようとしていたことはわかっていた。

緑の宝石のような目が、どんどん翳って死んでいく

同時に死にたかった。けれどアルブレヒトにはそれが許されなかった。

手を縛り付けられ、死ぬなと懇願され、だからアルブレヒトは心をどこかに放ってしまった。

だから、こんなにかわいそうなシャルロットを見て喜ぶ自分は、壊れたうえで、もうきっと元通りになることはないのだろう。8年前のあの時、アルブレヒトの心は完全に砕けたのだ。

人として持つべき倫理観をどこかに置き去りにして――シャロ……シャルロットだけが無事ならいいと思い込む。

その実、シャルロットを苦しめて――シャルロットの中身を、自身が占めていることがなによりうれしかった。


「シャロ、ごめんね……」


アルブレヒトは、シャルロットの頬に手を添える。温めようとしたのに、アルブレヒトの手のひらのほうが冷たかった。これじゃあだめだと手を離すと、シャルロットの白皙の頬に、赤いべったりしたものがこびりついているのが視界に入る。

喉が鳴る。胃からせりあがるものを無理やり押さえつけ、アルブレヒトはぐっと手を握った。

――大丈夫だ、シャロは生きている。

シャロは、シャルロットは生きている。アルブレヒトは、犬のシャルと人のシャルロットを区別するつもりなど毛頭ない。どちらもアルブレヒトの唯一で、同じ存在だ。

は、と息をする。呼吸が苦しかった。

ふいに、カーテンが揺れた。生まれ変わりを信じると言った狸が提出してきた書類。それが、開け放した窓から入ってきた風にひらめき、アルブレヒトの足元に落ちた。

――シャルロット嬢と、愛犬殿を同一視してはなりません。

それはシャルロットに、シャロに対する不誠実だ。と、遠回しになじる文面の後には、もはや見慣れすぎて定型文のようにすら思える、貴族の娘らの紹介文――簡潔に言って、婚約を見直せという文言が書いてあった。


くっとせせら笑う――ような顔を作る。

シャルロットが自分のことで苦しんでいるのがうれしい――彼女には笑っていてほしい。

シャルロットの涙のあとが痛々しい――それがアルブレヒトへの想いからだとわかっているから、胸がぎゅうと締め付けられた。

相反する感情を持て余す。

シャルロットのことに関して、アルブレヒトは自分の感情をコントロールするすべを持たなかった。

――ふいに、シャルロットの睫毛が揺れた。アルブレヒトは、そのまぶたが開くのを凝視した。

エメラルドグリーンの、深い虹彩、ゆっくりと、ゆるゆると、現れる、宝石のようなシャルロットの瞳は、生命に満ちて輝いている。

知らず、詰めた息を吐いていた。


「アルブレヒトさま……?」


シャルロットは、目の前のアルブレヒトをみとめると、頬を紅潮させた。いまだに頬についたアルブレヒトの赤い血より、ずっとずっと、鮮やかに見える。


「今日は、王妃さまとお勉強なんですよね……ごめんなさい、遅くなっちゃった……」

「今日は休んでいい。シャロ。ゆっくりお休み。僕がずっとここにいる」


小さな、小さな体。手ももちろん小さくて、アルブレヒトの手のひらにすっぽり収まる。


「きもちい……アルブレヒトさま、もっとさわって」

「シャロ……?」

「おねがい、おねがいご主人さま。ぎゅってして……」


ぐっと起き上がり、空いた片手でアルブレヒトの胸元をつかむシャルロット。小さな体は、おびえるように震えていた。


「……おいで、シャロ」


アルブレヒトは、考えるより先にシャルロットの体を抱き込んだ。暖かい体温に安心する。


「もっと、もっと強くぎゅってして、アルブレヒトさま……離さないで……」

「いいよ、シャロ。僕は君のお願いなら、いくらでも聞きたい」


幼い体の骨がきしむほど、シャルロットを強く抱きしめる。痛いだろうに、けれど、シャルロットはそこでようやく安心して息ができたようだった。


――君のことが大切だ。シャロ。


シャルロットは、きっと、アルブレヒトと一緒に居る限り、何度だってこうやって苦しみを味わうのだろう。

それでも、アルブレヒトはこの小さな仔犬姫を手放せない。

出会ったあの日、泥だらけの仔犬に感じたぬくもり。今になって、やっとその正体がわかった。

……ああ、そっか。


「シャルロット、僕は君に、恋をしている」


アルブレヒトは、もうずっと前から、彼女に、脆弱な心のすべてを明け渡していたのだ。


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